第三十二話 再会 1/3

 すでに年が明けてしばらく経っていた。

 新年は星歴四〇二七年。ファランドールの歴史上、大きな意味を持つ年、すなわち「月の大戦」勃発の年である。

「龍の道」でエイルやアプリリアージェと別れた一行、すなわちエルネスティーネとティアナ、テンリーゼン。それにアキラとメリドの四名のヴェリーユ滞在がそろそろ一ヶ月になろうとしていた。

 ヴェリーユに到着してからしばらくの間は落ち着いていた一行だが、二週間を過ぎたあたりでエルネスティーネが音を上げた。

 どだいあの状況で心配するなという方が無理なのである。エルネスティーネの大事な「仲間」はただ分かれたわけではない。突然現れた敵か味方かもよくわからない三聖【蒼穹の台(そうきゅうのうてな)】が作り出した闇のような得体の知れぬ空間に入ってしまったのだ。

 闇の空間に入っていった仲間の中で唯一、一連の事情を知っているであろうエルデが決めた期限が一ヶ月である。それまでにまだ充分時間があるのだという事も頭ではわかっていた。

 だがエルネスティーネの心の中には、彼女自身ではどうしようもない「もの」がすでに存在していたのである。ジャミールの里で「龍の檻」と呼ばれる空間に閉じ込められた時、窮地に陥ったメリドを助けた時に、冷静で的確な判断を下せる逸材の片鱗を見せたエルネスティーネではあったが、内なる「それ」を制御できるほど老成しているわけではなかった。ましてやおそらく彼女が初めて知った感情である。冷静に対処どころか経験すらないのだから、的確な対処など望むべくも無い。ただもてあますだけの日々であったことは想像に難くない。

 彼女の内に生じた新しい感情とは全く別の要素も問題であった。実の父親であるアプサラス三世の死という大きな衝撃もまた確実に何らかの変化をエルネスティーネにもたらしていた。

 今までに比べ極端に涙もろくなった事はその一つであろう。以前も涙もろい事には違いはなかったが、今程ではない。なにしろ今のエルネスティーネは、何かの拍子に表情を変えぬまま、突然涙を流す事すらあった。

 朝、目を覚ますと枕が濡れている事が何度もあった。

 食事をとっていても、無意識が自身を支配している事が多々あった。お茶を飲もうと伸ばした腕に、ふと熱い雫が落ちるのだ。


 エルネスティーネのそんな様子を見ても、ティアナは何も言えなかった。エルネスティーネは、弱音を吐いたり声に出して泣いたりしているわけではないのだ。むしろ弱音は全く口にしなくなっていた。

 悲しい事や嬉しい事を感じたままに口にするのが今までのエルネスティーネだとすると、それもまた一つの変化であると言えた。

 エルネスティーネの語彙から「悲しい」と言う言葉は消えていた。

 涙を流した時には、

「あれ?」

 と言いながら目尻をそっと拭うだけなのである。どうかしたのかとティアナが尋ねてもにっこり笑って「何でもない」と言うだけだった。

 そんな少女にいったいどんな言葉をかければいいのか? 

 ティアナには愁いに満ちた表情のエルネスティーネにどう接していいのかすらわからなかった。

 いや、実のところ泣きたいのはティアナとて同様だった。彼女も待つ事に焦りを感じ始めていたのだから。

 待っていればたとえ何年かかろうとも必ず会えるという保証があれば、これほど辛い思いはしなかったであろう。会える確証の無いままにただ待つ、という状態がこれほど辛いものだとは思わなかった。

 その状態で三週間が過ぎ、そしてそろそろエルデ自身が期限と定めた一月になろうという日の午後。

「その日」は突然訪れた。


 エルネスティーネ達の部屋の扉が、前触れもなくまさに唐突に開かれた。

 ノックもない。そんな事はその部屋に滞在中、一度も無かった事だった。

「皆さん!」

 長椅子に腰をかけて窓からヴェリーユの通りの様子を眺めていたエルネスティーネは、扉の外に並ぶ面々を見るとそう叫び、はじかれたように立ち上がった。

 そして、小走りに駆ける。もちろん、無事な姿の仲間のところへ。

 だが……。

 伸ばしかけたエルネスティーネの手は、空中で動作を止めた。


 久しぶりに無事な顔に出会えた。

 その嬉しさと懐かしさに背中を押され、いや、会いたかったその人の胸にその思いを込めて体ごと飛び込もうとしたエルネスティーネは、次の一歩を踏み出す事が出来ずに固まった。

