第三十七話 天敵 1/3
化け物。
その言葉は無意識下で口にされたものであったのだろう。
アプリリアージェは、言葉が口から出た瞬間に心の中で舌打ちをした。
だが、おそらくはこれほど適切で当を得た表現はない。同時にそれは、この場で口にするもっとも不適切な言葉でもあった。
既にその言葉を口に出してしまった事を後悔しながらもなお、アプリリアージェはそう感じていた。
しかし、それを理性の力を借りてなんとか訂正しようとしても、口が動かない。舌は縮み上がり、喉の奥に巻き込まれたようで息苦しくさえあった。
言葉が出せないのであれば態度で意志を現さねばならない。そう思って手を動かそうとして愕然とした。動かないのだ。
アプリリアージェは自分の体全体が金縛りにあったような状態になっている事にようやく気付いたのである。
アプリリアージェの目の前に立っていたのは、断じてエルデ・ヴァイスではなかった。
少なくとも「それ」は 彼女の知る「人間」とは違う生物だという事を理屈抜きに感じていた。
額に第三の目があるとか無いとか、もはやそういう問題ではなかった。もちろん、額に目がある事が正常だと思っているわけではない。賢者が持つ第三の赤い眼には謎がある。しかし、ラウ・ラ=レイにしろファーン・カンフリーエにしろ、そこに人間ではない何かを感じる事はなかった。
第三の目の存在など、些細な事に思えるほどの違和感、いや拒絶感がアプリリアージェの本能から湧き出していた。目の前にいるこの存在を、人間だと思えと言う方がどうかしているとさえ思える。
かつてアプリリアージェが知っていた「エルデ」であったその存在は、そこまで異常なエーテルを発していたのである。
それだけではない。
エルデ・ヴァイスが自らの体で目覚めてから、アプリリアージェが初めて見る第三の眼の禍々しさはどうだ?
額にある三番目の目だけではない。大きく見開かれた二つの漆黒の瞳にも殺気がみなぎっているのだ。
いや。
正しく形容するなら、それは殺気ではない。
そんな生やさしい言葉で今感じている恐怖を言い表すのは、自らの矜持に悖(もと)るとアプリリアージェは本気で感じていた。
邪気とでも言おうか。おぞましい気で構築された存在。そんな陳腐な言葉しか出てこないのである。目の前に居るその恐ろしい生物は、今まさにアプリリアージェを生きたまま容赦なく捕食しようとしていた。
だが、それに抗う術がない……。体は全く動かず、思考もほとんど働かないのだ。
蛇に睨まれたカエルの気分とはまさにこの事なのだろうと、妙なところで納得する自分がいた。かつて天敵を前に動けなくなるというカエルを、アプリリアージェはばかばかしい存在だと思っていた。たとえ敵わぬとしても、なぜ抗わないのだ、と。逃げられないのなら戦うべきだ。全てを放棄してなすがままなどと、アルヴの血が巡る彼女には全く存在しない選択肢だったのだ。
だが、動けず、ただ呑まれるだけのカエルの気持ちを今、嫌と言うほど実感している自分を見つけてしまった。そこにはもう悔しいとか、ましてや矜持などと言う言葉は何の意味も持たない、ただ暗い深淵があるのみで、アプリリアージェはただ底知れぬ絶望に落下していくだけだった。
それほど……エルデの顔は完全に面変わりしていた。
ある種神々しささえ感じるほどの美貌はそのままだが、つり上がった三つの目でアプリリアージェをにらみ据える様子は、まるで巨大な猛禽のようだった。
そしてその少し開いた口の端からは、明らかに他の歯よりも鋭い犬歯が毒々しく覗いていた。つまりアプリリアージェは体の自由がきかないまま、ただエルデに襲われるのを待っているだけの状態だったのだ。
その時のアプリリアージェの脳裏に浮かんだのは「私は喰われるのだ」という覚悟の言葉だった。
そう。アプリリアージェとエルデは、旅の仲間から一瞬にして捕食者と被捕食者の関係になった。そしてこれは信じがたい事だが、少なくとも被捕食者の立場にある者は自分の立場を納得すらしていたのだ。
すでに比喩や修辞が入り込む余地はない。まさにそこにいたのはヘビとカエルだった。
エルデの呼吸は荒く、大きく見開いた三つの目はじっと「獲物」を見据えていた。
しかし、なぜかなかなか次の行動……すなわち捕食行為に移ろうとはしなかった。
見れば彼女は、左手で自分の左膝を鷲づかみにしていた。足の動きを止めるかのように。
さらに獲物に伸ばすはずの右手は、服を……胸の辺りを力一杯掴んでいた。
「隠せ……」
やがてエルデは濡れたように光る黒い瞳を伏せると、絞り出すような声でそう言った。
アプリリアージェにはその言葉の意味するところがいったい何なのかが全くわからなかった。思考力など、すでにアプリリアージェにはなかったのだ。
「そのケガを隠せっちゅうてんねん!」
小さな悲鳴のような声でそう言うと、エルデは全ての目を閉じた。
「お願いや。その血を、早く消して……」
「え?」
エルデの視線が外れたかだろうか。アプリリアージェは何とか一部の体の自由を意識下に取り戻す事ができた。考えようとする気持ちも少し復活したようだ。
麻痺したような脳髄にムチを入れると、アプリリアージェはエルデの言葉の意味を必死で考えた。
『ケガ』
彼女は確かにそう言った。
そして、それを『隠せ』と。
底なし沼から脱したダーク・アルヴの歴戦の勇士は自我を取り戻した。そして指からしたたる赤い滴を認めると、隠しから取り出した布ですぐにそれをくるんだ。強く。そして幾重にも執拗に。
(これだけではない)
無意識が意識に告げる。
絨毯に目をやる。そこには染みこんだ赤黒い染みがあった。アプリリアージェは急いでポットの破片に残っていたその香りの強い茶葉を掴むと、血で出来た染みの上に散らし、さらに靴の底でその上を踏みしめた。
そこまでしてようやくアプリリアージェは息を吐いた。そして隣に座っているはずの小さなテンリーゼンに気付いた。不思議だった。なぜ今までその存在を忘れていたのだろうか、と。
小さなテンリーゼンは震えていた。自分で両肩を抱いて、そして俯いていたのだ。
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