第十一話 ティアナ・ミュンヒハウゼン 2/6
ティアナが国王の私室に入ったのは、当然のことながらその時が初めてであった。もっとも案内された部屋が王の寝室であることすらティアナは知らなかった。だが少なくとも普通の兵士が足を踏み入れることなどまずありえぬであろう場所なのだということは、あらゆる常識を照らし合わせても自明であった。
その部屋は、国王の部屋だと説明されなければ、いや説明されたとしてもにわかにはそれと納得出来ないほどこぢんまりとしており、調度類にも華美な装飾や凝った細工などが一切なく、つまりティアナは驚いていた。
たいして広くはないその寝室は、どうやらただ寝るだけの部屋というわけでもなく、簡単な執務もできるように部屋の隅には大振りの樫造りの机が置かれてあった。両袖には燭台が置かれ、部屋はその暖かい色で満たされている。壁は白い漆喰と太い糸杉の柱で構成されており、大机の背後が一面書架であった。天井は漆喰のみで、シャンデリアなどの吊り下げものもない。いくつかのすっきりとした形の燭台は柱に設えられているのみである。
つまり、ティアナが知る限りでは上級将校の部屋の方がまだ豪華に感じられるほど、質素であると感じていた。
とは言え、ティアナはその部屋が紛れもなく国王の部屋である事を信じざるを得なかった。理由は簡単である。部屋着姿の国王その人がその部屋に居たからである。
カラティア朝シルフィード王国国王であるアプサラス三世はアルヴィンである。小柄な国王が、デュナンとしては長身のサミュエルと、サミュエルよりさらに長身のアルヴであるティアナを、立ったままで出迎えた。
その部屋にいたのはアプサラス三世だけではなかった。ティアナがよく知る王女、エルネスティーネが父親の傍らに佇んでいた。
謁見自体の謎はともかく、むしろその時ティアナが疑問に感じたのはエルネスティーネの服装だった。王宮内では嗜みとして普段はドレスを着用している王女であるが、父親の傍らに佇むエルネスティーネは、一見するとまるで町の娘のような身なりをしていたのだ。柄のない生地を簡素に仕立てた上下服。足下は同じく飾りのないひたすら丈夫そうな長歩きに向いたブーツという出で立ちであった。
国王と王女の姿を見て、とっさに片方の膝をついたティアナに、アプサラス三世が声をかけた。
「よい、ティアナ・ミュンヒハウゼン中尉。今はかしこまった挨拶は割愛しよう。顔を上げて立ちなさい」
近衛軍に所属して城内に長く勤務していたティアナだが、国王と直接言葉を交わすのは今回が初めてであった。直接会話するという栄誉に浴している事実よりもむしろ、ティアナが感動したのは国王が自分の名前を呼んでくれた事であった。それも族名ではなく、名前まで含めてである。この場が一体何であるのかという疑問はますます深まるばかりだが、そんな事はもうどうでもよく思えるほどの感激がこみ上げてきて、ティアナは自分でもわからないうちに涙ぐんでいた。
「光栄至極にございます。国王陛下」
ティアナはそう言っておそるおそる立ち上がると、右腕を左胸に当て、深々と頭を垂れた。膝こそついてはいないが、それは近衛軍における最敬礼であった。
それを見てアプサラス三世は小さくうなずいた。
「お前の話はいつもバード長から聞いているよ、ティアナ」
続けて王はティアナにそう声をかけた。
それに対してまたもや最敬礼を行いそうなティアナをサミュエルが手を挙げて制し、ティアナの代理のようにアプサラス三世に深々と一礼をした。
バード長とはもちろん近衛軍大元帥、サミュエル・ミドオーバの事である。バードとは国家所属のルーナーの事で王家に伝承される様々なルーンの継承者であると同時に、国王直轄の重要な軍事組織でもあった。基本的に高位ルーナーでなければバードに取り立てられる事は無い。
近衛軍大元帥であるサミュエルはその長を兼ねていたのだ。
