第三十一話 キャンセラ 8/8

 その行為は「交渉成立」と言ったエルデの承諾書のようなものなのかもしれない、とアプリリアージェは思った。

 エイルは手の内を一つ見せたのだ。


 エルデはノルンと呼ぶ精杖を強く握ると続いて違う名前を口にした。

「ウルド」

 その言葉にまたもや精杖が反応した。三色の木で撚られたノルンという精杖が、呼びかけに応じて一瞬で黒一色に変化したのだ。

 その黒い杖が何を意味するのかは誰もわからなかったが、それがこれから行われる恐ろしいルーンの準備なのだと言うことは明らかだった。

 エルデはアプリリアージェの変わらぬ静かな緑色の瞳を見据えると、詠唱を開始した。

「ウィール・デルダモデグ・ワヴド」

 それだけだった。

 ごく短い、まさに一瞬の詠唱が終わった瞬間、精杖の頭頂にいくつかはめ込まれているスフィアの一つが白く輝き、そこからまばゆい光の筋がアプリリアージェに向かって放たれた。

 それもまた一瞬の事で、光がアプリリアージェの胸を貫いたかと思うと、もう次に瞬きをした時には何事もなかったかのような状態で二人は向き合っているだけだった。

 ルーンは発動したはずだった。だがエルデは何も言わず、詠唱を終えた時のままの姿……杖を握り、それを水平に構えたままの姿で立っていた。


 アトラックは怖いものでも見るように、アプリリアージェと、そしてエルデを見比べた。何度見てもエルデはもちろん、アプリリアージェにも変化は現れていなかった。

「あの、「死の宣告」というルーンはそれで完了?」

 アトラックはおそるおそるエルデに尋ねた。

 エルデはアトラックの方をチラリと一瞥したが、問いには答えずアプリリアージェに視線を戻すと、声をかけた。

「リリア姉さん、気分はどないや?」

 アプリリアージェは心配そうに見守るファルケンハイン・ティアナ・アトラックの表情を順番に見やった後、テンリーゼンをチラとかすめ見て視線を落とし、自分の両掌を広げて見た。

「なんだか、とてもスッキリしていい気分です」

「え?」

 アトラックは思わずそう声を上げ、ファルケンハインをみやった。

「その恐ろしいルーンは、副作用で気分を高揚させたりする効果もあるものなのか」


 ファルケンハインはアトラックには目をくれず、独り言のようにそう呟いた。

 次は自分の番、と彼は決めていたのだ。それだけにアプリリアージェの感想には興味を引かれた。命を預けたアプリリアージェが決めた事だ。ルーンを受けるのは全くもって問題はない。喜んで受けようと思っていた。だが、望めるならルーンを受けた後に肉体的・精神的な苦痛を伴わないとありがたいと考えていたのである。もちろん、それは戦闘に差し支えるからだが……。


「うん。だいぶん顔色もようなってるで、リリア姉さん。さっきは唇なんかほとんど土気色やったしな」

 エルデの言葉にアプリリアージェの太めの眉が大きく反応した。

 それを見てエルデはしてやったりという顔でニヤリした。

「命を張った作戦の直前なんやろ? 万全の体調とスッキリした気分で冴えた指示を頼むで、司令殿」

「え?」

 アプリリアージェはこれまた珍しくキョトンとした表情でエルデを見上げた。

「さっき言うたやん。これから皆さん、命を張って俺の事を守ってくれはるんやろ?」

 エルデはそう言うと精杖の先を床に突き、肩を竦めて見せた。

「さっさと作戦実行と行こ。時間はそんなにないはずやで」

「エイル君……」

 ファルケンハインとティアナとアトラックはお互いに顔を見合わせた。

「いや、俺達へのルーンはどうするんだ?」

 ファルケンハインが精杖を指輪に戻したエルデに声をかけた。

「え? そう言われてもファル兄さんはじめ、あんたらはみんな元気そうやん?」

 エルデはとぼけて答えた。

「エイル君がかけてくれたのは『死の宣告』のルーンではなくて、どうやら回復系のルーンですね」

 アプリリアージェはファルケンハインに言った。


「回復系だと?」

 ティアナがそう問いかけると、エルデは事務的な口調で答えた。

「我々マーリンの賢者は確かに国際賢者法で許された特権として無裁判で処刑もできるし、遅延呪法である『猶予ある死の宣告』も使える。でもそれは各条約に則した咎人に対してのみ許される行為とされている」

