第三十六話 雲隠れ 4/4

 ラウはしかし、逃げなかった。

 おそらくかつてのラウであれば、部下であるファーンを捨て駒として盾にする事に何の迷いもなかったであろう。賢者とはそういうものであり、そう訓練もされていたからだ。

 だが、カレナドリィ・ノイエの一件を境に彼女には微妙な変化が生じていた。直接的な変化はジャミールの近くでエルデと再会してからだと言えるが、それ以前に賢者として精神的にやや不完全とも言えるファーンと心が通じあった頃から、心情に微妙な「ブレ」が生じていたのである。

 当初は《蒼穹の台》がなぜこうも「不完全」な、それもあまり役に立たないと思われる「ハイレーン」を自分の部下に据えたのかを疑問に思っていた。

 大賢者菊塵の壕(きくじんのほり)の妹という触れ込みを聞いた時には、ラウは大いに期待していた。だが、やってきたのは妙に杓子定規な物言いをするわりに、稚拙な感情をしばしば見せる、言葉遣いが微妙な、まさに子供のルーナーだったのだ。

 もっとも子供ながら賢者を名乗っているのであるから、ハイレーンとは言え相当のルーナーであることは間違いない。しかもラウの知る限り、エルデを除くと現状の賢者の中では唯一人のハイレーンである。はっきり言ってしまえば、賢者としてはラウよりもファーンの方が先輩であり、エーテル制御に関しては上だと判断できるのだ。

 だが、それでもハイレーンの常で、治癒系以外で使えるルーンは極端に少なく、ラウが持つダラーラのような特殊な呪具を持ち合わせている様子も特になく、要するにあまり見所もないように思えた。それだけにいったい《蒼穹の台》は何を思ってこんな子供を敢えて自分の下に付けたのだろうとずっと疑問を感じていたのである。

 しかし、最近はそんなファーンとの旅を楽しんでいる自分に気付く事が多くなっていた。

 普段は基本的に無表情なファーンではあるが、それを言えばラウとて同様である。そんな二人が、そのときに生じた感情を隠さず顔に出して語り合う事がだんだんと増えている事に戸惑いを覚える事もあるほどであった。

 ある街の宿で食事をしていて、とある皿に盛られた料理の味が好みだった事があった。それをあまりに自然に感想としてファーンに告げ、彼女も全く同感だと言って二人で微笑みあった時には愕然としたものである。同じ感情を共有できる空間を所有する小さな幸福感を漠然と感じた瞬間であった。

 それからはうまいものを口にした時に、ファーンが素直に笑うようになり、その感想を告げる事が普通になった。そしてそのファーンの笑顔を見て、自然と自分にも笑顔が浮かんでいることを自覚していたのである。

 さらに言えば、そんな状態が心地よいと感じていたのだ。

 とはいえ確実に以前とは変わってゆく、いや賢者になるずっと以前の頃に戻りつつある自分に、ラウは疑問を持っていた。賢者としては、重要な特性がどんどん低下しているのではないかと感じたからである。

 ――ラウのその危惧は的を射ていたのかもしれない。

 なぜなら現に、今こうして二人揃って窮地に陥っている。それはとりもなおさず賢者として二流である証しなのではないか。

 で、あれば。

 賢者として、ラウはファーンを積極的に盾として使うべきであった。三席であるラウを末席のファーンがかばうのは至極当然のことであり、そこにそれ以外の感情を挟み込む余地などないのだから。

 正教会としても賢者を二人失うより一人失う方が好ましいはずである。ましてや自分ではなく《蒼穹の台》が主だと言ってのけたファーンに対して何を迷う事があろうか。

 そこまで考えた上で、ラウはある決心をした。


 待ち伏せ部隊の僧正は、ファーンがマーリンの眼を開きルーンの詠唱を始めるのを見ると、すかさず合図をした。もちろん、長弓隊に掃射命令を下したのだ。迷っていたら部隊の全滅に繫がりかねない。

