第三十九話 黒い豆スープ 2/2
そんな二人のやりとりを、アプリリアージェは微笑みながらも複雑な思いで見つめていた。
エイルが厨房から戻る前にエルデが言っていた事は、アプリリアージェも一人の「人」としてよくわかった。
もとよりアプリリアージェは自分が口にした言葉、つまりどちらも公平に応援するという宣言に嘘は込めていないつもりだった。
だがエルデ・ヴァイスという少女の正体を知ってしまった後では、何の先入観も持たずにエルデを見る事はもうできないだろう。
ならば人であるエイルが二人のうちどちらかを強く抱きしめたいと思った時、手を伸ばす相手はエルネスティーネであるべきではないだろうか?少なくともそうなる方が自然である事に間違いはない。
だが、たった今エルデがエイルに対して見せた無防備な笑顔を目にすると、アプリリアージェは胸が詰まった。
これほど平和で他愛ないやりとりが出来る二人ならば、相手が人だとか亜神だとか、そんな事はどうでも良い事のように思えてくるのだ。人と亜神はいったい何が違うのかわからない。そう「錯覚」してしまう。
アプリリアージェはさらに思った。
エルデのこんな飛びきりの笑顔を、これからもずっと見ていたいと、エイルが欲するのであれば、私は心からその選択を祝福したいと。
もちろん、エイルはエルネスティーネの優しいエーテルに満ちた、あの暖かい笑顔の方を選ぶかもしれない。
だが、エイルはエルネスティーネの事を本当はまだ何も知らないのだ。知っているのはネスティという名の、旅の少女の笑顔だけだろう。
だからこの場合、すなわちエルデかエルネスティーネかという二者択一の場合に限っては、エイルが「人ではないもの」ではなく「人」を選ぶ事は、自然であるとしても正しいとは言い切れない。少なくともエイルにとってその選択は必ずしも幸福を約束するものではないからだ。
それはもちろん、エルネスティーネが人ではあるものの、「ただの人」ではないから、である。
エルデの存在も、もちろん特別である。しかしエルネスティーネは「人」として「人」の中で特別な存在なのである。それは全ての人が等しく特別視せざるを得ない「天敵」であるエルデの特別さとはまったく違う意味を持っていた。
アプリリアージェがエルネスティーネの護衛としてアプサラス三世から指名されたのは、その能力ゆえではない。エルネスティーネの正体とその存在の意味を知る人間だからである。だから、エルネスティーネとエイルの間に特別な関係が生じても、それが長続き出来ない事を危惧していたのである。人と短く過ごすのか、人でない者と長く一緒に過ごすべきか。
どちらにしろそれはアプリリアージェが決める事ではない。なるようになるべきなのだろう。だからどちらにも肩入れはしない。決めるのはエイルであり、エルデであり、エルネスティーネなのだから。
つい数十分前までその部屋を支配していた恐怖と絶望に満ちた暗黒のエーテルは、今はもうその片鱗も感じられなかった。
そこに流れるのは穏やかでゆったりとした空気で、まるで休日の昼下がりに一つの家族が揃う日当たりの良い居間のような居心地の良さに満ちていた。
もちろんそれは今同じ部屋に集う四人が纏っているそれぞれの平和な精霊波が同調し合って作り出している空気なのは確かではある。だが肌に触れるこの暖かさは意識・無意識の別を問わずもっとも影響力のあるエルデの気持ちからにじみ出た精霊波が支配・制御した温度なのだと、アプリリアージェは確信していた。
そしてそのエルデの精霊波に影響を与えているのは「人」であるエイルなのだ。
(ならば……)
アプリリアージェは思いを巡らす。
ならば「亜神」とは何の為に生まれたのだろう?
エルデを見ていると「亜神」という種は滅びの道をまさに目ざしている気がするのだ。人と融合して滅びる運命にあこがれさえ抱いている存在ではないのか?
マーリンはなぜそのような存在をわざわざ「人」の後に作ったのだろう?
人と交わり、人に紛れて溶け消える可能性が大きな種を。
アプリリアージェのその純粋な探求心を、エルデはいつか満たしてくれるのだろうか?
そんな事をぼんやりと考えながら、ゆったりとした気分に意識を任せていたアプリリアージェの五感が覚醒したのは、エルデがついに八杯目を平らげて降参の白旗を揚げた時だった。
部屋の外に数人の足音が響き、アプリリアージェの表情に緊張が走った。
テンリーゼンは既に懐の懐剣を手にして走り出していた。おそらくは武器を置いている自室へ向かったのだろう。
エルデも顔を上げて扉に顔を向けた。
エイル達は互いに声を掛け合う時間も与えられなかった。すぐに扉が開いたのだ。
「メリドさん?」
入ってきた人物が見知った顔である事を認めたアプリリアージェの声にはさすがに安堵の色があった。
「これは!お戻りでしたか!」
「いったいどうしたんです?」
扉を開いたメリドの後ろには二人のアルヴがいた。
アプリリアージェは怪訝な顔をそのメリドの連れに向けた。
二人のアルヴは同じような黒っぽい旅装をしており、うち一人はもう一人のアルヴに背負われている格好だった。
「大けがをしているのです。事情があってお連れしました」
「事情?」
アプリリアージェはエルデ達を振り返ったが、エルデの状態を見て内心で舌打ちをした。
(しまった!)
