第三部 無限編む大樹
前編 神話遡行
プロローグ
ぴと、と弾ける水音に男は目覚めた。
頭のなかは暗雲に抱かれたかのようだ。茫洋として覚束ない。
はて、私は何をしていたのだったか……。
「……ッ!」
記憶の蓋に手をかけた途端、頭のなかに雷鳴が響きわたった。稲妻の痛みは頸部にまで駆け抜け、その身体をびくんと大きくはね上げた。
じっくりと記憶を覗き見るまでもなかった。
痛みが覚醒の意味を物語っていた。
「……?」
一面は暗闇。
夜の寝室――でないのは明らかだ。腕の違和感に手を捻れば、鎖がジャラジャラ音をたて、手首に鈍い痛みがはしる。本来、自重を支える足には、踏みしめた地面の感触がない。
腕を吊り上げられ、捕らえられている。
男は恐れるより先に抵抗した。
自信があった。魔法の力があれば、枷を破壊するくらい容易いと楽観していた。
ところが魔法の発動を試みて初めて、絶望的な状況を理解した。
「……ッ! ぁ!」
声が、でないのだ。
今更にして、知覚されたのは鉄の臭気である。
なぜ気付かなかったのか。充満した血の臭いは溺れそうなほどだった。
口中がひどく疼いた。火のついた松明を咥えさせられたような、その上で刃のヒルが蠢いているような痛みだった。
舌を、切りとられている。
男はなお暴れた。膂力だけで鎖を引きちぎろうともがいた。しかし徒に体力を消耗していくばかりだ。魔法の影響を受けているのか、鎖の千切れる気配もない。
何かこの状況を脱する術はないかと、闇に目を凝らすも、目に入るのは、頭上から垂れ下がった動物の肝めいたものだけだ。とても役立ちそうには見えない。
他には。
他には――!
男は血走った目で辺りを見回した。
「お目覚めかネ?」
すると、どこからか声が響いた。愉悦に震える不快な声だった。
目端に何かが煌めいた。
振り向けば、闇の中に妖しい二つの球が浮かんでいた。千の星をかき混ぜた宇宙の鍋の底のような――眼だった。
渦巻く星の双眼が、はっきりと男を見据えていた。
それは男のよく知る眼差しだった。胸に赫々と怒りが燃えあがった。
「ッ! ぅッ!」
裏切者!
男は眼光するどく糾弾した。声なき声で放せと訴えた。
されども奇怪な星々は、気圧された様子ひとつ見せない。むしろ嗜虐を帯びて、いっそう強く煌めいた。
「放して欲しいみたいだなァ。仕方ない」
視界を縦に過ぎるものがあった。例の肝めいた物体から、何かが滴った。遅れて、ぴと、と水音が聞こえた。
と同時に、横に閃くものもあった。
足許に、ぼと、とズタ袋を投げたような音が鳴った。枷に吊られた身体が突として右へ落ちこみ、半身が自由になるのを感じた。
「――ィッ! ガ、ッ、ィッ!」
しかし男が上げたのは歓喜でなく悲鳴だ。ありったけの痛みを吐きだそうと、暗闇の中に不明瞭な叫びが谺する。
全体重を負った左手首の軋みなど問題にもならなかった。他の感覚を麻痺させ、意識さえ苛む痛みの爆炎は右手首にあった。
ビチャチャ、ぴと。
溢れだす水音。滴る水音。
それらすべてが、血のあげる叫喚だと理解する。
闇のなか幽かに浮かび上がるシルエットの正体も。
切りとられて、なお痛みを訴え続ける舌なのだと。
「ンン? お前が望んだことだろォ。外してやる。左手も斬ってやれば、すぐだからなァ。だが、その前に」
「ンッ、ッ! ゥアッ!」
次いで左の足首に激痛が走った。
一瞬にして筋線維が断たれ、骨が砕け、血液がビッと壁を打った。
星々の双眸が男を覗きこむ。その下で裂けた唇が、ニイと半月型に歪んだ。
「もう少し刻んでからにしよう」
男の怒りは、すでに消えていた。恐怖の冷や水を受けて溺れていた。
「ィィッ! ン、ィ、ィッ!」
死にたくない!
男は訴えた。声なき声で、何度もなんども訴えた。
しかし悲痛な叫びも声にならなければ、慈悲深き運命の女神の耳には届くまい。
「ンガガガガガ! 役立ってもらうゼ。オレの玩具として、永遠になァ!」
応えるのはただ邪悪な哄笑。
そして。
ぴと。
忍びよる破滅の
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