駄文2018/03/14

・サボったらかえってよかった


 昨日あたりから、朝の頭の回転の悪さが顕著になってきたので、開き直って午前中ゲームをして過ごす。カフェインが効いてくるタイミングと区切りの良い場面(死んだ)とが重なって、スムーズに他の日課へ移行することができた。


 ここで昼食を摂ると、また調子が落ちるということが経験的に分かっているので、先にブレストを済ませようという魂胆である。昼食後は外出用事2件、帰ってきたら昨日終わらなかった単純作業2件をクリアする。そのあとの時間は読書と大きめの作業についての段取りをつける。


 食事が不調のトリガーになるということは以前から明らかで、それで昼食を抜いたりしていた時期もあったのだけど、長期的にはそのほうが体調低下につながってしまうようだ。ただ、「不調」というときに、どの程度を標準としているのか、ということはある。


 カフェインで完全にハイになっている状態を標準にしてしまうと、それ以外の時間は全て具合が悪いということになる。そこまで気分が良くなくても、やろうと思っていたことができればこれは「好調」と見なしているけれど、できる・できない、だけではなくて、進捗が良いかどうか、ということも関わってくるだろう。


 そこで重要になってくるのが、それぞれの作業の順番である。なんらかの法則があるのか、順番が上手くいくと、進捗が倍になる。ただし、それは日によって異なるので、習慣付けが必ずしも有効ではない。


 昼食前に概ね日課を終わらせる、ということはおそらく有効であるように思われる。最近日記からはじめていた日課を、スケッチからはじめたのは正解だった。あとは頭の起動時間を短縮することができまいかと思う。


 前日早く就寝できればいいのだけれど、用事があったり作業があったりしてままならない。例えば、音源のアップロードなどは翌日に回してしまうのが良かろう。日次の作業報告も、就寝前ではなくて、夕食直後が良さそうだ。その後は特別なことがない限り作業をせず、次の日の進捗に回すというのが理想である。楽器の練習はまあやむ無しか。


 懸案があると、睡眠効果が減少するということもある。些細なことでもクリアしておかないと、期限切れやトラブルを恐れる心が神経を高ぶらせる。ある程度優先順位に余裕があるうちに、気になるものから半分ずつでも手を付けていったほうが良さそうだ。


・ルールと即興


 自分の脳は仕事と暇つぶしを区別しないか、理性とは異なった区別をしているように思われる。会社や団体のような組織で規律を守って勤労するということには、元々向いていなかったのかもしれない。


 しかしだからといって、完全に自由にしてしまうと、易きに流れてしまう。自分専用の規律を組み立てる必要があるけれど、その作業にはきっと終わりが無いのだろう。


 状況の変化もあるし、加齢もある。その変化への対応のうち、もっとも小さい単位のものが、毎日の日課の順番の組み立てということになる。すると、ある程度のルールに基づいて、具体的な行動についてはほぼ即興のようなものが求められる。


 すると、うまくいかない(=当初のイメージどおりではない)ということで、後ろめたく思うことはないのかもしれない。その時点でベストというか、そうあるのが自然である、という方向へ流れを差し向けてやることができればいい。それが出来なければ、出来なかったということに自覚的であればいい。


 言葉にするのは簡単だけど、その意識を行動に反映させるのは難しい。難しいというのは、失敗や見当違いが予想されるということで、これも当初のイメージ通りか、妥協できる状況へ到達するまでに、時間と資源というコストがかかるということになる。


 では、「自分専用を規律を作る」ということにおいても、当初のイメージから逸れていっても構わないのだとしたら?その逸れた先の結果が、生活の安定や発見に結びつくのであれば「構わない」ということになるけれど、そうでなければ単に自分で決めたことを放擲しているに過ぎない。


 規律を作ること、即興的にやること、いずれも目的は生活の維持と向上である。ある段階からは、従来上手くいっていたものも通用しないということはあるだろう。その壁にぶつかったときに、成功例に固執することなく、新しい方法論を試し続けられればと思うけれど、それは方法論というよりも更に小さくて細かい認識やルールの改正であるような予感がする。


 それもまた、「従来の成功例への固執」なのかもしれない。退職ほどの大きな変化というのも今後あまりなさそうだけれど、抜本的な改変とそのための長い準備期間ということも視野に入れなければいけないだろう。あるいは、もう既にそれを実行しているとも言える。


・できることを増やす


 去年の12月から書き続けていたブレストを読み返していると、元から自分用に書いていたこともあってか、一人で面白く読むことができる。合計で20万字超の、自分用のテキストが出来上がっているのかと思うと、何だかありがたい気持ちにすらなる。傍からみれば間抜けに見えるだろうけど、こういう一人遊びが子供の頃から好きで、ずっとこういうことをして生きていきたいという気持ちが強く、それでこういうことを、いい歳してやっている。


 しかし、職業として成立するまでいかなくても、対価を授かることができる水準かというと、お世辞にもそうとは言い難い。人前でできる演奏ではないけれど、少なくとも自分は聴いて楽しい、ということとほぼ同じ構図である。


 この、社会と自分の認識のズレが、一生のテーマになるのかもしれない。自分が作ったものが、そのまま他の誰かの作品だったらどんなに良かっただろう。あるいは、このズレが逆向きで、つまり、自分としては低い水準なのが、社会には十分な水準だったりしたら、どんなに良かっただろう。


 無いものねだりをするよりは、現況から出来る工夫を考えるのが良さそうだ。自分にとって良いものなのであれば、続けることは容易い。作品そのものの水準というのは、続けること抜きに向上させることが(あくまで自分にとっては)難しいように思われる。最低限の条件はクリアしていることになる。


 その成長というか、水準の引き上げのためには、そろそろ競争原理を取り入れなければいけないのだろうか。薄々そう感じているものの、その競争というものが心底嫌いで、相手が他者だけでなく、いわゆる「自分自身との戦い」という表現についても、何か気に食わないところがある。


 「敵は自分の内にある」というような言葉遣いが許せないのかもしれない。自分に敵だとみなされていたとしたら、自分はその自分に協力しようとは決して思わない。敵呼ばわりは自分に失礼だと憤慨してしまう。


 「問題は自分(達)の内にある」なら分かる。敵同士ではなくても、理性的な自分と感情的な自分(この分け方もどうかと思うけれど)を切り分けて、そこに関係性を見出すのは、そこに何らかの問題が生じていることが多い。その問題を解消するために、力を合わせるか、たいていの場合は妥協し合うのが、本来ではないか、と思うけれど、こんなことは人それぞれなのであった。


 かえって、問題を見出すということが、水準の向上に不可欠なのかもしれない。それが、自分ひとりでやっていることなのであれば、問題を見出すことができるのは自分の内、ということになるだろう。できるだけ考えないようにしているだけで、自分の作品に不足しているものというのは、ほぼ全ての要素における、ほぼ全てである。ただその事実に押しつぶされないように、蛇口をきつく締めて、一滴一滴の問題を手探りで解決しようとしているのだから、必要が生じて、またその勢いに耐えられる算段があるのであれば、水量を強くするという判断もできる。


 そのときの「勢いに耐えられる算段」を、今つけようとしているのだった。日課を徐々に変化させること、細かい改善のアイデアを試すことは、自分への負荷を上げるための、綿密な準備でもあった。さらに、負荷を上げることは、生活の維持のための準備である。

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