第五十六話 ロマン・トーン 6/7
ゾフィーはロマンが頷くのを確認すると、壁に向かってルーンを唱えた。長いルーンではなかったから詠唱はすぐに終わった。
「え?」
それは詠唱者だけが感じる「手応え」の差であろう。いつもと違う感覚にゾフィーは小さく声を上げると、確認の為に扉を押した。
しかし、扉はびくともしなかった。
それを見たロマンはエルネスティーネに問いかけた。
「このルーンで閉ざされた扉をあなた方はどうやって開けるおつもりですかな? 鍵をもたないのはお互い様、ではありませんか?」
エルネスティーネはファルケンハインを振り向いた。自分を見つめるエルネスティーネの表情がいつもの柔らかい「ネスティ」そのものだった事にファルケンハインは内心で驚いていた。今のエルネスティーネはきっと厳しい表情をしているものだとばかり思い込んでいたのだ。しかし、そこにはいつも通りの柔らかい笑顔が似合う「ネスティ」がいるだけだった。
「先ほどここに入る時に確認したのですが、あの程度の厚さの煉瓦ならファルの力を使えばおそらく破壊は可能でしょう」
ロマンに向き直ったエルネスティーネはそう言った。
「この部屋に入るときに、リリアさんが壁の厚みを確認していました。その上でルーンで扉を閉ざしたのですから、間違いありません。私がファルの力を知っているわけではありませんが、リリアさんが大丈夫だと判断したのですから、間違いなく破壊できます」
エルネスティーネの言葉を聞いたアプリリアージェの微笑が深くなった。感情に変化があった証拠である。だが、彼女の中に去来する感情がいったいどういうものなのかは誰にもわからなかった。
「なるほど」
ロマンは深呼吸をすると続けた。
「こう見えて実は私も簡単なルーンを使えるルーナーの端くれなのだが、あなたは私のルーンについては何も言わないのだね?」
この問いかけにもエルネスティーネが答えた。
「それは簡単な話です。リリアさんはティアナにロマン様と握手をさせましたが、それはその後のゾフィーとの握手を自然に見せる為だったのです。いきなりティアナをゾフィーに握手させるのは不自然ですから。それにそもそもロマンさんは嘘をついています」
「というと?」
「ロマンさんはルーナーではありませんね?」
「ふむ。どうしてそう思う?」
「私は何人ものルーナーを見てきました。ですから何となくですが、わかるようになりました。ロマンさんは精杖を持っていません。拝見したところスフィアも身につけていないようです。精杖を装飾品に変えることができるのは相当高位のルーナーだと聞きました。精杖もなくルーンの力を溜めておくスフィアも持っていないルーナーはたぶんいないと思いました。ゾフィーも精杖は持っていませんが、スフィアの首飾りをしていますね」
エルネスティーネの説明にロマンは納得したようにうなずいて見せた。
エルネスティーネとロマンとのやりとりを冷静に見守っていたアキラだが、実の所多少混乱していた。まるでアプリリアージェがエルネスティーネの体を借りてしゃべっているかのような錯覚に陥ったのだ。
そのアキラの心中を察したかのようにエルネスティーネはアキラに顔を向けるとにっこりと笑いかけた。
「そう言う事なので、そろそろ本題に入りましょう。簡単に説明すると、エイルの体の中には実は二人分の魂が入っていたのです。一人はエイル。そしてもう一人がエルデです」
「え?」
あまりにあっさりとエイルとエルデの事を告げたエルネスティーネの言葉に、アキラは内容を全て聞き逃してしまったような錯覚に陥っていた。
「体はエイルのもの。エルデの体は『時のゆりかご』にあったのでしょう。彼女はそれを見つけて自分の魂を本来の体に戻したのです。そしてエルデの体はエイルと同じピクシィだった。そういう事です」
「彼女? そういえば男女と言っていたな」
「ええ。エルデ・ヴァイスはピクシィの女の子です。そして」
エルネスティーネは一度言葉を句切ると今度はロマンと向き合った。
冗談の類を口にしようとしているわけではない事は、真っ直ぐに注がれるエルネスティーネの眼差しを見ればロマンにもわかった。
だが次に告げられた言葉は、さすがに俄には信じがたいものだった。
「そして、これが重要な点ですが、そのエルデ・ヴァイスなる者は正教会の賢者なのです、ロマン・トーンさま」
「なんと」
緑色の目を大きく見開いて口を真一文字に結び、ロマン・トーン一等教授を見据えるようなアルヴィンの少女の表情には一点の曇りもない。
加えてエルネスティーネの言葉の信憑性を高めているのはアプリリアージェ達の表情だった。そこには「手に負えないお嬢様が突拍子もない事を口にしている」という雰囲気は全くない。その表情は静かなものだった。ティアナでさえこの場でエルネスティーネにかける言葉はないと決めているかのように冷静であった。