 同時に風のフェアリーと思しき僧兵が三人、ファーンに向かって駆けだした。

「敵のルーンに怯むな。あれは強化だ。この距離では攻撃ルーンは届かん」

 その声が終わらぬうちに、長弓から放たれた矢は緩やかな弧を描いてラウとファーンの頭上に降り注いだ。ファーンのルーンが強化系だろうが攻撃系だろうが、詠唱を終えぬうちに何本かの矢がファーンの体に突き刺さるのは明白だった。

 《群青の矛》は相手の行動に一切動じることなく残るルーンの後半は早口で唱えた。自慢するだけあって、その気になったファーンの詠唱は異常に速かった。

「トレプ・ルーメ・バルクオドシム!」

 ファーンが唱えたルーンの認証文は短いものだった。多くのルーンに精通している賢者であれば、ファーンの唱えたルーンがどういうものであるかは誰でもわかった。もちろん、ラウもよく知るそのルーンは「柔らかな石化」と呼ばれるものだった。

 対象である単体にのみ有効な強化ルーン。いや、正確には治癒系のルーンである。相手の皮膚をその柔軟性を損なうことなく石のような強靱さを持たせつつ、内部を活性強化して自己治癒力を増幅させる類のもので、「石化」と呼ばれるものの、かけられた人間は普通に動くことが可能である。

 強化ルーンと間違えられる事が多いのは、その石化が一定の物理衝撃に耐えられる事に由来していた。

 そう。ファーンはそのルーンをラウにかけたのである。

 いまからでは避けようのない無数の矢と風のフェアリーによる剣の攻撃を一定量無効化し、筋肉を活性化するルーン。つまり、攻撃を防ぎつつ逃げる為の羽のような鎧を身にまとったようなものだった。

 ハイレーンであるファーンが唱えることのできる、おそらくこの状況ではもっとも短く効果的なルーンがそれだったのだろう。

 そしてファーンが唱えたルーンの正体を知ったラウは、ファーンの「読み」に気付いて何とも言えない気持ちになっていた。なぜならファーンは単体、すなわちラウにだけ効果があるルーンをかけたのだ。つまり、ファーンはラウが逃げずにその場に、少なくともルーンが届く範囲内に居る事を前提にルーンを唱え始めたという事になる。ラウが逃げようとしない事を悟っていたのだ。

「ファーン!」

 ファーンの予想通り、ラウは敵に背を向けなかった。それどころか降り注ぐ矢がまさにファーンに刺さろうとした瞬間に、彼女に覆い被さるようにして一緒に倒れ込んだ。

「ラウっち、何を」

「それはこっちのセリフよ。いいからこのまま外傷治癒系のルーンを唱えて。範囲でいい!」

「え?」

「早く!」

 言い終わらないうちに二人の上を何本かの矢が通り過ぎた。しかし、遅れて発射された何本かの矢は真上から降り注ぐように二人の賢者に突き刺さった。

「うぐっ」

 ラウの命を受けてルーンを唱えようとしていたファーンは、そのルーンを唱える前に鈍い悲鳴を上げた。ラウ自身は背中にいくつかの衝撃を感じたが、痛みはない。「柔らかな石化」が矢をはじいたのだ。しかし体に感じる衝撃から、複数の矢がファーンの体のどこかに突き刺さったのは間違いなかった。

 だが、ラウはファーンの傷を確認する事よりも先に、ある行動を起こしていた。ダラーラを取り出して、糸巻きを強く巻き上げていた。

 その作業をするラウの目に、血が筋を付くって地面を流れてゆくのが見えた。確認するまでもない。ファーンの血であることは間違い無かった。だが、ラウは弦を巻き上げる手を止めなかった。

