第五十三話 アトリ 1/5

 エルデが見つめるエイルは胸に手を当てて自分の鼓動を確認するような仕草をしていた。

 興奮を抑えようと無意識にしたものなのか、何かを思い出す仕草なのかはわからない。ただ、その手甲で隠れた向こう側、つまり手の甲には、複雑な紋章のような痣が浮かび上がっているのは確かだった。


「『あの』ガヤルドーヴァ先生に名前を覚えてもらってるなんて、友達に自慢できますよ」

「言ったでしょう。そもそもマーヤ・タダスノは特別なのよ。さらに添えられていた君の付帯情報自体が興味深かったから、じっくり読ませてもらったわ。だから名前だけじゃなくて色々と覚えてるわよ。たとえば出身地、遺伝子優性順位、成績、血液型、交友関係や女性関係……って、うそうそ。彼女、そんなに睨まないで。だいたいあなたはわかりやすすぎ」

「女性関係」という言葉を口にした時に目を吊り上げて睨んできたエルデに、キセン・プロットことヴェロニカ・ガヤルドーヴァはそう言って肩をすくめてみせた。

「冗談抜きに言うとマーヤ・タダスノの交友関係は寂しいものよね。ファイルによると君には仲の良い友達と呼べるような相手はいなかった。剣道部で時々しゃべる相手が居た程度ね。それがマーヤ君の言う友達なら、数人の友達がいた、ということね。それとも『プロット4』では仲のいい友達が百人くらいできたのかしら?」

「オレはマーヤ・タダスノじゃありません」

「え?」

「オレの名はエイルです。エイル・エイミイ。オレはもうファランドールの人間なんです。だからマーヤ・タダスノじゃない」

「ふーん。まあいいわ。じゃあ私もヴェロニカ・ガヤルドーヴァじゃなくて、キセン・プロットで通しましょう。こっちはそれでずっと通してるんだし、お互いにそういう事にしましょうか。それにしてもエイル君、君の名前って……」

「どっちにしろ女の名前みたいだって言うんでしょ?元の世界でも、このファランドールでも、その言葉はもう聞き飽きました」

「いえ、そっちじゃなくてファランドールでの族名の方なんだけど……」

「え?」

「その様子だと何も知らないようね。ううん、今のは忘れて。知らないなら別にいいのよ。それよりその名前は自分で考えた訳じゃないんでしょ?」

「ええ、そりゃもちろん。この名前は……」

 エルデの名前を告げようとしたエイルにエルデが合図を送った。握っていた手を痛いほど強く握りこんだのだ。

「あ、いや……」

 その様子を見て、キセンは目を細めた。

「まあ、その話は今はいいわ。どうせ後で思い知ることになるでしょうからね」

「は?」

「それより私が君に聞きたい最重要項目について隠さず答えて頂戴」

「最重要項目?」

「ええ。それこそが私が一番知りたい事。いったい君は、どうやってこの世界にやってきたの?」


 エイルとエルデは思わず顔を見合わせた。

 キセンの言うとおり、二人の異世界人が邂逅したのだ。それは確かにその場合における最優先項目に間違い無かった。そもそもエイル自身、キセンが何の目的でこのハイデルーヴェンに、いや、ファランドールに居るのかを知りたくない訳がない。

「この際、嘘やごまかしはなしで行きましょう。私は元の世界に帰りたいのよ。帰る方法をここでずっと探し続けているの。君だってこんなところにいるより、早くプロットに帰りたいんでしょ?君がここにやってきた理由がわかれば、帰る道筋が見えるかも知れないのよ。君が見つけられなくても、君が持っている情報があれば、私ならそれがわかるかもしれないわ」

「いや、それって……」


 エイルは自分が持っている思惑が的外れであったことをそのときに知った。

 キセン・プロットを名乗るフォウの住人、ヴェロニカ・ガヤルドーヴァは、自分の意思でここにやってきたものだとエイルは思い込んでいた。だからキセンは二つの世界を自由に行き来できる存在なのだと勝手に決めつけていたのだ。

 ならば、キセンはどうやってファランドールに来たというのだ?やってきた方法がわかれば、その逆で帰れるのではないのか?

 少なくともエイルは「時のゆりかご」でファランドールとフォウが繋がる「道」を見た。ファランドールに移動した時の事は記憶に無いが、おそらく同じような「道」が通じたのだろう。そしてその道は一人のルーナーによって作られたものだ。つまりエイルはエルデが使った呪法で強制的に異世界に召喚され、その呪法が解けた時に召喚路とも言うべき「入り口」もしくは「道」が開いた。出現したあの通路に足を踏み出していれば、エイルは今ここにはおらず、本来の糺野真綾という名前の人間としてフォウに存在しているはずであった。

 エイルはしかし、いつしか異世界であるファランドールとフォウの通路は意外に多く存在するものだと確信していた。

 自分が簡単に来られたのだ。そしてそもそもファランドールには「フォウ」という異世界の概念が存在する。それ自体が「異世界」の存在を証明するものであるし、エイル以外の、おそらく複数の「異世界人」が過去に確認されていたと考えるのが自然であろう。

 果たして過去に何人の「異世界人」がファランドールに存在していたのかエイルには知るよしもない。しかし自分だけではないはずだという確信はあった。

 だから時のゆりかごでシグ・ザルカバードに「二度と帰れなくなる」とは言われたものの、本心から「帰りたい」と思いさえすれば、可能性がないなどとは思っていなかったのだ。

 エイルにとってその一つの回答、いや証明とも言えるのがキセン・プロットの存在であり、キセンの正体、すなわちその研究内容を知れば、彼女が二つの世界を行き来していたとしても驚くには値しないと考えていたのである。

 だが、それはどうやら都合のいい思い込みで、キセン自身、エイル以上の「迷子」である事が判明したのである。


「プロット先生は自分の意思でやってきたわけじゃ、ないんですか?」

 エイルは念のためにそう尋ねた。

「じゃあ聞くけど、あなたは自分の意思でやってきたとでも言うの?」

「いえ、それは……」

「そうよね。あなたが『アトリ』でもさすがにそれはないわね」

「アトリ?」

 キセンが口にした言葉に、エイルは聞き覚えがなかった。だが、それが自分の事を指す言葉である事だけは言われなくてもわかった。

 キセンはしまったと言う風に小さくため息をついた。おそらくフォウ、いや「プロット4」では機密事項か、それに準ずる何かなのであろう。フォウに居た時、特殊な場所、つまり「プロット4」という閉鎖された都市空間で囲い込まれて暮らしていたエイルは、そんな「秘密」にはもう慣れっこだった。

 秘密と機密を編み込んで構築された町、それが「プロット4」である。いや「プロット4」だけではない。フォウの各地に点在していた全ての「プロット」は例外なく「秘密」というシナプスが絡み合った場所なのだ。

 通っていた学校でさえ様々な噂が飛び交っていた。エイル自身はそんな噂話にはさほど興味を持たなかったが、耳に入ってくるものは仕方がない。表向きの「プロット4」の目的とは明らかに違う「真の目的」やら「裏の目的」等々もったいぶった名称で呼ばれるそれらの憶測は枚挙に暇がない。そこにはまた別途様々な名称が付随しており、それぞれもっともらしい理由で修飾がなされていた。

 だが、エイル……いや「プロット4」で暮らしていた学生、糺野真綾の知る限り「アトリ」という言葉がそんな秘密の記号の一つとして学生達の口の端に上がった事はなかった。

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