第二十三話 ピクシィの少女 1/3
《白き翼》エルデ・ヴァイス。
いわゆる「紳士録」には掲載されていない名前である。もちろんシルフィードが入手している「賢者の名簿」にもそれはない。
とはいえ、それは当たり前だという気もしていた。なにしろエルデ・ヴァイスという名で今し方まで仲間であった人物の賢者名である。既知の名である方が奇妙だと言える。
――こんな時にアトルが居てくれたら……。
アプリリアージェは絶対に口にしないと決めていた言葉を不覚にも心の中でつぶやくことになった。
歩く図書館を自称するアトラック・スリーズであれば、紳士録に記載されている賢者の名前はおろか、過去に判明している賢者の名を全て記憶しているはずだったのだ。
だが、アプリリアージェはすぐに自分の考えを唾棄すべきものだと判断することにした。
アトラックが知っていたからと言ってそれが何になるのだ?
そう結論づけたのだ。
何より本人がそこにいるのだから。
アプリリアージェは頭の中を整理した。
そこにいるルーナー……高位ハイレーンの賢者名は《白き翼》。
そして、現名(うつしな)はエルデ・ヴァイス。
種族はピクシィ。瞳髪黒色(どうはつこくしき)の若い娘である。
正確な年齢はもちろん不明だが、成人と思われる。幼さを感じない面立ちからすると、二十歳か、あるいはそれ以上か。
目で見て入手できる情報はそれだけだった。
想像や予想は自由だが、アプリリアージェには今そうする事に意味があるとは思えなかった。
後は本人から情報を得ればいいのである。
(なんにせよ……すべてはこれからだ)
《蒼穹の台(そうきゅうのうてな)》にしろ《二藍の旋律(ふたあいのせんりつ)》にしろ、《白き翼》という賢者の名を口に出せば、さすがに知ってはいるだろう。だが男の姿をしたエイル・エイミイの姿にその名を重ねることは不可能だったという事なのである。想像だにできなかったに違いない。
しかし、目の前にいる瞳髪黒色の恐ろしい程の美貌を持つ少女がその名を口にすれば話は違う。《二藍の旋律》が本来の姿の《白き翼》と最初に出会っていれば、ランダールの宿屋の娘、カレナドリィ・ノイエがその若い命を失う事はなかったであろう。
しかし、そこで疑問が同じ輪を巡り出す。
そこまでしてひた隠しにしていた《白き翼》という名が一体どれほどの重さを持つというのか?
つい今し方シグ・ザルカバードが口にした言葉をアプリリアージェは改めて思い出していた。
『その名を知った者を現世に帰すわけにはいかない』
シグは間違いなくそう言ったのだ。そのときの強い調子には冗談のかけらすら感じられなかった。文字通り「そう」なのだろう。
つまりエルデの行動をシグが証明して見せたのだ。《白き翼》がどうやら本当に特別な名前であることを。
(でも、なぜ?なぜ隠す?)
アプリリアージェの疑問は、同時にエイルの疑問でもあった。そしてもちろん、ファルケンハインにとっても。
「色々と驚きの連続ですが《白き翼》と名乗るあの少女を見ても、私にはどうにもピンと来ません。体が全く違うと言ってしまえばもちろんですが、それでも古語で大言壮語しているエルデとは雰囲気が違い過ぎませんか?」
アプリリアージェの耳元でファルケンハインがそう囁いた。それはアプリリアージェとて感じていたことではあった。
「態度の是非はともかく、エルデが言っていたことはいつも決して大言壮語ではありませんでしたけれど」
「まあ、そう言われれば確かにそれはそうですが」
「その話はともかく、私もあのピクシィの《白き翼》がエルデの正体だと言われても俄に納得できないものがあります」
そうつぶやくアプリリアージェの前方で佇む少女の姿は、どうみても自分の背丈よりも長い精杖を振り回し、信じられないような強力なルーンをサラリと唱えて見せる賢者には見えなかった。
だが、ただの少女ではない事も感覚として理解できていた。一見弱々しげに見える少女が纏う強いエーテルが見えるような気がしてならなかった。
アプリリアージェが気がかりなのは、その雰囲気が快いものではなく、むしろ不快と言える種類のものであることだった。
警鐘とまでは言わぬまでも、心の中に生じた不安の種が次々と芽吹く事をどうしても止められない、そんなざわざわと落ち着かない気分がずっと続いているのである。
「さて、お体の具合はいかがですかな?」
エルデはシグにそう問われると、初めて気付いたように腕を伸ばして手を握ったり開いたりして見せた。そこには上体を起こそうとしてもがいた時の、下手な操り人形のようなぎこちなさはもう無かった。
「完全な修復には心より感謝します。今のところ不具合はないようです」
「それは祝着」
「ですが」
エルデは胸をなで下ろしたシグにその美しい顔を向けると、その大きな目をつり上げて睨んだ。ただでさえ目尻が上がり気味の、その美貌が眉根に皺を寄せてにらみ据える様は、相当の威嚇効果があった。エイルなどはそれが自分に向けられたものではないのにも関わらず、息をのんで思わず上体を後ろに反らそうとしたほどである。
「いかがしました?」
「いかがしましたもないでしょう?私のこの体を裸のままで安置してあった納得のいく理由をお聞かせ願いたいものです」
エルデの怒りは少女らしいもっともな理由であったが、それを聞いたアプリリアージェとエイルは拍子抜けしたように肩の緊張を解いた。
「これはしたり」
シグは《白き翼》の指摘に、自分の禿げた額を手でピシャリと打った。
「美しいものをもっとも美しく見えるように安置してあっただけでございます」
《白き翼》はそれを聞くと名前とは裏腹に顔を真っ赤にしたままでシグの軽口とも取れる回答に対して小さくため息をついた。
「まったく」
「まあ、お体に不具合がないようで何よりです。しかしながら私には再会を喜んでいる時間はあまりないようです。つきましては早速」
「早速?」
《白き翼》エルデ・ヴァイスは首をかしげるようにして自分の師を見上げた。
「何の話です?」
「とぼけてもらっては困ります。忘れたとはおっしゃいますな。あなたのわがままを聞き入れた代わりに、今度は我が意志を通す番だと申し上げております」
そう言うとザルカバードはエルデの頭に手を載せ、そのまっすぐな黒髪をそっと撫でた。エルデはそれを嫌がらず、されるままだった。
だが、そこには大きな変化が生じていたのである。
「司令!」
二人の様子を見て、ファルケンハインは思わず声をあげた。
言われるまでもなくアプリリアージェにもその時シグ・ザルカバードに起こった変化が見えていた。
大賢者の姿がどんどん薄くなっているのだ。透けているのである。
その状態でありながらもシグ本人は慌てず騒がず、驚きのあまり目を大きく見開いている目の前の弟子に静かに語りかけた。
「あの後少し考えてみました。結果として私はもう何も言わぬ事にしました。あなたはお好きなようにお生きなさいませ」
「その体……師匠、まさかすでに?」
シグの透けてゆく体に気付いたエルデの言葉に、シグはうなずいた。
「既に滅せられた身です。エーテル体としてこの閉ざされた世界で短い生にしがみつくよりも、我が主の糧となりとうございます」
「バカな!」
エルデは思わずそう叫ぶと、寝台の上に慌てて立ち上がろうとした。だが、まだ自分の肉体を完全に制御できていないのであろう。立ち上がった瞬間に足下をふらつかせると、その場に膝を突いた。
「あっ」
慌てて手をついたエルデは、そのままの姿勢で顔を上げた。その視線の先にいたシグ・ザルカバードはにっこりと微笑むと、透き通る腕を伸ばした。
「この空間を出ても、しばらくの間はお側におります故」
そしてそれがシグ・ザルカバードが発した最後の言葉になった。
一同が固唾を飲んで見守る中、エルデは唇を嚙むと顔を上げ、意を決した様に小さく、だが力強い声を発した。
「ノルン!」
それはエイルが精杖を呼び出す言葉の一つ、いや、その三色の精杖につけられた銘であることをアプリリアージェ達は既に知っていた。それを裏付けるように次の瞬間には見覚えのある三色の長い精杖がエルデの細い手に握られていた。
いつものように、地面に対して水平に。
その姿を見た誰もがその時に思った。この少女は本当にエルデ・ヴァイスなのだと。
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