第三十六話 雲隠れ 2/4

 シーンの言葉には既に駆け引きも、相手の出方を窺おうとする気もないようだった。ある意味事務的な人物なのだろうとラウは判断するとともに、これ以上シラを切っても意味がない事を認める事にした。

 シーンの言う通りだとするとマーリン正教会側、少なくともラウやファーンが新教会の僧正の名前を知らないのに、向こうは全て知っていると言う事になる。それはつまり情報戦では正教会は後れをとっている状況だと言えた。

(賢者会の諜報担当は普段いったい何をしている)

 ラウは唇を嚙んだが、ここで賢者会の上席のお歴々に文句を言っても始まらない。


「再確認しておく」

 ラウはそこまで言うと言葉を一度切り、チラリとファーン・カンフリーエの方を見た。つまり、その言葉はファーンに向けてかけたものだ。

 同じように唇を嚙んでシーンをじっと睨んでいたようだが、ラウの言葉を受けて、ファーンはラウに視線を向けた。

「ファーン」

「はい」

「私の言う通りにするのよ」

「了解です。《二藍の旋律》」

「ラウっちでいいわ」

「合点でさ。ラウっち」

「『了解』まで変えなくてもいいんだけど」


 ラウは苦笑と共にファーンに軽くうなずいて見せた。だがすぐに真顔に戻り、視線をシーンに戻す。

 口調もファーンに対してのものとは違い、これも外向けのものに変わっていた。

「一応尋ねておきたいのだが」

「何なりと。ただし私でお答えできるもの以外はご容赦を」

「もし副堂頭猊下の申し出を固辞した場合、我々はどうなるのか?」

 シーンはラウの言葉を想定していたのだろう。笑顔を崩さずにすかさず返答した。

「お忘れですか? ヴェリーユに入る際に署名をしていただいたはずです。堂頭の招聘があった場合は例外なくこれに従わねばならない、と。先ほども申し上げたとおり、あいにく堂頭は不在中。故に今は副堂頭が堂頭の権限を有しております」

 ラウはシーンに指摘された文書の事を思い出していた。細かい文字が書かれた書類に確かに署名をした。宗教の拠点など特殊な町ではよくある事で、書かれている事も通り一遍の決まり事のようなものばかりの、よくある文書である。

 一応目を通したものの、特に妙な条文も無く、ルーンで改変されている様子も見えなかったので、その場では何も言わず、もちろん何の細工もせず、素直に署名をした。勿論、現名で。

「なるほど。言われてみれば確かにごもっとも。どうやら我々に拒否権はないようだな」

 ラウは一つため息をつくと、椅子の上に置いてあったつばの広い帽子と丸い胴を持つダラーラという弦楽器を手にし、ファーンにも支度を促した。



「我々を招聘する理由を尋ねたら、ジクス僧正殿はお教え下さるのかな?」

 帽子を被り、その位置を微調整しながら、ラウはシーンに尋ねた。シーンはしかし、残念そうに首を左右に振った。

「私はお二方をお招きするよう命じられた、ただの使いです」

「だろうな」

「老婆心ながら一応申しあげておきますが、妙な気は起こさない方が御身の為です。衆目もございますし、そもそも事が起こると掃除や報告書など後始末が色々と面倒ですので」

「後始末、か」

 その言葉が何を意味するのかわからないラウではない。邪気のない爽やかな笑顔でそう釘をさすシーンに、ラウは内心で舌打ちをしていた。

(笑っているがいい。いまいましいその顔を、すぐに引きつらせてやる)


 多少の迷いがあったが、シーンの「老婆心」がラウを決心させた。

 手に持ったダラーラを抱きかかえると、突然大きくかき鳴らしたのだ。

 同時に後ろにいたファーンに呼びかけた。

「逃げるよ、ファーン!」

「合点! ……じゃなくて、了解?」

「どっちでもいい、急いで!」

 ダラーラの不協和音が響いたかと思うと、一瞬にしてその場が真っ白な煙に包まれた。

 いや、それは煙ではなく湯気のようなもので、水が細かく個体化したものであった。熱くはないところから、言ってみれば雲のようなものなのだろう。

 だが、その濃度は濃く、その雲の中にいる人間の視界を奪うには充分であった。

 ラウはファーンの手をしっかり握りしめると「こっちよ」と声をかけ、駆けだした。

 逃げる経路は予め決めていた。視界がないのはお互い様であったが、経路を定めていたラウの動きは新教会の僧兵達のそれとは違い、直線的で速かった。


 ラウに確信があったわけではない。だが、新教会の深部に連れ込まれたらそこでは完全に手も足も出なくなる事態は予想できた。町の中であれば、まだ逃げられる機会はあると踏んだのだ。

