第五十二話 もう一人のマーヤ 1/4
エイルとエルデは固唾を呑んでキセン・プロットの素顔が露わになるのを待っていた。
扇はゆっくりと下げられ、ついにその顔が二人の前に晒される事になった。
「う……」
露わになったキセン・プロットの顔を見て、嫌な物を見るように眉根を寄せた。
「まさか……いや、でも……」
エイルはそこまで言うと、次の言葉を飲み込んだ。
一方エイルは目を見開いている。
「あら。私の顔に何かついてる?」
そういうわけで、相手に先に声をかけたのはキセン・プロットの方であった。
「あ、これ? 目立つけど、これはれっきとしたほくろよ。化粧じゃ消せなくて。言っておくけどゴミじゃないわよ」
プロットはそう言うと左目の目尻の下あたりを指さして見せた。そこには二つの泣きぼくろが並んでいた。髪と瞳の色を除くと、その左目の目尻の下にある二つのほくろはキセンを特定する大きな特徴だと言えた。
「……」
無反応な二人を見てキセンは小さくため息をついた。
「初対面の相手に対してだんまりはないでしょうに。何とか言ったらどうなの?」
言葉ほど気にした様子もなく、キセンは二人のうちエイルに的を絞ると自分を睨むようにしているエイルに視線を絡めた。
「それとも私がご覧の通りかわいらしすぎて見とれているのかな?」
意外にもその質問に対して、エイルの反応は早かった。
「いえ、それはありません」
「即答? それもずいぶんな言いぐさね。少年は社交辞令という言葉を知らないの?」
「いやいやいや、そう言う意味じゃなくて……確かに驚いたのは本当ですが、それはこっちの話でして。なので気にしないで下さい」
「ふーん。本当に私のかわいらしさに驚いたのではないの? ひょっとしてその彼女に遠慮してる? でもこういう事って正直に言ってもいいのよ?」
「いえ。かわいらしい……のかもしれませんが、かわいらしさに驚いたのではなくて、その……髪の色とかがちょっと珍しいもので……すみません」
エイルはそう言って頭を下げた。
エルデは頭を下げたエイルの服の裾を引っ張ると小声でそう言った。
「あほ。謝るところやないやろ」
「なんだよ」
エイルが問いかけると、エルデの耳元でささやいた。
「『気にしないで下さい』やないやろ? 気にするやろ? あいつはいったい何やねん、髪の毛が青緑やん」
「そうだな」
「そうだなって……髪の毛だけやのうて瞳の色まで青緑やん?」
「そうだな」
「『そうだな』ばっかりやな」
「そうかもな」
「あのな」
「変化させてみた」
「――瞳が緑系やのに耳は尖ってないからアルヴやないし……遺伝学的にデュナンやデュアルにあんな色の瞳は生まれへん」
「らしいな」
「髪の色は染めてるんやろけど、そもそもあんな悪趣味な色に染める人間がこの世におるとも思えへん」
「だな」
「相づちばっかりか……って、さっきから妙に冷静やな。いや、なんか上の空なんか? とりあえずここは興奮してええとこやで? さすがにアレはあり得へんやろ? デュナンの外見で青緑の髪とか目とか……おまけに左右にお下げ? しかもあんな高い位置で? こいつ、ホンマにデュナンっちゅうか、そもそも人間なんか?」
「オレに聞くなよ。そもそもエーテル体じゃなくて人間だって言ったのはお前だろ」
「そういう事を言うてるんやのうて」
「そういう事を言っただろ?」
二人の口論はひそひそ声から始まった物だったが、いつしかお互いに普通の変わっていた。もちろんその場にいる人間であれば誰にでも聞こえる大きさである。つまりは彼らが話題にしている当人の耳にもその声は届いていたという事である。
「はいはーい。私を無視して私の部屋で勝手にけんか始めないでくだサーイ」
青緑の髪と目の女デュナンはそう言うとパンパンと手を叩き、やる気のなさそうな声で注意を喚起した。
「あなたたちの疑問にお答えしマース。もちろんこの髪はもともとの色じゃなくて特殊な方法で染めているし、瞳の色も元の色じゃなくて、色つきコンタクトレンズでーす。髪の色とおそろいにしてみましター」
「ですよね」
エイルがそう返すとエルデがまた服の裾を引っ張った。
「いや、ですよね、とか……それよりコンタクトレンズって何?」
