第三十話 交換条件 1/3

「月の大戦」に関する歴史書は星の数ほどあるが、どの本を繰ってもエスカがペトルウシュカ公爵を名乗った正確な時期がわからない。まちまちなのである。決定版が無いという状態だ。こういう事は風聞よりまず「公式記録」が重要なのだが「月の大戦」後の混乱期に肝心なその公式文書が焼失してしまっている。では何をよりどころにするのか? 

 実は公式な記述における「エスカ・ペトルウシュカ公爵」の初出はドライアドではなく、シルフィード王国の文献に見ることができる。果たして外国であるシルフィード王国の、それも文官の一人が報告書の為の下書きとして遺したという「行事覚え書き」が公式な文献なのかという問題があるにせよ、それが文献としてエスカ・ペトルウシュカを『公爵」と記述した最初の公的な記録なのは間違いがない。

 その記述を信じるならば、星歴四〇二七年黒の一月に行われたアプサラス三世の大葬の為にエッダ入りしたエスカが、公爵を名乗っていたというのである。しかもこの「下書き」を書いた文官は「エスカ本人が名乗っていたというのを聞いた」という話を「聞いた」と書いてあるだけである。自分が直接エスカの口から聞いたわけではないのである。真偽のほどは既に確かめようもなく、歴史学者は聞き間違いか、エスカ一流の冗談をそのまま「冗談めかして」その下書きを書いた文官に伝えたかのどちらかであろうと決めつけている。

 しかし「公」に関係しない「文書」には、その下書きの記述を裏付けるような「逸話」が存在するのである。この章はその「逸話」を再現したものである。


 エスカは、ようやく戻ってきた護衛艦の総司令がグェルダンの艦橋に姿を見せるのを待って、海賊アナクラとの会見に臨んだ。有事であるから、後を託す人間が必要なのである。

 その際、一悶着があった。

 当然のように同道しようとしたニームに、エスカは船に残るように命じた。彼はフェルンと二人で会見に向かうつもりだったのだ。しかしニームはエスカが「命令」という言葉を持ち出しても、それに服従する気は毛頭ないといった剣幕で、断固として同道すると言い張った。

 ルーンにより座標軸を固定されているグェルダンを離れてしまえば、ニームはルーナーではなくなる。ニームからルーンを取ると、そこにいるのはただの小柄な少女ということになる。エスカはその会見にニームが同道する合理的な理由がない事を論理的に指摘したが、逆にニームは感情論で異議を唱えた。

 最初は「副官」としての義務だと言い、それが「副官ならばこそ、責任を持って留守を守れ』と拒否されると、今度は「妻として夫の側に居るのは当然だ」と主張した。だがその論法は「大事な人だからこそ海賊の船になど連れて行けない」というエスカの主張が、その場にいた全員の賛意を集め、失敗する事になった。

 さすがにあきらめるだろうと思っていたエスカだが、ニームの方が一枚上手だった。

 彼女はエスカが全く予想していなかった行動に出た。

 エスカの腰に抱きついて、わんわん泣き出したのだ。

 これにはさすがのエスカも思考が停止するほど驚いた。驚いたのはもちろんエスカだけではない。その場に居た全員がニームの行動に声を失った。


「絶対に嫌だあ」

 泣き出したニームは、言葉遣いも普通の少女の……いや、幼児のそれに変わっていた。

「嫌だ嫌だ。離れたくない。連れていってくれないと私はここで死んでやる」

 泣く子と何とやらには勝てないという諺どおり、ニームの捨て身の作戦が発動した時に、その勝負は終わりを迎えた。

 エスカは弱り果てたという表情をフェルンに向けたが、さしものフェルンも苦笑して肩をすくめるしかなかったのである。

「あなたの負けです」

 そして腰に抱きついたまま離れようともしないで泣き続けるニームを抱えるようにしてエスカはグェルダンを後にすることになった。



「いい加減にしやがれ、このクソガキめ」

 グェルダンがかなり小さくなった頃、ニームはようやくエスカの腰から離れた。

「チョロイものだな」

 顔を上げたニームの頬には、涙の跡はなかった。

「だが、クソガキとは失礼だ」

「あんな見え透いた三文芝居をするのはガキ、それもクソがつくガキだけだ」

「文句はあるまい? 私はあの場にいた全員の賛同を得て今こうしている。お前がペシカレフ公爵に対してとった、あの無理矢理なごり押しと一緒にするな」

「はいはい、参りましたよ、ニームさん」

 エスカはそう言うと、大げさに肩をすくめて見せた。

「しかし、知識として知ってはいたが、乙女が泣くというのは、これほど効果的な戦術だったとはな。さすがはジーナと言うべきか」

「ジーナの作戦かよ!」

「うむ。言葉で丸め込まれそうになった場合の起死回生策だと教えられた。乙女だけが持つ最終手段だそうだ。勝率は驚くほど高いと言っていたが、まさかこれほど……」

「待て。お前の理解には根本的な齟齬がある」

「どこがだ?」

「――いや、もういいや。リリが完全にジーナの尻に敷かれてるって事がわかっただけでもよしとするか」

「何の話だ?」

「いや、なんでもない。だが約束しろ。あんなアホ芝居、二度とやるんじゃねえ」

 エスカはそう言ったが、ニームはぷいとそっぽを向いた。

「芝居ではない」

「泣いてねえじゃねえか」

「そっちではない」

「まさか、マジで死ぬつもりだったのか?」

「そっちでもない!」

「じゃあ、何だよ?」

「――離れたくないと言ったのは本当の事だ」

「おい、言っとくがな……」

「皆まで言うな。言いたい事はわかっている。だが、私は感情の赴くまま突っ走ったわけではない」

「噓付け」

「噓ではない。お前は忘れたのか? 私はお前の武器なのだぞ。丸腰でのこのこと、あからさまな敵の罠に飛び込むヤツがあるか。以前の湖での件といい、お前は少々無防備で無鉄砲に過ぎるきらいがある」

「いや、お前。グェルダンから離れちまったら、ただのガキだろ? なら、お前を連れて行く事には戦術的には何の意味もねえだろ?」

「お前は私を過小評価しているようだな。小さいのは身長だけだ」

「まあな。それについちゃ、オレもちょっと驚いてる」

「何の話だ?」

「いや、まさか大賢者ともなると揺れる海上でルーンが使えるのか?」

 エスカは「大賢者」というところだけをニームの耳元で小さく囁いた。操船兵に聞かれないようにとの気遣いだが、風下でもあり距離もある。その心配はないと言えたが、それでも念には念を入れるエスカのその態度を見て、ニームは今回の海賊騒ぎで心の中に浮かんだ小さな違和感が再び浮上するのを感じていた。

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