第二十二話 目醒め

 ぼんやりとしていた頭が急速に冴えてくるのをエルデは感じていた。


――戻った。

 意識はまだ一部混濁してはいるものの、元の体に戻ったことをしっかりと認識していた。

 とはいえ記憶の回復は緩慢だった。

 現状把握すらままならないが、細々(こまごま)とした思い出が徐々に蘇ってくるのは感じていた。

 そして何より安心したのは、目の前によく知る顔があった事である。

《真赭の頤》こと、シグ・ザルカバード。

 名前も顔もわかる。見慣れた禿頭と右目の火傷の痕。

 エルデは心の中でようやく安堵の溜め息をついた。

 視界にはもう一人の人物がいた。

 それは瞳髪黒色の少年だった。

 彼は心配そうな、それでいてすこし寂しそうな、さらにはやや困惑した顔でエルデを見つめていた。

 もちろん見覚えのある顔だった。だが認識には少しだけ時間を要した。ややあってようやく黒い瞳の少年の名前を思い出したエルデは、その黒目勝ちな目をさらに大きく見開いた。


 無表情だったエルデの顔が急に変化した事は、エイルも当然ながら気付いた。何しろエルデに一番近い場所にいるのだから。

 目覚めを待ち望んでいた少女の顔はしかし、明らかに何かに驚いているように見えた。いや、何かではない。視線はエイルに注がれているのだ。瞳髪黒色の少女が自分に対して驚きの感情を表していることは明白だった。

 しかしエルデは声を出すでもなく、すぐに再びまぶたを閉じた。

 だが、それは前回の目覚めの後の一瞬の失神とはちがい、自分の意志で目を閉じたに過ぎないであろう事はその場の誰もが理解した。エルデが唇をぎゅっと嚙みしめるような仕草をしたからだ。

「エ……」

 思わずエルデの名前を叫ぼうとしたエイルの口を、すかさずシグが何らかのルーンで塞いだ。

 いきなり声を封じられ、批難の顔をシグに向けたエイルだが、逆に自分を睨み返してくる大賢者の鋭い視線にひるんだ。

 ここは黙れということなのだろう。エイルは素直にその警告に従うことにした。


 待つまでもなく、エルデはすぐに目を開けた。

 今度は自分の状況を確認するようにゆっくりとした動作でおそるおそる上体を起こそうと体を動かした。その緩慢な動きを見たエイルはたまらず側に駆け寄ろうとしたが、シグは精杖をエイルの目の前に突き出してそれも制した。シグ自身はエルデを助け起こそうとする気配もない。ただじっとエルデの様子を見守っているだけだった。

 エルデの動きを見て状態を確認しようとしているのだとエイルが気付くのに、それほど時間はかからなかった。

 おそらく二年振りにエルデは自分の体を動かすのだ。何よりもまずは様子を観察する事は重要に違いない。

 エルデとシグが逆の立場であってもエルデはエイルに対して今のシグと同じ事をしたに違いない。エイルはそう思った。

 エルデのハイレーンの名が伊達ではない事はエイル自身がよくわかっていた。そしてシグはそのエルデの師匠なのである。

 エイルはここは素直にシグに従うべきだと自分に言い聞かせた。


 のろのろとした動作でなんとか上体を起こす事に成功したエルデは、息を整えながら目の前にいるエイルの顔を再び見つめた。

 師であるシグ・ザルカバードではなく、エイルを。

 その時である。

 エルデの体をゆったりと覆うようにかけられていた紗(うすぎぬ)がずり落ちた。当然の帰結として瞳髪黒色の美少女の上半身があらわになった。

 自分の体を滑り落ちて行く紗をぼんやりと視線で追っていたエルデだが、その視線を自分の体に向ける事によって彼女はようやく自分がほとんど全裸なのを知った。


「きゃっ!」

 エルデは思わずそう声を上げると、ズリ落ちた紗を摑んで急いで引き上げ、それで上半身を隠した。

 再び目覚めたエルデ・ヴァイスが放った第一声は、黄色い悲鳴だった。

 見ればエルデの顔は今までの無表情と打って変わり、困惑したような表情を浮かべ、その頬は真っ赤に染まっていた。

 唇を嚙み、紗をぎゅっと抱いたその様は、およそ賢者という肩書きに結びつけるのが困難な図であった。


「ここが何処かおわかりですかな?」

 エルデの困惑など意に介さぬといった風に、シグは静かな口調でエルデにそう声をかけた。

 エルデは真っ赤になってうつむいたまま、こくりとうなずいた。

 そして小さな声でそうポツンと呟いた。

「大丈夫」

 続けて答える。

「ここは『時のゆりかご』ですね」

 シグは無表情のまま弟子の様子を観察するように見つめながら、続けてたずねた。

「私めがおわかりになりましょうか?」

「無論です」

 エルデはこれにも小さくうなずいた。

「わが真赭の頤 いえ、今はもうただのシグ・ザルカバード、でしたね」

 エルデの声は落ち着きを取り戻してきていた。その声は細く高く、そしてその場を支配するかのように力強く響いた。決して大きな声ではないはずなのに、エイル達にはしっかりと聞き取る事が出来た。


 エルデの「本当の声」を聞いたエイルは不思議な気持ちだった。

 ああ、こんな声だったのか、と。

 ぼんやりとそんなことを思っていた。

 彼の頭の中に響いていたエルデ・ヴァイスの声は、一応声ではあったが、エイルにとっては耳に響く実際の声ではない。頭の中で意志が響くだけなのだ。

 今までエイルはその意志に勝手に声を「色づけ」してエルデの声として聞いたつもりになっていたのである。

 まさかエルデが女だとは想像もしていなかったものだから、エイルが勝手に作り上げたのはやや軽めの騒々しい若い男の声だった。それだけにそのあまりに大きな違いに軽くめまいをおぼえた。


「さて、その様子ならばご自分の事もおわかりですな」

 続いて投げかけられたシグの質問にも、少女ははっきりとした声で答えた。

「我が現名はエルデ・ヴァイス」

そして一行は再び「その名」を耳にすることとなった。


「継ぐは……《白き翼》」

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