第六十話 人と亜神と科学者 1/3
「彼は……ペンドルトン君は、私が作り上げたルーナーよ」
キセンのその短い言葉を、しかしエルデは理解できなかった。
「はあ?」
そして思わずそう言ったが、エルデはキセンが沈黙を守る間に、ある事に気付いていた。漆黒の瞳を大きく見開くと、その視線を部屋の奥にある大きなスフィアに向けた。それは薄桃色の液体の中に浮かぶ《深紅の綺羅(しんこうのきら)》の棺とも呼べるスフィアだった。
「まさか……」
「私は促成ルーナーって呼んでるわ。言ったでしょ?《深紅の綺羅》の血液には様々な特性があるって」
「まさかお前は……人間に死んだ亜神の……血を飲ませたんか?」
キセンは頷いた。
「それだけじゃうまくいかなくて、私がルーンを記述した小さなスフィアを体に埋め込んで触媒にしてるの。そうする事で一部のルーナーは驚異的に力を増幅できた……」
「こ、この女……」
「やめろ、エルデ!」
わずか一瞬で精杖ノルンを取り出したエルデの、その腕にしがみつくようにしてエイルが黒髪の亜神の動きを制した。額には既に真っ赤な三つ眼が見開かれ、それは怒りに燃えていた。
「離せ、エイル!」
「お前、さっき亜神の配下の話をしたろ?あれと似たようなものじゃないのか?」
「ぜんぜんちゃうわ!」
「違うのか?」
エイルのきょとんとした表情を見たエルデは黒目がちな切れ長の目をつり上げると怒鳴った。
「配下は、亜神が自らの血に特定の機能を持たせて相手に与える、言ってみれば一種のルーンサークル、つまり精霊陣みたいなもんや。主である亜神の意思が込められたエーテルがあるからこそ、正確に精密に、間違いなく機能するんや。何の意思も込められてへん亜神の生の血を飲んだりしたら……」
「どうなるんだ?」
エルデは眉根を寄せると、表情を曇らせた。言いたくはない事なのだろう。
そのエルデの様子を見て、キセンが代わりに答えた。
「亜神の血を飲んだ人間の話、亜神の肉を喰らった人間の話。もうこのファランドールからはほとんど消去されているけど、大昔にはそういう話は伝説としてこの世界には数多く残ってたのよ」
悪びれずにそう言ってのけるキセンに、エイルは思わず顔をしかめてつばを飲み込んだ。
「それって、ひょっとすると……」
「ひょっとしなくてもどこの世界の人間でも同じ。人の感覚では信じられない程の長寿を誇る亜神の力、人とは桁違いの能力……血を飲み、肉を喰らえばそれらが得られるんじゃないかって思うのはまあ、自然な流れよね?フォウじゃ人魚伝説なんかが有名だわ」
「不老不死……だって言うのか?」
「少なくともそういう行為をした人はそう思っていたんでしょうね。亜神狩りが行われた背景は天敵排除というよりも、むしろそっちの方が理由としての割合は大きいのかもしれないわ。もっとも亜神は死ぬとすぐに灰になっちゃう場合が多いから実際に肉や血を食らえた人間なんて、そう多くはないと思うわ」
「下衆どもめ!」
エルデはそう言うと精杖ノルンを高く持ち上げようとした。だがエイルによってそれは再び阻止された。もっともエルデのとんでもない膂力(りょりょく)を考えると、ただのピクシィであるエイルの制止など、枯れ草程の重りにもなりえない。つまり、エルデはまだ自制が充分効いているという事に他ならない。エイルはそれを知ってひとまずは安堵していた。
「でもね。血を飲んだ者は内臓が溶け、肉を喰らった者は体が破裂して皆死んだそうよ」
「え?」
まるで今朝焼いたパンの焼き色の感想を言うような、つまりはきわめて淡々とした普通の声の表情でそう言ったキセンの言葉に、エイルは一瞬動きを止めた。その言葉の持つ意味を理解するのに少しの時間が必要だったのだ。
「まさか、あなたは!」
形相を変えたエイルがそう言ってキセンに飛びかかろうとしたのを、今度はエルデが肩を掴んで引き留めた。
「だから、私は科学者だって言ってるでしょ?本当に毒かどうかを確認するためにとんでもなく希釈したところから実験を始めたわよ。それも最初は人体じゃなくてネズミから実験を始めたわ。次に猫。その次は豚。どれも安全そうな限界点を見つけたから、ようやく人間の臨床実験に取りかかったの。言っておくけど私は科学者だから、不老不死なんて信じちゃいないわ。私がやりたかったのは普通の人間や力の弱いルーナーが亜神の血を使って自分の能力を拡張できるんじゃないかっていう実験なのよ」