エルデが片手で鼻と口を覆い、目を閉じてうずくまっていたのだ。
それを見かねたエイルが、まさに今エルデの肩を抱こうとしていた。
またしても部屋に邪気の渦が広がろうとしていた。
けが人の血の匂いが、エルデを刺激したのである。
「エルデ、大丈夫か?」
声をかけたエイルがエルデの肩に手を当てた瞬間、その手はエルデによって掴まれた。エイルはエルデが尋常な状態ではない事にすぐに気づいた。
手を掴むエルデの力が異常に強かったのだ。
「え?」
気付いた時には、既に遅かった。およそ人間とは思えない程の圧倒的な力によって、エイルは大きな衝撃を背中に伴って床に押さえつけられていた。
何が起こったのかわからぬまま、エイルは天井が視界にあるのを認めた。
「だめです、エルデ!正気に戻りなさい!」
現状把握も出来ないまま、エイルの耳にアプリリアージェの怒鳴り声が聞こえた。焦って取り乱しているかのような、いや、むしろ悲鳴に近いその声は、彼の知るアプリリアージェから発せられたものとは思えなかった。
珍しい事もあるものだという考えが、ようやく異常事態を告げる警報に変わったのは、その直後だった。エイルは部屋に充満している言い表しようのない邪気のようなものをようやく肌で感じた。だが、それは気づいたのと時を同じくしてすぐに消えていった。
その場で起こった一連の状況を全て把握できている人間はいなかった。
それぞれがそれぞれの持つ情報の中で混乱をきたしていただけだった。
部屋の中の様子を見たラウ・ラ=レイは、床にうずくまる黒髪の少女をエルデと呼びかけるアプリリアージェの声を聞き、久しぶりに見る彼女の姉妹弟子であるエルデの姿を認めた。だが、ラウの認識ではエルデであったはずのエイルもその側で倒れている。いや、目の錯覚でなければ、いままさにエイルはエルデによって床に組み敷かれていた。
「エルデか!?それに、エイル?」
「ラウか」
エルデは声の主を見上げると、のろのろとエイルの上から離れ、口と鼻を手で隠したまま答えた。
「エルデ?」
アプリリアージェはおそるおそる声をかけたが、邪気が消えた事で一応の安心はしていた。
「おおきに。リリア姉さんのおかげで助かったわ。今は一応、大丈夫や」
エルデの言葉を受けて、アプリリアージェはすぐさま次の行動に移った。すなわち、その場の混乱の収拾に乗り出したのである。
「ラウ・ラ=レイさんでしたね。とにかく怪我人を一番奥の部屋へ運んで下さい。メリドさんはここに残って事情の説明を。エイル君はそんなところにいつまでも寝ていないでラウさんを案内してください。それから、これは重要ですが、何か匂い消しになるものを探してきて下さい。例の付き人に気づかれても面倒ですし、刺激が強い人もいるようです。この部屋から血の匂いは消しておきましょう。それからリーゼは扉の外の哨戒を」
アプリリアージェの言葉が終わらないうちに、すでにテンリーゼンは扉の脇に立っていた。アプリリアージェはそれを見てにっこりと微笑んだ。
アプリリアージェのその指示を聞いて、エイルはある重要な事を思い出した。
「そうか、嗅覚が戻ったから……でも……」
「ぼんやりしない!急いで!」
仰向けになったままのエイルに、アプリリアージェの鋭い声が刺さった。エイルは反射的に起き上がると、扉の近くにいるファーンを抱きかかえたラウと目が合った。
「こっちだ」
そう言って二人を先導して居間を後にしたが、チラリとエルデの方を振り返る事は忘れなかった。
組み敷かれた時、一瞬だったが額にかかる黒い髪の間から、エルデの三番目の赤い目が見えたのだ。
いや、その事よりも、なぜいきなりエルデに組み敷かれたのかが不明だった。しかもそれは圧倒的な腕力差によるもので、エルデに掴まれた右手の痛みがまだ消えない事がそれを証明していた。下手をすると手の骨が砕けていた可能性もあった。いや、その前に腕の関節が抜けるか、悪くすれば筋肉がちぎれていたかもしれない。それを免れたのはエイルに体術の心得があったからである。とっさの事ではあったが逆らわずに投げ飛ばされる方向へ体を向けたのだ。それはほとんど無意識による反射だった。長く続けてきた稽古が彼の体を動かしたのであろう。
(二度と剣など手にしないと決めていても、俺は骨の髄まで剣士だって事か)
エイルはほぼ完全に戻っている記憶のとある場面を思い出すと顔を歪ませた。勿論エイルの表情を見た者はいなかった。同様にエイルの自嘲気味の独り言を聞いた者も。
エイルは小さく頭を振ると、自らの使命を果たすべく奥の部屋に急いだ。
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