 視線の先には彼女が一番会いたかった人がいた。会いたくて会いたくて、無意識に涙まで流すほど切ない思いをしたエイル・エイミイがいたのだ。

 だが、その視界にはエイルとともに見慣れない顔が一緒に入り込んだ。

 エイルの隣にぴったりと寄り添うように立つ影。それは見知らぬ少女で、その姿にエルネスティーネの足は凍り付いたのである。


「えっと……」

 だから「お帰りなさい」という言葉よりも、「エイル」という名前よりも先に、少女に対する疑惑と不信ともう一つのありふれた感情がエルネスティーネに素直な挨拶をさせる事をよしとしなかったのである。

 エイルの横に立っているのはただの少女ではない。それは一目でわかった。

 瞳髪黒色(どうはつこくしき)。

 エイルと同じ。

 同じ種族。

 ピクシィの少女。

 さらに言えばアルヴィンであるエルネスティーネが思わず声を失う程、そのピクシィが美しかった事も付け加えないわけにはいかないだろう。

 王女であるエルネスティーネは「佳人」や「美人」と賞される多くの女性を見てきていたが、少なくともエイルの隣にいる少女のような、目を合わせた瞬間に背筋が凍り、鳥肌が立つほどの美しさを纏った人間ははじめてだった。

 少なくとも同性が思わず声を失うほどであるという点をとってみても、エイルに寄り添う未知なる少女が、生半可な美しさではないことがうかがい知れる。


 自分をじっと見つめる漆黒の瞳を見て、不意に『この世のものとは思えない』という言葉がエルネスティーネの脳裏に浮かんだ。つまりそんな陳腐な言葉に逃げ込むしか手がないほど、少女の美貌に圧倒されていたのである。

 エルネスティーネは小さく深呼吸をした。自分を落ち着かせるための無意識の行動であったが、それは功を奏し、相手をもう少し細かく観察する余裕ができた。

 少女はエイルより背が少しだけ高い。

 エルネスティーネには他種族であるピクシィの年齢を推測する事は難しかったが、二人が並んでいる様子から、少女はエイルよりも歳上のように見えた。

 次にエルネスティーネはピクシィの少女が羽織っている薄茶色のマントに気がついた。その少女とは初対面であったが、そのマントには見覚えがあった。それは間違いなくエイルがジャミールの里でラシフから餞別として受け取った特別な、いや、エイルにとってこの上なく大切なはずのマントだった。

 エイル自身はマントを羽織っていない。

 標高が高く、すでに雪に覆われたヴェリーユで外套に類するものを着ていないのは不自然だった。

 視線を下に向けると、寄り添う二人の出で立ちがいっそう不自然な事に気付いた。

 エイルは裸足だったのだ。

 そしてどうやらエイルの物と思われるごつい革の旅靴(りょか)を件の瞳髪黒色の少女が履いていた。ただし、マントから覗き見える足は素足で、下履きを履いていないようだった。その様子は見るからに寒々しい事この上ない。

 それはどう見ても、何らかの事情でまともな着衣を持たない少女の為にエイルが自分のものを無理をして貸し与えたとしか考えられなかった。

 よく見ればマントの袷(あわせ)からのぞく少女の胸や腹も素肌のままのようだ。ひょっとしたらマントの下には何も着ていないのではないかとエルネスティーネは推理した。

(エイルは裸の女の子を拾ってきたというの? )

 エルネスティーネがそんな突拍子もない事を考えたのも無理からぬ様子……いや状況だという事だった。

 現にエルネスティーネの後ろにいるティアナも、会いたかったファルケンハインに声をかける事も忘れて、おそらくはその場で圧倒的な存在感を持つその美貌のピクシィの少女の姿を見て声を無くしていた。

 未知の少女と睨み合うような格好でその場に棒立ちになっていたエルネスティーネが、実のところ一番気になったのは、その少女がエイルの上着の裾をしっかりと握りしめていたことだった。

 それはまるで外出時に子供が親とはぐれるのを不安がって、服の裾を摑むような、そんな姿に見えた。

 見る者を凍り付かせるような鋭利な視線で自分を見据える少女の、その尊大とも思える表情と、その左手の不安げな行為との落差があまりに大きすぎて、エルネスティーネの思考はそれ以上の推理を続ける事を放棄した。

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