「そんなの、学者の勝手な言い分だ。どう考えても人体実験じゃないですか」
「人体実験なのは間違いないわね。でも実験は本人の了承済みよ。同意を得てやったのよ。もちろん亜神の血だなんて言ってないけどね。特別なルーンを練り込んだ増幅薬。でも死ぬかも知れないっていう説明をしたわ」
キセンはきわめて普通の口調で、自分の実験の経緯をしゃべった。いや、その時のキセンの顔はむしろ嬉々とした表情であった。
それを見たエルデとエイルは毒気を抜かれたような気持ちになった。
いや、改めて悟ったというべきであろう。キセン・プロット……いやフォウでヴェロニカ・ガヤルドーヴァと言う名で知られるその女性科学者は決して普通の人間などではない、という事をである。少なくとも普通の人間の感覚で生きているとは思えない。
フォウでまともでない人間は、ファランドールに在ってもまともであるわけがなかったのだ。キセンは人間である前に、ある意味で純粋な科学者だった。
科学と言えば聞こえがいいが、それは一つの宗教の名称と言っていい。優秀な科学者とはすなわち科学という宗教に帰依した狂信者のような者だろう。そんな人間の心に、全く違う価値観を持つエイルやエルデの言葉が響くと思う方が間違いなのだ。
「あなたにはフォウとかファランドールの道徳とか、とにかくそういう普通の価値観をぶつけても無駄なんでしょうね」
「そもそも人として外れ過ぎや。賢者に知れたら、問答無用で処刑対象や」
「知れたら、ね」
キセンはそう言って不敵に笑って見せた。
「ウチがその処刑権を持ってるっちゅう事を忘れたらアカン」
「あら怖い。じゃあ、ここで私を殺すの?」
「気持ちはわかる。オレだってさっきは変な衝動に駆られた。でも、やめるんだ」
エイルはエルデをそう言ってなだめると、キセンに顔を向けた。
「あなたも、そのわざとオレ達の神経を逆なでするような言い方はやめるべきだ。エルデが本気になったらオレくらいの力じゃ止められないんですよ?」
エイルの語気に押されたのか、キセンは肩をすくめて見せた。
「でもね、これはもう科学者としての業なのよ、業。亜神の血液が特殊な素材だって事はわかっていたから、私としてはいろんな仮説を立てたわけ。そうやっていろんな可能性を追求していった中で彼、ペンドルトン君は偶然『そうなった』のよ。もちろん仮説だけで人体実験を行ったのはあなたの言う通りだけどね」
「こいつ、シレっと……」
「押さえてくれ、エルデ。ここでこの人をどうにかしても何にもならないだろ?それより、プロット先生」
「何、アトリの少年?」
「お願いですからエルデに誓って下さい。これ以上その、促成ルーナーを作らないって。あなたがそれを誓えば、エルデはそれをきっと信じます。今までの事も聞かなかった事にしてくれますから」
「あらそう?なら、誓うわ」
「即答か?軽すぎるやろ!」
「あら、誓えって言われたから誓ったのに」
「こいつ……」
エイルにはエルデの歯ぎしりの音が聞こえてくるようだった。
「正直に言うと、そっちの研究はもうやめたの。促成ルーナーが生まれたのは本当に偶然よ。そもそも成功したのは二例だけ。それだって適合したというだけで、ルーンの能力は不安定過ぎる。後は全部失敗。相性ってヤツがありすぎるのよ。そしてその相性を定量的に解析する程、実験の回数を増やせるわけでもない。だからもうやらない。誓うわ」
キセンの言葉が終わるとすぐ、エイルには精杖ノルンが消えたのがわかった。
「エイル、もうええ。手を離してくれ」
そういうエルデの額から、あの赤い瞳は消えていた。
エイルの提案をエルデは受け入れたのだ。もちろん納得はしていないだろう。だが、妥協はしたという事であろう。
「一応、聞いとく。適合せえへんかった人間はどうなった?」
「……」
「プロット教授長?」
エルデの質問に口をつぐんだキセンに、エイルが怪訝な顔で声をかけた。
「ご想像の通り、死んだわ」
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