空っぽのプール【2】


「よし、あんたプールの中、入って!私、上から撮るから。」



潜めていた声を急に大きくして明日香が言う。


飛び込み台の先端から離れる。

足の裏の波状の板が気持ちいい。


高さに膝が震えるけど、今から飛び込むのではなく降りるのだという安堵感が、胸を半分だけ満たす。



階段の手すりを両方しっかり握って、一歩、一歩階段をおりた。


飛び込み台の下から、二、三歩進むとプールの中へ続く梯子がある。

その数、四段。


ひらがなの「し」の字を反対にしたような梯子の取っ手。

ステンレス製のようで夕方の光に、てらっとしている。




すべらかな取っ手から手を離して、プールに降り立ったとき。

飛び込み台にいる明日香は、遠かった。



「下から見ると、意外に遠いよー」



私も声を潜めるのはやめにする。



「へえ、上から見るのと下から見るのとは違うんだねー」



既に、明日香の顔はカメラになっている。



私は、気にせずにプールの中を歩く。

いつもの8コースを目指す。


水が無い時くらい、1コースを選べばよかったかなと思いながら、プールを横断。

3コース、4コースを過ぎて、駆け足で5、6、7、8コース。


角っこから角っこへ移動。

カメラのシャッター音が聞こえる。



「8」と書かれた壁を見るとなんだかしっくりしてしまう。


くるりと振り返り、反対の「8」と書かれた壁を見据える。



ピッと空耳の笛の音がして、私は、スローなクロールをする。

腕だけ。

大きく弧を描く腕に制服のわきのあたりの布が邪魔くさい。

足を踏み出すと、スカートのすそが足をくすぐる。



25メートル泳ぎ切ると、明日香が笑う。

私も笑う。



「クロール下手だね。」

「だから8コースにいるの。」

「なるほどね。次、プールのど真ん中に来てよ。」



珍しく、明日香が指示をする。



私は、靴を脱いで靴下を脱ぐ。


短くなった髪。

首元をくすぐる風にはまだ慣れない。



飛び込み台の上を見上げる。

夕焼けが迫っていてよく見えないけど、そこには足を開いて踏ん張るように立つ明日香。

黒い髪がつややかで、少年みたいな手を持つ。




見上げる首筋が、少し痛くなってきたけど、見続ける。

そして、手を差し伸べる。

両手で、明日香の方へ。






ジシャーっと音がして、明日香がカメラを顔から離した。






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