第二十九話 爵位返上命令 2/4


 グェルダンに乗り込んだニームは、あらかじめ取り寄せていたグェルダンの設計図と見取り図を手に、グェルダンに最も詳しいと思われる「船長代理」と「機関長」を引き回して、まずは船内をくまなく歩き回った。その後は一般の人間を遠ざけると、今度はリンゼルリッヒとジナイーダの二人だけを引き連れ、またもや船内の探索に出向いた。その際にニームはグェルダンの要所要所に精霊陣を描き付けていたのである。航海中に想定される事象を洗い出し、その対処法を供の二人と打ち合わせながら。

 共同で何かを行う……それも、ニーム達三人にとっては初めての作業だった。

 その精霊陣の一つに、ニームが「槢(くさび)」と呼ぶルーンが仕込まれていた。自らの「賢者の名」の由来となる特殊な、おそらく【天色の槢(あまいろのくさび)】のみが使えるルーンである。

 精霊陣を発動させる為には様々な方法がある。精霊陣を発動させる為にルーンを用いる事もあるが、多くの場合はその必要は無い。当然ながらニームもそういう「ヘマ」はしなかった。彼女は自室の中、具体的にはベッドに、仕掛けた精霊陣を発動させる為の鍵となる精霊陣をいくつも用意していた。その精霊陣の中心を指でなぞるだけで発動する方式をとっていたのだ。

 複数用意していたルーンのうち、船上でルーナーとして行動する為の「鍵」とも言えるルーン、すなわち「槢」のルーンを発動させる精霊陣が出帆の翌朝にさっそく役に立ったという事なのである。



 エスカはニームが自分の指示を受け入れ沈黙を守った事を確認すると、マルクに再度頭を下げた後、事態の説明を始めた。

「もとより名代の身を第一に案じ、過去においても海賊の出現報告がもっとも少ない海域を通るように計画を立てておりました。今回不幸にもこのような事態に遭遇したわけですが、そうなった場合でも名代の身の安全を最優先で確保する為の準備も万端、整えてございます。特別高等事務官のフェルンがいみじくも申し上げたとおり、御身の護衛部隊に最適であるとしてドライアド国王エラン五世陛下が指名あそばされたのが、我が後に控える特級バード。普通のルーナーが船上では無力となるところ、我らが特級バードにその常識は当てはまりません。すでにご存じの通りこの通り船を泊め、海賊の船団をはるか追い越させたおかげで、我らはこうして体制を整える時間を稼ぐ事ができたのです」

「なるほど。そうであったか」

 エスカはニームがエラン五世の指名で同道しているという事を念押ししたのである。案の定、マルクの怒りの何割かは行き場を失ったようで、文句の矛先はエスカにほぼ絞られる事となった。

「ルーンが使えるという事は、海賊など恐るるに足らず、という意味であろうな?」

 マルクはニームにではなく、エスカに対してそう質問を投げた。マルクは慇懃無礼な態度しかとらない特級バード、ニーム・タ=タンに対してはあまりいい印象を持ってはいなかった。子供にしか見えないのはアルヴィンの血が入っているからだと聞かされていたが、その情報はアルヴ嫌いのマルクにとってニームに対する印象を悪くする作用しかなかったのだ。

 だが、同時にマルクはなぜか本能的にニームに対して妙な苦手意識のようなものも持っていた。理屈ではなく、ニームと目が合うだけでそわそわと嫌な気分がして、嫌みを言う事よりも近づきたくないという気分になってしまう。それもあって今までは儀礼的な挨拶程度しか会話がなかった。エスカにとっても二人が直接に対立する場面が生じないその雰囲気は歓迎すべき状況であったのだ。

 ただそれでも懸念は常にあった。小狡いマルクは些細な事でもニームが何か粗相を働ければ、そこを突いて相手に上下関係を認識させてやろうと腕まくりをしているに違いない事はわかりきっていたからである。

 今回の件はマルクにとってニームを吊し上げる意味では格好の機会になる可能性があった。ニームの強引とも言えるルーンの発動が成功すればよし。しかしそれが原因で少しでも失策につながるような事態が起きれば術者を叱責する理由ができる。

 何せマルクは国王名代なのだ。護衛の生殺与奪の権利は全て自分にある……失敗すれば床に手を突かせ、泣いて謝らせてやる。その時、人を見下したような特級バードのあの小さな白い顔が歪むのが楽しみだ……。

 マルクはそんな事を本気で心の中に思い描いていたのである。


「もちろんです。どうかご安心を。ペシカレフ公爵」

 ニームは直接問いかけられたエスカよりも先に、マルクに対して答えるとまさに慇懃無礼を絵に描いたような大仰でわざとらしく実に丁寧な仕草で深々と礼をした。

 エスカが敢えて「名代」という言葉を使いマルクの自尊心をくすぐっているのはわかったが、ニームはそれだけでも抵抗してやろうと思ったのである。それは自分の発言と行動を牽制したエスカに対するささやかな抵抗でもあった。マルクやその場の人間には通じないかも知れないが、エスカには間違い無く自分の不満が伝わる事を、ニームは確信していた。

「こう見えて、実のところ私はエラン五世のお気に入り。もちろんバードとしての能力の高さ故にでございます。このグェルダンは既に我が強化ルーンを纏い、火矢であろうが瓦礫の投擲であろうが、一切受け付けませぬ。ペシカレフ公爵におかれましては、事が済むまで安心して自室にて寛いでいただいてけっこうです。なに、海賊船が何十艘あろうが首領が指揮する旗艦を消滅させれば、あとは有象無象(うぞうむぞう)の輩。混乱した船団など我が国精鋭の軍船三艇の驚異にはなりますまい」

 はっきりとした自信に満ちた口調で、ニームは一気にそれだけをまくし立てた。

 体に似合わぬ、そのよく通る大きな声は揺るぎのない強い眼差しとともにマルクを射貫くかのように見えた。

 ニームの迫力に押され言葉を失ったマルクは、思わず一歩後ずさった。目の前にいる小柄な少女にしか見えないルーナーが持つ見えない圧力のようなものを、またもや感じたのである。


 そうこうしているところへ、海賊船団の使者からの書状が届けられた。白い休戦旗を掲げた高速艇がグェルダンに近づき、矢文を寄越したのだ。

 現在でも同様であるが、当時も船の上では船長が最高責任者であることは、国際海洋法で定められていた。たとえ名代が居ようが国王が居ようが、グェルダンも法的にはその例に漏れない。

 その書状はグェルダンの船長が開く事になった。

「な、なんと書かれているのだ?」

 書状の文面をひと目見た船長が、眉間にしわを寄せて難しい顔をしたのを見たマルクは、その書状を船長の手から無遠慮に奪い取った。彼にしてみれば最初に読まなかったという事で船長の顔を立てたのだから、後は「一番偉い」自分が見るべきだという論法であった。

 もちろん、それらの一挙一動がその場にいる彼以外の心証をどんどん悪くしているなどという考えは彼の頭には存在しなかった。

「な、なんだ、これは?」

 見るなりマルクは顔を真っ赤にして興奮すると、グェルダンの船長にその書状をぶつけた。

「わしは行かんぞ。我が方には特級バードもいるのだから、無敵であろう?従うことなどない」

 そして、

「お前、得意のルーンでさっさとあの海賊を始末してしまえ。これは名代としての命令だ」

 そう言って冷ややかな眼差しのニームに指をさした。

「公爵!」

 そのままずかずかとニームに近づこうとしたマルクに船長がそう声をかけたが、かまわず進むと、腰を手にしてニームの目の前に立ち、小柄なその特級バードを見下ろした。

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