キセンの言葉の中にあった未知の言葉にエルデはすぐに反応していた。むしろその反応は遅いとも言えた。なぜならキセン・プロットという人物は当初からエルデの知らない言葉をいくつも口にしていたからだ。エルデにしてみれば、それらは持っている知識・常識を当てはめても特定どころか輪郭すら推し量れないもののように思えていた。言い換えるならば、要するにキセン・プロットという人間はエルデにとって何もかもが得体が知れないのだ。
だが、エルデの疑問に対する答えは思わぬ方向から得られた。隣にいるエイルからである。
「コンタクトレンズっていうのは直接眼球、瞳の上にかぶせる小型で薄いレンズだ。本来は視度調整の為のもので、メガネの代わりになるっていう矯正装置なんだが……」
「え?」
確かにエイルに投げかけた疑問ではある。だがそれは同じ疑問を共有する為の問いかけのようなものだ。それこそ「そうだな」という相づちを期待した疑問にすぎなかったのだ。しかし思って見ない「回答」が返ってきたのである。
「――しまった!」
思わずそう声が出た。
エイルはエルデに対する説明の途中で自分の大失策に気付いた。しかしもちろんそれは後の祭りであった。
「あらあら、最初の一言で引っかかるなんて拍子抜けね。というか、君は絶対悪人にはなれない性格ね。もしなってもせいぜい使いっ走りどまりよねえ」
耳よりもかなり高い位置で左右それぞれに束ねられた長い髪を自分でなでつけながら、キセン・プロットはエイルにそう言うと、邪気のない笑顔を見せた。
「あなたは私の顔に見覚えがあるって事でいいのよね?」
「え?」
驚いたのはエルデであった。
「なんでアンタとエイルが面識あるんや?」
エルデは不安そうにエイルを見ると、服の裾を握る手に力を入れた。
エイルの態度、そしてキセンの素顔に見覚えがある、エルデにとって未知の言葉。
それはつまり、キセン・プロットがフォウの人間だという意味になる。エイルがこの世界に入り込んでからこっち、エイルだけが知っていて、その体を共有していたエルデが知らない人物など基本的に存在しないはずなのだから。
「信じられないでしょうけど、目の前にある事実を受け入れなさいな、少年」
エイルはその言葉には反応せず目を閉じたが、エルデは無言でまたエイルの服の裾を引っ張った。
何か言え、という合図だろう。
エイルは逡巡していた。
沈黙したのは言葉を選んでいたのではない。自分の失策をただ呪っていたのだ。そしてシラを切り通した方がいいのか、素直に受け入れるべきなのか、それを迷ってもいた。
(いつもならこんな時……)
そこまで思ってエイルは自嘲した。
今まで、つまり頭の中にエルデが居た時には、声に出さずに相談ができた。それもかなり、いやこれ以上はないほど頼りになる相談相手とである。エイルは今更ながら、今まで無意識に行っていた頭の中での会話というものがいかに便利なものだったのかを思い知らされていた。そもそもエルデの意識が抜けた後も、つい頭の中で会話を構築する癖が抜けきっていなかった。そのたびに自嘲するわけだが、その都度自分が今までいかにエルデに頼っていたのかを思い知ることになり、その自嘲が深くなるのが常だった。
便利という言葉を使ったが、実はそうではないことをエイルは理解していた。エルデに頼る事はエイルにとって「楽」だったのだ。依存と言い換えてもいい。ファランドールに於ける異邦人であるエイルは、最終決定をその世界の人間に委ねる事で逃げていた事を自覚しているのである。
だが……。
エイルは決めたのだ。それも自分の意思で。フォウの人間ではなく、ファランドールの人間として生きてゆく事を。それはエルデへの依存心との決別でもあったはずである。心の中でそれを密かに誓っただけではない。時のゆりかごで《真赭の頤(まそほのおとがい)》ことシグ・ザルカバードに向けて既に言葉にして宣言していた。頼れる相棒たるエルデが側に居なくとも、自分の足でこの世界の土を踏みしめ歩むと決めたからには、判断すべき事や決めなければならない事がこの先いくらでも出てくるという事に他ならないのである。
そして今が「その時」なのだ。
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