最高位のルーナーと言われるだけあって、サミュエルには様々な逸話があった。その一つが彼が手に持っている仗で、その頭頂部の飾りに因んで『星を呑む獅子』と銘がつけられており、それは彼の能力に敬意を表したマーリン正教会のある賢者から贈られたものだと噂されていた。ティアナも飾りの由来についてサミュエルに直接訊ねた事があったが、サミュエルは曖昧に笑うだけでそうだとも違うとも言わなかった。
ティアナがぼんやりとその【星を呑む獅子】を見つめていると、サミュエルが口を開いた。
「陛下。我が秘蔵の弟子、ティアナ・ミュンヒハウゼン中尉でございます。まだ弱冠二十二歳ではありますが、フェアリーとしてのその特異な能力には目を見張る物がございます。また能力の高さも重要ながら、ご存じの通りこやつはエルネスティーネ様を心から崇拝しております。故に王女の旅の供として、こやつほど適任な者はおりますまい」
「旅?」
思わずティアナは疑問を声に出した。
不思議な単語を耳にした、とティアナは思ったのだ。つまり聞き違いではないかと。だからそう言ってサミュエルに目を向けた。だがサミュエルはティアナに何も反応はしなかった。
聞き間違いではないだと、ティアナは理解せざるを得なかった。
(旅だって? 旅?……だが、なるほど)
ティアナの中で、エルネスティーネの服装がサミュエルの言葉に紐付けできた。
そう、エルネスティーネはまさに旅装束に身を包んでいたのである。
「ティアナよ。お前がシルフィード王国に忠誠厚く、エルネスティーネの教育係の一人として、親身になって尽くしてくれていることを私はよく知っている。バード長の推薦もあり、今回重要な任務を余の名において命じたい」
「はっ」
さすがにちょっと待ってくれとは言えない。ティアナは取りあえずそう返事をするしかなかった。
アプサラス三世は満足そうにうなずくと、続けた。
「エルネスティーネの供として旅に同行してもらいたい。すでに気づいているとは思うが、これは軍事的な作戦行動ではなく、むしろ政治的な隠密行動なのだ」
「はっ」
しごく端折った内容ではあったが、ティアナは特命の中味を理解した。しかし、ある意味で謎が深まっただけとも言えた。使命の全容が皆目不明なのだ。一兵卒であればまだしも部隊を預かる立場にある将校にとって、自分が命じられた作戦の方向性や意図が見えない状況ほど不安な事はない。当然ながらティアナもその不安を胸に抱いた。
もやもやとしたまさに霧のようなものが胸の中に広がるばかりのティアナの不安をよそに、サミュエルがまた驚くべき事を口にした。
「しかも今回の任務は、部下を付けるわけには行かぬ。単身で行ってもらうことになる」
「何ですと?」
ティアナは思わず驚きを声に出した。
「ご冗談を! 王女様の護衛をするのに、私一人なのですか? 我が国の宝であるエルネスティーネ王女の護衛がただ一人とはあまりに無防備。御身に何かあったらいかがなさるおつもりですか?」
ティアナのその反応に、国王とサミュエルは顔を見合わせてニヤリと笑った。
「ふぉっふぉっふぉ。予想通りの反応よな、ティアナ」
冗談めかしてそういう師に、ティアナは軽い怒りを覚えた。
「笑い事ではございません、大元帥閣下。私は真面目な話をしているのです」
「まあ、話は最後まで聞け。近衛軍からは確かにお前一人だけじゃが、旅の供は一人ではない、ティアナよ。ただし、凄腕の剣士やバードという訳でもないがな。まずは紹介しておこう」
そう言うとサミュエルは両手を合わせて、パンパンと二度音をたてた。
それが合図であったのだろう。部屋の奥の扉が音もなく開くと、二つの影が現れた。
二人を見たティアナはまたしても声を上げた。
「なんと!」
ティアナの前に現れた二人のウチ一人は長身の男だった。
金色のクセのある長い髪をもつ三十代半ばといった、端正な顔付きをしたアルヴである。髭を蓄え、瞳は緑色だ。出で立ちはまさに旅人で、手にしたつばの広い帽子のくたびれ具合が、エルネスティーネのようなにわか作りではないことを示していた。
問題はもう一人の方であった。
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