駄文2018/01/10

・ブレインストーミング


いつもは、たいてい前日に考えていたことのメモや記録を見返して、そこから話題を作ろうとするのだけれど、昨日が不調だったのでなかなかアイデアの芽が出ない。そういう時はこうして、ただ指を動かすに限る。



同じ指を動かすのでも、打ち込みのバイトではダメで、自分の頭から一方向にキーボードへ意識の内容を流すものでないといけないようだ。目で見たものを頭で受け止めて、それに対してしかるべき処理を行うという打ち込みバイトの「流れ」は、自分がものを考えるという時の「流れ」とは違う。



もっと理想でいえば、今も余裕があればやっているけれど、画面も見ないで思ったことを打ち込んでいければいい。もちろん誤字脱字がないという前提であるが、しかしそれだと、画面を見ている目の働きというのは、もっぱら誤字脱字のチェックのみということになる。



それであれば、例えば目の焦点を常に合わせなくても良くなる。しかしこれがクセになってしまうと、これは老眼につながってしまうような懸念がある。まあ遅かれ早かれ、そういうものが自分にもやってくるのだろう。



あまり気にならない程度の飛蚊症は子供の頃からあるし、乱視と近視があるので、ものを見るのにはあまり向いていないかもしれない。それでも絵を描いたり文章を作ったりしているということは、これがいつまでできるかは分からないということだ。



それを考えてしまうと、何も目に限らず、指も、頭も、いつまで使い物になるか分からない。頭はもう使い物になってない気もするけれど、とにかくそれらしく動くということは、これは有難いことである。



分かりにくいところでは、内臓や筋肉もそうで、特に肝臓は、若い頃からの不養生でずいぶんガタがきているのではないかしら。無理をしてから回復するまでに時間がかかりすぎるし、目の周りも相変わらず黒い。



30歳を超えて、体力も気力も衰えてから、そのエネルギーの分配について考えざるをえなくなった。初めのうちは今まで通り、ひっくり返るまで薬剤で疲れを散らす生活だったのを、ちょっとブレーキをかけて、体調不良の一歩手前にとどめる。



だけど世の中の人というのはこんなに疲れやすいものなのだろうか?どうも周りの人、それももっと年齢の上の人たちを見ると、自分が異常に元気がないように思ってしまう。これはおそらく同じ量のエネルギーでも、使い方がまずかったのだろうとも思う。



・中立進化説


もしかしたら他にそういう人もいるのかもしれないが、30代として生きている自分を想像できなかった。大学ノートに書いた稚拙な「人生設計」には、確か「技術と経験を積む」の一言で済まされていた年齢だ。書いているうちに飽きたのかもしれない。



確かにしなくていい経験はいくつか積んだけれど、つぶしの利く技術はとうとう身につくことがなかった。その代わり、逆に自分に「何ができないか」ということをようやく認めて、そこから生じた諦念を手にいれた。これが案外悪いものではなくて、自分がこれからどうしていくか、ということについての指針になる。「少なくとも、こういう道は断じて行かない」ということが一つでも分かれば、選択肢は限られてくる。



高校の頃の部活の顧問たちが、「演劇に正解はないが、間違いはあるよね」と話し合っていたのを思い出す。するとこれは進化論で言うところの、中立進化説にあたる考え方ではないかと思う。



ダーウィンが説いた進化論(自然淘汰説)では、適者が子孫を残していくということで、これが後の世の民族浄化などに悪用されてしまったわけだが、中立進化説はそれよりもマイルドで、「どう頑張ってもダメ」という種以外であれば、突然変異も含めて子孫を残していくことができたという捉え方になる。



つまり、「適者ではないが、滅びるほどではない」という、しんどい、生きづらい種類のやつもいて、というかそれがほとんどで、それがなんだかんだいって脈絡と続いているということになる。したがって、先ほどの顧問たちの話でいくと「演劇(生態系)に正解(適者)はないが、間違い(不適者)はある(出現する)よね」ということになる。



それを逆手にとって、自分がその場合の「不適者」、つまり選りすぐりの、どんなことがあっても決して生きていけない人間なのだ!と思い込んでいた時期もあったけれど、今はもう、そういう格好つけができるような年齢ではなくなってしまった。それに自分よりも困難さを抱えた人たちのほうが、かえって真剣に自分の人生に取り組んでいるようにも思われてしまう。



・文化もしかりでは


ここで例にあげた中立進化説は、あくまで種の保存、生殖についての考え方であるけれど、自分はこの捉え方を、ジーン(生命遺伝子)だけでなくてミーム(文化遺伝子)、とりわけ創作活動一般についても、適用させていいのではないかと思う。



環境に淘汰されたものだけが正解なのではなくて、滅びるほどではないものを、しなくてもいい苦労をしたりしながら、なんとか受け継がれてきたものが、後の突然変異を起こしたり、流行に乗ったりする。そういう世界であるか、あってほしい。



そのためには、それを許せるだけの寛容な文化環境が必要になるけれど、まあ、生命遺伝子のほうも天変地異をくぐってきたわけで、ここはあまり期待できないのかもしれない。

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