 ルーンの力が削られている状態は相手も同じ。ここで相手との間に距離を稼いで、後は町を出る事に全力を尽くす。

 ラウはそう考えた。

 とりあえず移動さえしていれば相手のルーンが届く事はないはずだった。精霊陣で感知され、的を絞られさえしなければ、遠隔ルーンが命中する事はあり得ないからだ。

 だが、そうなると今度は単純に腕力や武力といった身体に関係する能力の差が全てになる。さらに多勢に無勢の状態でもある。相手がいったいどれほどの人員を割いて追跡にあたるかはわからないが、無事に逃げ延びられる可能性は高くはない。

 そもそも、ルーナーであるラウもファーンもいわゆる白兵戦においてはただの素人である。そして共に攻撃が得意なエクセラーでもない。敵との接触は敗北を意味していた。

 逃げ切れる可能性は……

 ラウはおおざっぱに計算した。その計算にいったいどれほどの意味があるのかはこの際どうでもよかった。逃げ切れる可能性を自分で認める事が重要なのだ。

(五分五分と言った所かしら? )

 そう思ったすぐ後に、自分は実は相当な楽観主義者だった事を知って、ラウは苦笑した。


 雲が覆う範囲はラウ達がいたカフェを包み込み、道を隔てた反対側にある別のカフェの店先にまで及んでいた。

 通りの向かいで繰り広げられていたラウとシーンの短いやりとりを、腰を浮かしたままで眺めていたアキラ・アモウル・エウテルペは、隠しからつまみ出した五エキュ銅貨をテーブルに叩きつけると、大急ぎで視界の無くなった店を出て、耳を澄ませた。二人の足跡を追おうと思ったのだ。だが、突然の異変に驚いた人々の喧噪が大きすぎて二人の賢者が向かった方向を特定するのは不可能であった。

(こうなればカンだな)

 アキラはそうつぶやくと通りの右手に向かって走り出した。

「ジクス様」

 突然湧いた雲に驚いた僧兵が、大声で隊長に声をかけた。

「騒ぐな。一時的な現象だ。視界はすぐに戻る。毒性もなさそうだし、ただの目くらましだ。それより無駄に動いて混乱を助長させるな。参拝の信者を巻き込む恐れがある。全員ひとまずその場で待機しろ」

「しかし……」

 まだ何かを言おうとする僧兵を、シーンはじろりと睨んで黙らせた。

 そこへ、別の僧兵がやってきて指示を待つ為に片膝を付いて控えた。シーンはその僧兵に苦笑混じりで声をかけた。どうやらその僧兵は彼の補佐役のようで、先ほどの僧兵に対するものとは、シーンの態度は明らかに違っていた。

「驚いたな。さすがヴェリタスの賢者だけはある」

「同感です。しかし、感心している場合ではございません」

「案ずるな。このヴェリーユの結界を忘れたか? やすやすと逃げられはせんよ」

 シーンとてさすがにラウが突然出した雲には驚いたが、その声にはまだ余裕があった。

(このシーン・ジクスが何の策もなくのこのこと目の前に現れたとでも思ったのか? )

 独り言のようにそうつぶやくと、ジクス僧正は精杖を握りなおし、低い声でルーンを唱え始めた。

 短い詠唱が終わると、その場にさほど強くない風が吹き渡った。ラウが出現させた雲はそれにより散り広がり、やがて回りの様子がわかるほどに視界が戻ってきた。

「後はセラティ達に任せる。この場の混乱を収めた後、いったん帰投せよ」

 部隊の全員に聞こえるような大きな声でそう言った後、シーンは側に控えている補佐官に対しては、小さな声で別の指示を出した。

「我々はいったん本部へ引き上げ、『陣廊』を使って各部隊に遠隔送達を行う。だが、念の為にそれぞれの部隊には別途伝令も出しておけ」

 シーンはそれだけ言うとラウ達が走り去っていったであろう大通りに背を向けた。



「ラウっち、今の煙は?」

「煙ではなくて雲よ」

 その雲を出たところで路地を見つけたラウとファーンは、迷わずそこへ入り込んだ。入り組んだ路地裏の道を、辺りに気を配りながら二人は並んで走っていた。

「あれはルーンでは、ありませんね?」

「もちろん」

 ラウはそもそも何も唱えてはいない。ただダラーラをかき鳴らしただけなのだ。雲を出したのはそのダラーラの能力だった。いわゆる呪具である。

「便利なものですね」

 ファーンは感心したようにそう言ったが、ラウは眉間に皺を寄せて苦笑した。

「便利なんだか、どうなんだか」

 ラウはダラーラを背負いなおしながら独り言のようにそう言った。

「あの現象は三日に一度しか発生しないわ。だからあの手は今日はもう使えないのよ」

 説明を聞いてファーンは思い当たる事があるように手を打った。

「なるほど。例の妙な呪具の一つですか……。銘は?」

「『雲隠れ』よ」

「そのまんまですね」

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