駄文2018/01/30
・休息日
のんべんだらりと過ごしている割には、懸案をいくつかクリアできたので嬉しい。電話の連絡を一件済ませればもう今日はokということにして、夕食後はもう何もしない。
体や頭の調子によって強制終了するよりかは、不満の高まりを自覚して自ら退いたほうが反動が小さい。この場合の不満というのは、主にやりたくないことをせねばならない不満、やりたいことを十分にできない不満の2つである。
また、後者の「やりたいことを十分にできない不満」には、どうしても「理想の状況を実現できない不満」が含まれてしまう。その度に自分で操作できる物事は限られているので、人事を尽くして天命を待つのがよろしい。と言い聞かせるのだけど、はたして人事を「尽くして」いるかというと、正直そこまでの気概がない。
しかし限界まで何かをやろうとすることよりも、自分の快い感覚を頼りに、やったりやらなかったりするほうが、遠くまで行けるような気がしている。限界までやりきった、という実感が、そこまでしかできなかったことの言い訳に使われてしまうくらいだったら、「ここから先は快のゾーンをあまりに離れすぎる」という場合においては、そうそうに休んでしまうほうが自分には合っている。
ミハイ・チクセントミハイ博士が言うように、もっとも作業に集中できるのは、余裕でできるレベルの少し上の作業に当たる時であるとして、その集中が終了した後の休憩というか、回復については、どのように考えていくのが良いのだろう。
疲労の種類によって回復の手法を分けるということも考えたことがあったが、たいていは複数種類の疲労が混在しているので、必ずしも効果的な選択ということができない。
それでも、最低限必要なものは回復のための「時間」である。これをまず大枠で設けるということは避けられない。
するともうこの時点で、休息に対する後ろめたさが発生する。その分の時間をどうして進捗に当てることができないのだろうか。休む暇があれば手を動かせ、という感覚に襲われてしまう。
・木こりは分かっているのかも
いつも思い出すのが、一心不乱に働く木こりの話で、斧がどんどん刃こぼれを起こしているのを見た人が、いったん木を切るのをやめて、斧を研いだ方がいいですよ、と言うと、木こりは「そんな時間はない!木を切らなくてはいけないのだから」と返事をするという小話である。
彼が一つ誤解をしているとすると、作業の進捗を司るものはその「結果」であって、作業をしているという「状態」や、木を切るという「行為」ですらないという点である。
すると従来の「状態」も「行為」も迂回して「結果」を迅速正確に出すことができればなお良し、とするものが、産業革命以降の作業についての前提である。
しかし、それは進捗を求められている作業に限っての話である。その作業の「結果」がはじめからあまり意味や価値を持たないのであれば、「進捗の向上」は従来のものをカスタムする動機にはなり得ない。作業の意味や価値が「結果」ではなく、その作業の「状態」「行為」のほうに見出されている場合も同様である。
先ほどの話でいくと、もしも木こりはハナから木を切り出すという結果とその効率を求めておらず、木を切るという行為そのものに価値(快感)を見出しすぎて止められないのだとしたら、先ほどの問答はちょっと違う種類の笑い話になってくる。
・好きなことを休むこと
本来であれば、作業の状態や、行為そのものと、その結果との両方に、価値が見出されるべきである。それをやりたいし、それによって得られるものも欲しい。そういうことだけをして暮らしていきたいけれど、なかなかそういうわけにはいかない。
もしかしたら、自分が今、状態や行為そのものが好きだけどあまり結果に意味がない作業ばかりをしているのは、その逆の作業ばかりしてきた反動なのかもしれない。両立が難しいのであれば、異なる傾向の作業を組み合わせてバランスをとるということが妥当な線だろう。するとしばらくして、逆側に針が振り切れるということがあるのだろうか。つまり、今度は結果重視の苦役に自ら飛びこもうとするということである。
なんにしても、極端なことはしないほうがいいと分かっているけれど、今までの傾向を鑑みると、あまり利口な行動を取れないような気もする。
その転換点が訪れるまでは、ここ数ヶ月のように、何のためになるのかまったく分からない、しかしやっていて苦ではない作業に勤しんでいこうと思うが、どのような作業いあたるにしても、冒頭の休息の問題から離れることはできない。
しかしその点でいくと、好きでやっていることのほうが若干柔軟性が高くて、要はそれが楽しめなくなるほど疲弊してしまえば、それをやる動機が失われるので、「やめることができる」。木こりもまだ体力が有り余っているから、まだ木を切ろうとしているという意味では、好きでやっているのか必要に迫られているのかは分からない。
好きでやることが楽しめない、ということは、好きでなくなるということであるよりかは、好きであるということに集中できなくなるほどののノイズが増してくるという感覚に近い。肉体的、精神的苦痛が蓄積されて、もう何かをするどころではないという状態に追い込まれてしまう。
そんな時に、「自分は好きなことも満足にできない」と落ち込むよりかは、「自分は今、好きなことを楽しめる状態ではない」という判断をして、休息を優先したほうが精神衛生上も良い。また、スケジュールのような外的要因との兼ね合いも、疲労度によって選択を誤る可能性は変わってくる。
疲れる前に休む。ひどく疲れる前に休む。そのクセをもっと自覚的に身につけることがここから先は必要なのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます