第四十話 イース・バックハウス 2/4
就寝中とはいえ部屋の中は少ないながら自光石セレナタイトの光がまだ残っており、イースのいるベッドの周りは普通に相手の姿が見える程に明るかった。
イースの目に映ったのは、こちらを向いて優しくにっこりと笑う青年だった。丸いメガネの奥の瞳は薄い茶色というよりはほとんど金色で、焦げ茶色の長い髪は後ろで無造作に一つにむすばれている。やや派手目の旅装束と思える服を纏っていたが、なによりその存在感にはなんとも言えないゆったりとした気品があった。
一見して、戦士や賊というよりは育ちのいい学者か暮らしぶりのいい芸術家と言った匂いをその青年からイースは感じた。しかも言葉遣いとその服装から、かなり家柄がよさそうに見えた。
そしてもちろん、初めて見る顔であった。
エルネスティーネと目が合うと、金色の瞳を持つメガネをかけたデュナンの青年は、片方の膝をついて深く一礼した。
「エルネスティーネ王女、突然のこのようなご無礼をお許しくださいませ」
「何者だ?」
イースの声は低く小さかったが、寝室に凛と響いた。もちろんその金色の目を持つ青年の耳にも。
その声には震えや高ぶりはなく、威厳と落ち着きのあるものだった。イースはそんな自分自身の声の響きに震えがないのを知って安堵した。
「良家の賊」は顔を上げると再び屈託のない笑顔を見せた。
「その落ち着いた声色と毅然とした力ある緑のまなざし。何より纏った気高い空気。まさしく本物のエルネスティーネ王女。変わり身の部屋に忍び込むなどという無駄足を踏まずに済みました。まさに僥倖でございます」
「ご託はいい。我の質問に答えよ、賊。それとも望みとあらば我が声を上げ衛兵を呼ぶことにためらいはないのだぞ」
「いえ……」
賊の青年は機嫌良さそうにクスっと笑うと首を振った。
「聡明な姫はこの状況を把握なさっておいでです。すなわち今衛兵を呼んでも意味など無いことはご理解していらっしゃるはず」
「笑止」
「これは重ね重ね失礼を。こちらからお願いに上がったのですから、まず名乗るのは最低の礼儀。大変失礼いたしました」
「招かざる客としての分際をとく弁えよ」
精一杯の剣幕をぶつけたつもりのイースだが、賊には全く通じないようだった。彼は終始落ち着き払っており、かつ癪に障ることにイースの恫喝に対して反応すらしなかった。
「申し遅れました。私はミリア・ペトルウシュカと申します」
その男があくまでも自分のペースで事を進めるつもりなのだということがイースにはよくわかった。腹が立って歯ぎしりをしたい気分だった。
だが、それよりもその賊が口にした名前は彼女の興味を引いた。
「ミリア・ペトルウシュカだと?」
そう、イースの寝所に単身忍び込んだのはあのミリアであった。
イースは青年の名前に聞き覚えがあった。ドライアドの北方にある広大な領土を有する有力な、そして有名な貴族の名である。また、同時にペトルウシュカ公爵の二つ名をも思い出した。
その「バカ殿」の名前をただの賊がなぜ騙る必要があるのかが理解できない。すなわち相手の意図をもう少し知る必要性を感じていた。
いや、違う。
ただの賊であろうはずもない。しかし、海を渡ったドライアド大陸の北の領主がこんなところに忍び込んで来るはずもない。ましてや件のバカ殿は山間の領地に幽閉状態にあると聞いている。
「戯けたことを。エスタリアの公爵殿がなぜこのような場所に単身忍び込むことができようか。何のつもりか知らぬが、我が我慢にも限界がある事を知れ」
「恐れながら姫君。我が名はまさしくミリア・ペトルウシュカ。ご存じの通りエスタリアの領主にしてドライアド国王より公爵を頂いております。もっとも……」
そこまで言うとミリアはいたずらっぽくウィンクして見せた。
(な……私に目配せをするとはなんと破廉恥な……)
「エスタリアのバカ殿と言った方がファランドールでは通りがいいのかもしれませんが」
「まだ申すか。さらばそちがペトルウシュカ公ミリア殿であることを証明する物を示せ。示せぬのであれば観念して真実の名とここへ参った目的を包み隠さず申せ。言っておくが、我はあまり気が長い方ではない」
「証拠と申されましても……」
ミリアは苦笑しながら頭を掻くと、思いついたように両手を首の後ろに回してなにやらごそごそとしたかと思うと、首からかけていた物を外して掌に載せ、一歩エルネスティーネの方に歩み出てそれを掲げ示した。
それはウンディーネ大金貨ほどの大きさの丸い形をしたリリス製と思しき軽く暖かい金属で出来たペンダントで、薔薇の模様が浮き彫りにされていた。
「これは?」
「我がペトルウシュカ家のクレスト、四連白野薔薇のレリーフです。古くから伝わる物でして、私は母よりこれをもらい受けました」
賊がペトルウシュカゆかりの者から盗んで来たものなのであろうか?イースにはそれはわからなかったが、そのクレストをレリーフにしたリリスのペンダントが安物でないことだけは理解できた。
「我がこの先何度そちを偽物だと繰り返してもそちは自分を本物と言い張るだけなのだろうな?」
「御意。なぜなら私は本物だからです」
「この件についてこれ以上詮索しても時間の無駄ということか。ならば聞こう。ここへ来た目的を」
「かしこまりました。ですがその前に……」
「む?」
ミリアはなぜか苦笑しながらペンダントを隠しにしまうと、羽織っていた紺と金の薔薇の模様をあしらった派手なマントを脱いで、そっとエルネスティーネの傍によった。エルネスティーネは思わず身構えたが、半身を起こしているだけだったのでその場をとっさに動くことはできなかった。何よりバカ殿を名乗る青年の動きは考えられないくらい速かったのだ。しかも、極めて優雅に。
「大丈夫です」
ミリアは優しくそう声をかけると、手に持ったマントをふわりとエルネスティーネに羽織らせた。
「この先は少し話が長くなるやも知れませぬ。そのようなあられもないお姿では風邪を召します」
ミリアの一言でイースはようやく自分が今、いったいどういう姿でミリアと対峙していたのかを思い出した。
そう、イースは一糸まとわぬ全裸の状態だったのだ。ベッドに入って寝(しん)に着くときには、寝間着を脱いで素肌でアルヴスパイアのブランケットに入り込むのがエルネスティーネとイースのお気に入りの寝姿であった。冷静を装っていたつもりであったのに、ベッドにあるブランケットで体を隠すことすら思いつかないほど、つまりは緊張の極みにあったと言うことであった。
イースはかけられたマントの前を両手できつく合わせると、首のあたりまで真っ赤に上気させて思わずうつむいた。
「ぶ……無礼者……」
全て見られていた……。
イースの頭の中は一瞬の間にその事で一杯になってしまった。
もとより寝相のいい方ではないイースは、その夜のように快適な室温でベッドに入ると、何度も寝返りを打ちながら知らず知らずブランケットを脇に押しやってしまう事がよくあった。その夜もまさにそれで、ブランケットはとうに床に蹴り落とされ、イース自身は素裸のままでベッドに横たわっていたのである。
着替えを担当する付き人に素裸を見られることは日常であり特に羞恥も何も感じたことのないイースであるが、それは女性同士という大前提があるからだ。ミリアの前では今まで感じたことのない強い羞恥で頭が沸騰してしまいそうなほどであった。顔の火照りが尋常でない程になっていることが自分でわかるほど動揺していたのだ。そしてたぶん、うっすらと涙が溢れているであろうことも……。
そのあまりの羞恥に、ミリアの目をまともに見ることすらできず、うわずった声でそうつぶやくのがやっとだった。そこにはすでに毅然とした王女の姿はなく、ただ小さな少女がうずくまっているだけであった。
ミリアは王女のあまりの変貌ぶりを見て、心の中で頭を掻いていた。
(最初に言った方が良かったかなあ……)
とはいえ、相手のことを思えばもはやその件については無視することが最善な対応策だと言うことを彼は知っていた。
「では、ここにまかり越しました件について申し上げます」
ミリアは努めて平静な調子で口を開いた。
だがイースにしてみればそれが逆にいたたまれなかった。そして何度も繰り返した問いを自らにぶつけるしかできなかった。
(いったい何者なの?この人は?)
「ファランドールで近く、大きな戦争が始まります」
イースは何も答えずにうつむいたままじっと聞いていた。
(そんな事は水たまりのボウフラでさえ知っている)
そんな事を言う為にわざわざ来たとは思えなかった。
イースは何も反応せずに、次の言葉を待った。
ミリアはそんなイースの様子を見るとそのまま続けた。
「お聞き及びかどうかは存じませんが、その戦争は世間で言われているような、ドライアドがサラマンダを併呑する為にシルフィードとの条約を破って挙兵し、結果としてシルフィードとドライアドとの大戦になる、などという単純なものではありません」
イースは思わず顔を上げた。
「どういう事だ?」
イースとて現在の政治情勢はある程度把握してはいる。ドライアドの最近の挑発的とも言えるあからさまなサラマンダ介入についてシルフィード外交筋から緊張感のある報告が続いている。もはやシルフィードがドライアドの条約違反を容認するか、さもなくば戦うことになるかを選択する必要に迫られている状況であった。
ただ、シルフィードには国是とも言えるべき定めがあった。
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