第四十二話 沈黙の陣廊 1/3
メラク・ガーデルが標的を取り逃がしたという報告を受けたシーン・ジクスは、補佐官にいったん全部隊を撤退させるように命じると、《陣廊》と呼ばれる部屋から外へ出た。その表情には苦々しいものが浮かんでいた。だがそれは逃げられたという賢者、つまりラウ達に向けられたものではなかった。
とは言えシーンとしてもまさか逃げられるとは思ってはいなかった。それだけにメラクからの報告にはもちろん驚いたが、不思議な事に悔しいという感情はさほど湧いてこなかった。それよりも周到な包囲網を敷いていたにも関わらずそれを破って見せた相手に対して、むしろ痛快なものを感じていた。だから二人の賢者のうち、若いアルヴには致命傷を負わせたという報告が残念に思えていたほどである。
「《二藍の旋律(ふたあいのせんりつ)》、それに《群青の矛(ぐんじょうのほこ)》という名だったな」
あぶり出しの役とは言え、あっと言う間に煙に巻かれたシーンの部隊は、ラウ達と直接対決したわけではない。だが、全く無防備な状態からルーンを使わずその場を切り抜けた機転には素直に感心していた。
「密書にはそう書かれておりました」
側近がシーンの質問にそう答えたが、それを聞いたシーンはため息をついた。
「あれは密書ではない。怪文書と言うのだ」
「はあ」
「で、なければ密告書だな。いったい誰が寄越したものか……」
シーンが単身、隠密行動でヴェリーユの下町を巡回しているところに、突然一人の巡礼の旅人が近づいて差し出してきたのは、金箔が押された見るからに贅沢な封筒だった。
その中に入っていたのが、シーンの言う怪文書である。
封筒同様、品のいい金箔の装飾が施されてある便せんには癖のある筆跡で、簡単な言葉が記されていた。
『毎日午後三時頃、南三番街のカフェに正教会の賢者が珈琲を飲みにやってくる。
どちらもアルヴの女で年長者の名は《二藍の旋律》。年下が《群青の矛》
だがおそらくそれも今日が最後。
彼女達が出立する前に、挨拶などいかがか?』
もちろんシーンは、差出人を訪ねた。だが封筒を持参した信者の言葉は要領を得ない。気がついたら封筒を持っていて、シーンに渡さなければならない事だけを覚えていたのだという。
(怪しい)
およそ普通の人間ならそう思うだろう。シーンも当然ながらその内容には眉につばを付けて当たるべきだと考えた。
そもそもこれは陰謀ではないのか?シーンには外部ではなく内部に敵が多い。出世にはやる輩が、何か事があれば、すぐさまシーンの足を引っ張ろうと手ぐすねを引いて待っているのである。下手な失策をすればそれこそそこにつけ込んで愉快ではない事態にしばらくつきあう羽目に陥るだろう。
きな臭いものを感じつつも、違和感もあった。
シーンは今一度封筒を吟味した。
封筒も便箋も、その辺で手に入るような実用本位の安物ではない。しっかりとした厚みがある白い紙は庶民がおいそれと買うような値段ではなく、ましてや箔を押している揃いの封筒と便箋など、シーンの常識では高級商人や一部の政治家、もしくは金に困っていない貴族くらいしか使わないはずであった。
思いついて少し封筒に顔を近づけたシーンは、そこに仄かな香りを見つけた。どうやら香が焚きしめられているようだった。近づけないとわからない程度ではあるが、息を吸い込むと確かに花の香りがするのだ。シーンも知っているそれは、まさにバラの花の香りであった。
しばらく思案した後、シーンは挑発に乗ってみる事にした。彼が知る限り、手紙一枚にここまでの粋を凝らす「敵」はいないはずであった。この手紙に記されている内容が本当であれば、それを知りながら見過ごしたと言われる方がよほどやっかいであった。
守備隊の隊長という立場を利用して、シーンは行動を起こした。小隊を率いる人間には、彼の息のかかった人間、つまり信頼できる部下だけを投入した。本来ならば逃走経路と思われる場所に人員を配するにしても、より密度を高くしたかったのだが、後々の事を考えると数よりも質を選ぶ方がいいだろうと判断した。懸念があるとすればそこであったが、そもそも体制を万全にするほどの余裕はない。そもそもシーンでなければ短時間であれほどの部隊配置を終える事は出来なかったであろう。
なんとか準備を整える事が出来たシーンは、南三番街のカフェが見渡せる向かいの宿の一室からまずは様子を見る事にした。
果たして指定した時間になると、それらしい二人組がテーブルに着いた。