「それは知っているが」

 エルデは悪戯っぽい笑顔を浮かべると、元の古語調で続けた。

「ほんなら、咎人でもないリリア姉さんやティアナ姉さんにそんなルーンを使えるワケないことくらいわからんか?」

「あ……でも、この場合は」

 ティアナの言葉をエルデは厳しい口調で遮った。

「見損ないなや。俺はマーリンの賢者や。賢者の名において定められた法に従うだけや」

「しかし」

「しかしもカカシもないっちゅうねん。でけへんもんはでけへんねん! こう見えて賢者は自らの作った厳しい法で縛られてるんや」


『エルデ、お前』

【や・か・ま・し・いっ!】

『わかったよ。うん、お前はそういう奴だ』

 

 エイルは心の中で苦笑していた。

 傲岸不遜で高慢で鼻持ちならない態度。人を見下し、残酷で冷徹を装う。エイルは時にエルデに対して憎しみさえ抱く事もあった。しかし、エルデの根底に流れているものは、今アプリリアージェに対してとった行為が雄弁に語っていた。

 それを知っているからこそ、自分の体を任せる事が出来るのだとエイルは改めて思う。

 ある意味、これほど強い結びつきはないだろう。文字通り苦楽を共にする奇妙な関係は、口先がどうあれ精神的な結びつきが強くなることは間違いない。

 だからこそ、そんなエルデとの奇妙な関係が既に日常になっていることに思い至ってエイルは愕然とするのだった。


「ええっと。そう言うものなのか?」

「そう言うもんや」

 どちらにしろアトラックは自分達に呪法がかけられないことを知って正直なところほっとしていた。緊張感が解けると、今度はおかしさがこみ上げてきた。


(なんか、エイルって外向きには思いっきり意地っ張りな子供みたいですね。屈折してるというか天の邪鬼というか)

(確かに素直ではないことは確かだな。だが、)

 小声で囁くアトラックに珍しくファルケンハインが同じく小声で答えてきた。

(悪いヤツじゃない、というのも間違いのないところのようだ)

(まあ、目つきは悪いですけどね)

(それよりアトルは司令の体調不良に気づいていたか?)

(いえ、全然。あ、でも今日、例の暴走未遂があったんですよ!いろいろあって忘れてましたが)

(そうか。体調不良と関係がありそうだな)


「これ以上はない援軍を得たところで、早速作戦の実行に移ります」

 エルデの行動にさすがのアプリリアージェも一時は困惑していたが、切り替えは速かった。

 一見すると布のような素材で出来た白い面を懐から取り出すと、それで顔を覆った。テンリーゼンがしている面と同じようなものだった。

 顔を隠す、それだけの事だったが、微笑をたたえた顔が無表情な面に変わっただけで、アプリリアージェの持つ雰囲気がガラリと一変した。

 これがいわゆる「白面の悪魔」の姿であろう。

 白面を取り付けたアプリリアージェは一同を見渡した後、顎を少し上げて少し深呼吸すると、短くそして鋭く告げた。

「これより予定通り作戦に入る」

 アプリリアージェの言葉遣いもまた、戦闘用に変化した。それはすなわち戦いの開幕を知らせる合図であった。柔和な笑顔で一行を和ませていたダーク・アルヴの美少女は、一瞬にして悪魔の役になりきったのだ。

「了解」

 ファルケンハインとアトラックは即座に反応してシルフィードの海軍式敬礼をした。ティアナはそれを見てあわてて近衛軍式の敬礼で後に続いた。


【ほう】

『夢で見た時の怖いリリアさんの感じだ』

【ついに本性現したってとこやな】

『本性なのかな』

【「白面の悪魔」の由来になった面か。リリア姉さん、本気や言うことやな。俺達も覚悟決めなあかんな】

『もちろんだ』

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