駄文2018/01/16

・理性とストライキ


強制的にブレストを開始するという意味ではFlowstateはかなり自分に合っていると思う。しかし、「それを始めると脱線できなくなる」ということが分かっていると、今度はFlowstateを使い始めること自体に心理的抵抗が生じる。これでは本末転倒だ。



そこで、脱線をあらかじめ済ませておく。何らかの理由や予感があって、Twitterだのtumblrだのを覗きたいのだろうから、その要求には応える。仮に一日の全ての時間を理想通りに過ごすことができたとしても、それに対して不満を覚えるようであれば、次の日から同じようにしたいとは思えない。



それでも無理をして、理想を追求すると何が起こるかというと、体調が悪くなる。起きられず、何もできなくなる。なるほど、理屈上は自分の技術を向上させることに限界まで時間を割くべきであるから、それに対抗するには理屈を超えた、単なる体調不良をぶつけるしかない。どんなに窮地に追い込まれた試合でも、死んでしまえばすべてチャラだという話が「バキ」にあったのを思い出す。



これは理性に対する肉体(ここでは非理性とでもいうものの全体として)のストライキである。また、理性は自分自身にとどまるとは限らないので、社会や職場、家族に対しても、理論では敵わないがどうしても不満が拭えない場合には、具合が悪くなることで理論を超えることができる。



しかしこれは卑怯ではないか?理論に対しては理論で、理性に対しては理性で争うべきではないのか?などと言ってみても、動かない体が動くわけでも、流れる涙が止まるわけではないのだから、ここで「理」は完全に敗北する。



気をつけなければいけないことは、このストライキが特別なことではないということだ。こんな状態になっている自分は人間として不適合であるという認識を持ってしまうと、せっかく自ら主張している肉体に対して、自分の理性が敵側に寝返ってしまう。



そして理性というのはコストが高い。人員であれば経営陣にして高給取りであるから、そのためにはまず肉体による「下働き」がなければ執務にあたることができない。



それを、まるで労働者を搾取して経営側が発破をかけつづけているようでは、その「会社」は長くはもたない。個人差もあるけれど、肉体はそんなにお利口さんな社畜ではない。



・幻をすすぐ


では、理性と肉体の「労使関係」をどう改善するか、という話になってくるが、これが決定的に分かれば褒章もので、様々な理論や実験によって、また様々なことが世の中で言われている。そういう本も売っているし、そういうことを教えてくれるセミナーもある。



しかしどうやら、何が有効かは人それぞれで、しかも同一人物だからといって同一の方法論が常に適用可能であるとも限らない。莫大なコストをかけてやってみて、ほとんどはダメで、あるいは後から効いてきて、でも大抵その頃には、その手法だけでは解決できない問題にぶち当たっている。



しかも残酷な点はそれが、往々にして取り返しのつかない失敗を伴うということだ。トライ&エラーやスクラップ&ビルドは大いに結構だが、その時に必ず発生する負のエネルギー、傷ついた心や喪失感、徒労感、苛立ちといったものは、そう長いことごまかし続けられるものではない。そういうものが蓄積して、先述のような体調不良が発生することも、ままある。



ではどうするかというと、ここでまたいったん「理性」から離れるという方法がある。具体的には、娯楽や嗜好品の力を借りて「まあ色々あるけど、今は何だかいい気分だなあ」という状態を作り出すことである。



すると苦しみや不安というものの大部分は、理性が自ら(もちろん必要があると判断して)作り出したものであるということを思い出すことができる。



ここで「理性が自ら作り出した苦しみや不安」というのが、何を指しているかというと、先程の「会社」の例えでいくと



・契約成立目標(自分の理想)に届かない

・これでは社(自分)の面目が立たない

・これでは経営(生活)が成り立たない



というものを指していて、これは「人員が足りない(気力体力がない)」とか、「建造物の経年劣化(老化)」というものに比べると、何というか、幻である度合いが強い。



幻という点でいえば、傷ついた心や虚しさ、焦燥感というものも、強固ではあるけれど幻の一種である。それを上澄みだけでも洗い流すことができれば、別の幻が流れ込むことがあるかもしれない。



・自分で見出す


娯楽や嗜好品の力を借りずに、同様の効果をもたらすものを自分で作り出すことができれば、「労使関係」に対する有効な方法論を、必ずしも見出さなくてもいいのかもしれない。やりがいのある職場のように、嬉々として物事に臨むことができれば、それ自体が人生における成功であるような気がする。



ただ、「やりがい」というものはトップダウンで与えられるものではないし、これも方法論と同じように刻一刻と変容してしまう。



あるいは、そういう仕組み全体を楽しむことができればいいのだけれど、そのためには「衣食足りて礼節を知る」ごとく、かなりの心身的な余裕を要する。



しかし、心身的に余裕ができると途端にその分怠けてしまうので、この場合はやはり「幻の苦しみと不安」を作り出して、しかし寝る前までには取り払うようにするのが妥当なところであるような気がする。



できればこういう内容を、子供の頃に教えてもらいたかったけれど、こんなことは自分にしか分からない、自分でしか見つけられないことでもあるかもしれないから、その一歩手前の、「大事なことは自分で見出さなければいけない(ただし、はちゃめちゃに面倒)」ということを、まかり間違って人に伝える立場にでもなったりしたら、伝えてみようとは思っている。

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