足の指のマニキュア
足の指のマニキュア【1】
今日も昼休みの教室で、弁当の匂いと、マニキュアのシンナーの匂いを嗅ぐ。
千紘の塗る、薄桃色のマニキュアの匂いだ。
光沢のあるベージュの蓋、化粧品メーカーの可愛らしい紋章をかたどった小瓶。
その中にある液体は、色鉛筆の桃色くらいはっきりとした色なのに、塗るともっと薄くて、爪のもともとの色味を再現したよう。
私のうちではオトナになるまで、マニキュアを塗ることを禁じられていた。
爪の健康が損なわれるからだそうだ。
熱が出たり、はたまた死んだりしない爪の健康など私には、もちろんどうでも良かった。
そんなことより、爪を、てらてらに光らせてみたいと強く思った。
小学二年生の私を、マニキュア熱に犯したのは、とろけそうなほど暑い夏休みに、プールサイドで見た、友達の足の指のマニキュアだ。綺麗な水色。
ラメ入りだった。
私はそのマニキュアが、プールによく似合うと思った。
足の指の先っぽにもうひとつのプール。
身体を全て、プールにとぷんとつける前に、側面にある段々の二段目に座って、お腹まで来たプールの水に、冷たさを感じながら、足を水面についっと出してみたい。
水の中ぎりぎりでは、その水色のマニキュアを塗った指先は、ただの指先だろう。
でも、ひとたび足が水面からでると、指先はプールをまとっているのだ。
綺麗なプールの水だけ集めて、私の足の指先へ。
とても素敵なことに思えた。
だから、私のそのころの将来の夢は、ケーキ屋さんでも花屋さんでも看護師さんでも保育士さんでもなく、「マニキュアを塗りたい」だった。
マニキュアを塗れば、私の指先で様々な色が持ち運べる。
あの頃の私の周りには「好き」がたくさんあった。
子どもの頃の夢がたいていそうであるように、将来の夢の「将来」は想像していたよりうんとはやくやってくる。
そして、無感動に通り過ぎていく。
今でも、マニキュアは好きだけど、プール色のマニキュアを夢見た時の感動に比べると、今ではそれはとても薄いのだった。
さっきの国語の授業で〈明日の水曜日〉というテキストを「あすの水曜日」と読んだことを、笑われた。
「あしたの水曜日でしょお!フツー。」
また言った。「フツー」
普通ってなんだろう。
「普通に電車で帰ります。」
「普通に考えておかしいでしょう」
「普通に食べますね。」
簡単に口から滑り落ちていく「フツー」という単語。
私は、この単語を立ち止まって考えたくなる。
みんなの言う「普通」は、とても軽くて、私の脳内では「フツー」と変換された。
「アス だって!アナウンサーみたい。」
この世でこんなにおかしいことはないとでもいうように、
この笑い方を見ていると私って本当は全く好かれていないんじゃないかと不安になる。
陽子は、自分の名前の「子」が嫌いとしょっちゅう言っている。
そのたびに「誰もあんたの名前なんて気にしてないよ。」と言いたくなるけど黙っている。
三回に一回は、「別にー、良い名前だよ。」と言ってあげる。
千紘は、自分の制服のスカート丈と靴下の位置ばかり気にしている子で、いつも靴下用のりの匂いとリップクリームの薬草の匂いがする。
細かいところばかり気にしているようなのに、毎朝、ヘアアイロンで巻いているという自慢の髪の毛は後ろの方が雑に巻かれていておかしい。
実花は、学校にいつもお菓子を持ってきてはみんなに配っている。
カラフルなペンをいくつも持っていて、きれいなメモ帳に整頓された字を書き、きれいに折った手紙をくれる。
その派手な手紙をもらうと、返事を書いた自分の手紙がみすぼらしく情けなく見えてしまうのでいつも嫌になる。
私は、〈明日の水曜日〉というテキストを心にとめる。
あしたの水曜日。
あすの水曜日。
どっちだって良いと思うけれど、私はもう「あすの水曜日」なんて言わないように気を付けるのだろう。
陽子・千紘・実花。
いつも一緒の三人。
私のことを簡単に笑い飛ばす三人。
あいつらに対して悪態ばかり思いつくのに、私はその悪態を胸にとどめておく。
そして、明日の水曜日を「あしたの水曜日」と言う。
今の私のまわりには「好き」が全然ないみたい。
私は、自分に嘘ばかりついている。
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