少し観察をしたが、二人の女アルヴは特に何をするでもなく、時折会話を交わしながら通りを行き交う観光客や巡礼者を眺めているだけのようだった。ただ眺めているだけではなく、それは行き交う人々の中から目当ての人物を探している風にも見えた。
念の為に周りを観察したが、特に怪しいと思える人影もない。手紙の主がどこからか観察しているはずだとシーンは確信してはいたが、どこから見ているのかまでは当然ながらつかみようがなかった。
いったい誰があの「怪文書」を届けたのかは大いに気になるところではあったが、手紙に書かれた内容がどうやら全くのでたらめではないとなると、彼の立場としては行動を起こす必要があった。要するに腹を決めたのである。
回廊を通り大聖堂へと向かいながら、シーンは今し方までの出来事を回想していた。
シーンがもし失敗したとするならば、それは人員配備や作戦そのものではなく、事前に副堂頭に事の次第を報告しておかなかった事であろう。
もとより怪文書である。事の真偽を確認した後、つまり賢者とおぼしき人物を確保した後に事後報告とするつもりだったのだ。
だが、それがシーンにとって思いがけない事態を引き起こす事になってしまった。つまりそれこそがシーンの苦り切った表情の原因であった。
そう。シーンの機嫌の悪さは副堂頭に向けられていたのだ。
だが、シーンのいらだちは筋が通ったものではなかった。副堂頭がシーンのやっている事を知っているわけではなかったのだから。
そもそもシーンは、突然現れた新しい副堂頭が最初から気に入らなかった。
いや、彼に言わせれば副堂頭などという役職が突然降って沸いたように設置された事からして異常なのだ。
堂頭自らがアプサラス三世の大葬に出席するためにシルフィード王国に行幸する間、ヴェリーユの一切を代行する人間が必要だと言われればそういうものかと思わないでもない。しかも堂頭自ら指名した副堂頭である。
だが、それならばヴェリーユの事をよく知る人物で、かつ多くの人間が納得できる人物が留守居に当たるべきであるはずだった。
つまり大神官の立場にある人間が指名されてしかるべきだと思っていたのである。いや、今でもシーンはそう思っていた。
なぜなら副堂頭として指名された人物のやり方が、シーンはどうにも気に入らなかったのだ。
カテナ・ノルドルンドと名乗る、すなわち堂頭と同じ族名を持つその青年の事をシーンははじめから好きになれないでいた。
ヴェリーユでは様々な噂が飛び交った。
もとよりノルドルンドという族名はそう珍しいものではない。ウンディーネの西部に広く分布している古い一族に端を発する族名である。堂頭のミンツもその地方の出身であると聞き及んでいる。
だが、僧正達の間では、カテナはミンツの血のつながった息子ではないかという見方が大勢を占めていた。神官達ならばそのあたりの事情を知っているはずであったが、彼らは決して僧正達に対して上層部の秘密に属する事柄を話す事はない。
シーンの中でくすぶっていたその不満は《陣廊》に足を踏み入れ、その中の変わり果てた様子を見て、その原因がカテナ・ノルドルンド副堂頭に在ると知らされた時に頂点に達したと言える。
「こんな時に、副堂頭は何を考えていらっしゃるのだ?」
既に述べたとおり、カテナの言う「こんな時」という行動は副堂頭の知らぬ話であった。現在、陣廊に関する全権が副堂頭にある。シーンの怒りはある意味的外れだという事も出来た。
とは言えヴェリーユの目であり耳であり口でもある陣廊は、守備隊の行動には無くてはならないものだった。その守備隊隊長であるシーンに一言もなく、精霊陣感知にあたっている高位ルーナー達をごっそり連れ出す事は看過できる事ではなかった。
「それで、副堂頭はそれほどの人数のルーナーを連れだって、いったい何処へ向かわれたのだ?」
陣廊にわずかばかり残っていたルーナーの一人に、シーンはそう尋ねたが、その初老の女デュナンは首を横に振るだけだった。
彼女たち数人は陣廊に残るように指示されただけで、それ以外の事は何も告げられていないという。ただ、副堂頭本人が複数名の神官と大僧正を伴って突然現れ、緊急かつ重要な任務が発生したという名目で、陣廊役である多くのルーナーを引き連れていったという。
「カテナ様はそこまで大人数のコンサーラを何に使われるおつもりなのだ?」
もちろん残ったルーナー達がそれを知るはずもなく、皆首を横に振るばかりだった。
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