白い月・黒い月

サキ

白い月 Scene 1

こんにちは、世界!(Hello world!)

 私は観測装置。型式名はオブザーバー880・サポートする人工知能はゲンマV30

 今、起動プロセスを完了した。

 観測を開始する。詳細データの収集はサブシステムに任せる。


 空は抜けるように青い。そして日の光は穏やかに降り注いでいる。環境は人が暮らすのに最適だ。

 真上を向いていたカメラを振ると、目の前には大きな湖が広がった。

 周りに見える山々は中腹までびっしりと木々に覆われていて、その上は灌木や草が生え、さらにその上は赤錆色の岩がむき出しになっている。風がまったく凪いでいるので周りの山の萌黄色と緑色、その上の赤錆色、その向こうの抜けるような空の色が、まるで鏡のような湖面に逆さまに映り込んでいる。今、水辺にいた薄紅色の羽を持った鳥の群れが飛び立った。鏡のような湖面は乱れ、空と山の色は混ざり合い、乱れあい、ざわめきあってから、ゆっくり元の鏡面に戻ろうとしている。周りの地形からみて、山々の壁に囲まれているここは多分カルデラの底で、この湖はカルデラ湖だ。私はこの場所で目覚めたことに幸運と幸福を感じていた。

 私は浮かび上がると湖に向かって移動し、水辺に到着した。

 美しい水だ。鏡に戻った湖面には再び山と空、それに真っ黒な球体が移りこんでいる。それは私の姿だった。そして人間の感度では無音に感じるほど静かだ。私の聴覚はセンサーのデータを無視し、耳鳴りのようなノイズを感じている。

 向こう岸に何かが見える。ズームしてみると向こう岸から突き出した半島の先端、森の中に、ぽつんと小さな小屋が建っている。ここで始めて見る人工物だ。

 私は岸に沿って回り込みながらその小屋へ接近することにした。

 水辺はそのまま森につながっていて、森は照葉樹に落葉広葉樹を一部含む原生林だ。

 小屋が見えていた半島は中央火口丘からできた馬蹄形の第2カルデラの一方の端が湖に突き出したもので、もう一方も湖に突き出して半島になっている。2つの半島は深い緑に覆われ、その一方の先端に目指す小屋は立っている。手前にある半島を飛び越え、湾となって入り込んだ湖水を渡り小屋に接近する。

 小屋は50平米程の広さで、半島の斜面に張り出すように立ち、南側に大きなテラスを持っている。テラスの奥、深い庇の下には大きな窓があって、流れ始めた穏やかな風にカーテンが揺れている。テラス側からそっと近づいて内部に侵入すると、窓の中は大きなリビングキッチンでその奥にドアが3つ見えている。開けてみると左側は寝室で大きなベッドが真ん中に置いてある。右側はユーティリティ。真ん中は開いていて廊下へと繋がっていた。

 中には誰もいない。

 リビングキッチンの半分は座り心地のよさそうなソファーと大型のモニターが占めていて、あとの半分にはアイランドキッチンが座っている。私はゆっくりとそのカウンターの上に着地した。

 そのとき「動かないで!レーザーで狙ってるわよ!」声がした。

 センサーは生物の接近を関知していたが、私はあえて反応しなかった。ハンディレーザーぐらいはどうということはないが、一応動かずにおく。

「こんにちは、私はオブザーバー880、サポートする人工知能はゲンマV30。危害を加えるつもりはない。顔を見せてくれないか?」私は冷静に声をかけた。

「オブザーバー?ゲンマ?なによ。それ!出て行っても安全だって証明してくれたら出て行くわ」

「それは無理だ。信じてもらうしかない。まあ、危害を加えるつもりならとっくにやってると思わないか?」

「それもそうね」ベランダの窓際から女がゆっくりと姿を現した。

 細身の体に漆黒の髪、肩まで伸ばしているが半分ぐらいは引力に逆らっている。両の瞳は濃い茶色だ。顔の作りは東域系の民族の血を強く引いているようで彫りは深くない。だがそれにしては色白だ。

 彼女は腰の横に小さな黒いものを構えていて、それをこちらに向けたままゆっくりと近づいてくる。

「こんにちは、私はオブザーバー880、サポートする人工知能はゲンマV30」私はもう一度繰り返した。

「それはあなたの名前なの?そんなに幾つも名乗っても覚えられないわ」

「私のこの体はオブザーバー。そして喋っているのはサポートする人工知能のゲンマだ」

「体なんてどうでもいいわ。考えて喋っているのはゲンマ、あなたなの?」

「そういうことになる」

「あなたは何?そこで何をしているの?」

「観測だ」

「観測?」彼女はからかうように繰り返すとそのまま笑い始めた。

「観測?それって、何の意味があるの?」

「私は手順どおり動いているだけだ。幾許かの疑念は感じるが取りやめるだけの理由は無い」

「ここを観測して誰に報告するの?あなたを雇ったのは誰?その報告を聞いて誰かがここにやって来るの?」

「それらの質問に対する答えを私は持っていない」

「それは分からないってこと?でもここは素晴らしいところよ。ここの報告を聞いて、ここに住みたいなんて奴が居たらもちろんだけど、たとえわたしからこの世界を奪いたいなんて思う奴がいたとしても、悪魔でも神様でもかまわないわ。喜んでご招待いたしますわ。会ってみたいもの。たとえ出会った次の瞬間に殺されるとしても……」

 彼女は構えていた小型のレーザー銃をテーブルの上に放り出すと、ソファーにボウンと身を投げ出した。そして大きな窓の向こうに広がる湖をぼんやりと眺め始めた。鏡のように風景を映していた湖面は、吹き始めた穏やかな風から生まれたさざ波で、精密な打ち出し細工の銀板に変化していた。

「ねえゲンマ」彼女はふいにこちらを向いて声をかけてきた。「ゲンマと呼んでもいいかしら?」

「何の問題もない」私はそう答えてから続けた「では私はあなたをどう呼べばいい?」

「わたし?わたしはスピカ。スピカっていうのよ。変な名前でしょ?あまり気に入ってないんだ」

「変だとは思わない。チャーミングな名前だと思うが?星の名前で、穂先というような意味を持っている」

「ふ~ん、そう」とスピカは興味なさそうに続けた「本当は別の名前だったんだけど、ここに来てからこの名前なの。本当の名前は思い出せないわ。忘れたのか消されたのか、それすらね」

「ここは何ていう所だ?」

「ここ?この大きな丸いへこみはアルファルドっていうの。湖はミアプラキドゥスよ。舌を噛みそうね」

「アルファルドは“孤独なもの”ミアプラキドゥスは“静かな水”というような意味だな」

「そうなんだ。孤独なもの……か、静かな水はピッタリね」スピカは静かに繰り返してから「ゲンマは人工知能って言ったわね。だったらそんなボールみたいな体には入らないわね。ゲンマは本当はどこにいるのかしら?」と訊いてきた。

「人工衛星の中だ。この体オブザーバーとはNETで繋がっている」

「傍には誰かいるの?」

「センサーはこの体にしかない。だからデータがない」

「そう……」スピカは遠い目をしてそう言うと力を抜いてソファーに沈みこんだ。

 驚くことにやがて寝息が聞こえ始めた。私はそっと上昇して近づいたが、目を覚ます様子は無い。私は元のカウンターに戻って彼女が目覚めるのを待つことにした。色々と疑問を感じるが、質問はスピカが目覚めてからにすることにした。


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