アキラはここに来てエルネスティーネが口にした事実よりも、むしろそれを告げる彼女の姿に感動を覚えていた。とてもただの十七才の娘が持つ存在感ではなかった。
エルネスティーネがシルフィード王国の王女である事を知っているからではない。そんな先入観などが入る余地もないほど、エルネスティーネが纏う「精霊波」はその場を完全に支配しているように見えたのだ。
アキラは思った。エルネスティーネは今までは王女という「本質」を敢えて隠していたのだろう、と。だが、同時にその考えが間違っている事も、旅を共にしたアキラにはわかっていた。
いくつかの経験がエルネスティーネを「王女」にしたのである。いやアプサラス三世亡き今は嫡子であるエルネスティーネを「女王」と呼ぶべきなのだろう。戴冠したのはあくまでも変わり身であり、本物は「こちら」なのだから。
まさに今、王の血族という「種」を内に持っていた少女は、ここへ来て自らそれを「発芽」させて見せたのである。
「賢者、ですと?」
エルネスティーネが口にしたあまりの事実に、絶句していたロマンがようやく唸るようにそう言った。「賢者」という言葉の意味を記憶の奥から引きずり出す事に時間がかかったわけではない。ましてやエルネスティーネの口から出た言葉の真偽を吟味していた訳でもない。目の前のアルヴィンの少女の言葉に嘘はない事はその長い人生に於いて多くの人間と接してきたロマンにとって、確かめるまでもない事だった。
言葉を口にした後で、ロマンは賢者とエルネスティーネの関係に改めて思いを巡らせた。
エルネスティーネがアルヴの国、シルフィード王国の要人である事はもはや間違いないと思われた。だが、そのシルフィード王国の要人と賢者という繋がりがわからなかった。
国内での一切の宗教活動を禁じているシルフィード王国の人間が賢者を「大切な仲間」だと言う。それでは正教会とシルフィード王国の一部の貴族が裏で関係を築いている事になる。
ロマンとてアプサラス三世の急逝については彼なりに疑問を持っていた。あまりに唐突な話だからだ。そこへ現れたシルフィードのおそらくは高位の爵位を持つ貴族が能力の高そうな護衛を伴って「外国」それも緩衝地帯とも言えるウンディーネ共和国連邦にいる。
それが何を意味するのか?
ただ、逃げてきたのか、それとも……。
ロマンの中では結論は出ていなかった。
「嘘ではありません。残念ながら今までは我々の方に嘘と駆け引きが確かにありました。しかしここからは嘘はなしです。私は駆け引きもいたしません。ただ、二人を捜す手助けをして欲しい。それが願いです。なにとぞお聞き入れ下さい」
具体的な話がエルネスティーネの口から出た事で、ロマンもようやく現実に立ち返る事が出来た。彼は小さく息を吸い込むとそれをゆっくりと吐き、呼吸を整えるようにしてから落ち着いた声で答えた。
「しかし、その者がおっしゃる通り賢者であれば、ましてやアルヴ族でないのならばご心配には及びますまい?」
「ピクシィでも、ですか?」
「ルーンで髪を染めたり目の色を変えたりはしていないのですか?」
「エイルはともかく、エルデはきっと瞳髪黒色のままでしょう」
「なぜです? なぜ敢えてそんな目立つような」
「それは……」
エルネスティーネはそこで初めて言葉を濁すと目を伏せた。王者のようにその場を支配していた彼女の「精霊波」が急にしぼむのをロマンは感じ、怪訝な顔になった。
それを見たアプリリアージェが、エルネスティーネに助け船を出した。
「彼女の連れであるエイル君がエルデ……つまり賢者ヴァイスについて、ネスティにある事を言ったのですよ。ネスティはその『ある事』をずっと覚えていたのでしょうね」
「ややこしいお話のようですが、その『ある事』、と申しますと?」
「エイル君はネスティの前でこう言ったのです。『エルデ・ヴァイスには長く黒い髪と漆黒の瞳が他のどの色よりも似合っている』、と」
それを聞いてアキラはあっけにとられたが、浮かんだ苦笑を隠す為にとっさに片手で顔を隠した。
アキラに少し遅れはしたが、ロマンもアプリリアージェの言葉の意味が理解出来たようだった。目の前の少女が、なぜ必死に二人を案じるのかを。
顔を伏せていたエルネスティーネだが、ロマンが言葉を口にするより先に顔を上げて続けた。
「急がねばならないもう一つの重要な理由があります。私達は追われているのです」
「む……」
「エイルとエルデがアルヴ族ではない事はこの際問題ではないのです。私達は訳あってファランドールを旅しておりますが、人待ちで滞在していたヴェリーユで突然、新教会の僧兵達に襲われたのです」
その一言がまたもや沈黙を生み出した。
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