 ブチンと言う大きな音がして、強い張力に耐えきれず弦が切れた。ラウはかまわず二本目の弦も巻き上げた。

「観念しろ」

 すぐ背後で僧正の声がした。

 二本目の弦が切れた。敵にはかまわず、ラウは最後の弦も巻き上げ始めた。

 矢の雨は既に止んでいた。ラウ達は周りを完全に包囲されていた。すでにもうなすすべはない状態と言えた。

 ラウの目に映るファーンには、意識がなかった。長い髪が地面を覆うように広がり、そこに折から降り始めた白い雪が舞い降りていた。

 突然、背中に衝撃を受けた。

 僧兵の一人が槍でラウを突いたのだ。

 幸い、その攻撃もファーンの保護ルーンがはじいた。ラウはそれにかまわず、弦を巻き上げる作業を続けた。最後の弦は低音を受け持つ太い弦で、なかなか切れないようだった。

 兵は怪訝な顔で何事がおこったのかと自分の剣を確認した。

「バカ者、何をやっている」

 槍を刺した僧兵を、橙色の服を着た僧正が止めた。

「もう逃げ場はない。殺すな」

 攻撃の手を止めた三人の風のフェアリーに、隊長が怒鳴った。

「しかし、こいつ、妙なまねを」

 僧兵が声を出したのと同時に、ダラーラの三番目の低温弦が大きな音を出して切れた。ラウはそのままファーンを抱きしめるように覆い被さった。

 次の瞬間。それは橙色の服を着た僧正が僧兵達に一斉に飛びかかって拘束するように合図をしようとした、まさにその瞬間であった。二人の賢者がその場から忽然と姿を消した。

 それはまさに煙が消えるように跡形もなく。

 彼らの目の前で起きた一連の出来事が幻でない事は、石畳の地面に存在する赤黒い血だまりが証明していた。数本の矢に体を貫かれたファーンの血は、固まりきらずに、まだ広がりつつあった。

「ガーデル様」

「騒ぐな。ヴェリタス、いや正教会の賢者が二人もいると、さすがに易々とは捕まらんというだけの事だ。まあ、どっちにしろあの傷では一人はもう死んでいる。残る一人も、ルーンを使ったからには「陣廊」からはどこにいるのか手に取るようにわかるだろう。逃げられはせんよ」

 それだけ言うとガーデルと呼ばれた橙色の服を着た僧正は地面に広がるファーンの血に向かって何かをつぶやいた。

 そしてしばらくすると彼は手に持った精杖の頭頂部を血だまりに向けて小さな声でルーンの認証文を唱えた。

 青白い炎が血だまりを覆い、それはあっという間に血液を灰に変えた。

「よし、我々は次の指示があるまで逃走経路の警戒を続ける」

 ガーデル僧正の声で、僧兵達は数人一組になり、それぞれがあらかじめ与えられた場所へ散っていった。

「《二藍の旋律》と言ったか」

 ガーデルは彼を補佐する二名ほどを残して僧兵達が去った後も、その場にたたずんでいた。

「はい。賢者三席と聞き及んでいます。絶命した方が末席の《群青の矛》ですね」

「楯である末席をあそこまでしてかばう賢者が居るとはな」

「は?」

「いや。最後のあれは果たしてルーンだったのか、と思ってな。このメラク・ガーデル、あのようなルーンを見るのは初めてだ」

「確かに」

「しかも自分だけでなく、仲間もろとも消えるとはな」

「もしや空間転移ルーンならば、すでにヴェリーユから逃げ出したのでは」

 一人の補佐役の僧兵が慌てたような声でメラク・ガーデルにそう尋ねたが、彼は首を横に振ってそれを否定した。

「空間転移ルーンなど、三聖にしか使えんと聞いている。それに、そんな事ができるのなら、とっくに逃げ出しているだろう」

 補佐役の二人はメラクのその言葉にお互い顔を見合わせた。

 確かにその通りだった。背に腹は替えられずに切羽詰まって使ったものと思われた。

「そう遠くへ行ける訳はない。ともかく探すぞ」

 そう言うとメラクは橙色の僧服を翻し、その場を後にした。

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