二十八章 輿望墜つ

 機械の巨人に備わった二等辺三角形の翼が炎めいた空気を噴いた。飛翔の悦びに唸るように、ドルドルと音をたてながら。


 ミラは巨人の手に鷲掴まれ、眼下に広がる海原を見下ろした。最高の眺望だ。しかしこれから、この海原の上を飛ぶ。いかにも鈍重そうな機械が、鳥のように空を舞おうというのだ。


 信じられるはずがない。できるはずがない。

 けれど、もはや否を訴える機会もない。

 ガルバたちの意志に従い、彼らの技術を信じる他に防区へ至る術もない。


 ミラはカナンの背中を、フギの眼差しを思い出す。

 命を賭して自分を守ってくれた、信ずべき友の想いに燃える。


「……怖がってばかりじゃダメだ」


 ミラは己の足で、この場所へやって来た。数々の偶然に、あるいは運命に翻弄され、助けられながら。


 すべてが自分の力ではなかった。自分以外の力のほうが多かった。

 自分は無力だった。独りでは何もできなかった。

 けれど、ここにいる。


 そして防区へ至る手段を前にしているのだ。

 あとはまた踏みだすだけでいい。


『行くぞ、みんな』


 ガルバが言った。デイバが『いつでも行ける』と答えた。


 ミラは震えながら拳を握った。デイバの譲ってくれた奇妙な眼鏡をかける。ベルトが後頭部に、レンズを覆うカバーが眼窩にきつく食いこんで痛いが、隙間がなく目許はしっかり防護できた。


 きつく目をつむり、覚悟を決めて世界を見つめる。


「行ってっ!」


 叫んだ。


 出発の合図は全員の了承を得た。

黒鉄の化身マナ・マキナ〟は、いっそう激しく空気を噴きあげ走りだす。


 地を踏み、断崖を蹴り、重力に臆することなく、


「きゃあああああああッ!」


 飛んだ!


 全身を世界が吹きつけた。

 空の青が、海の波が、遥か遠くに待ち構える防区の緑が。

 無数の、あるいは一つの感銘となって押しよせてくる!


 そう、感銘だ。

 恐怖はほんの一瞬。

 自由という自由が胸を吹きぬけ、負の感情などたちまち流されていく。


『成功だ!』

『やったな!』


 ドワーフたちは歓喜の声と声で、感情の手のひらを打ち合わせる。

 ミラはその言葉の意味を考えないようにする。


 空を泳ぐ鳥の群れを追いこし、機械の巨人は猛烈な勢いで防区へと迫っていった。

 暫くは安定した飛行がつづいた。

 空の一点を射る鋼の矢のごとく。


 だが空に放たれた矢が放物線をえがいて、いずれ地に落ちるように、機械巨人にも限界はあった。

 ある時を境に、高度が徐々に下がりはじめたのだ。翼から噴出される空気が、勢いを失くしつつある!


 ミラの全身から血の気が引いていった。


 このまま高度が落ちていけば、防区へたどり着く前に海原のど真ん中だ。海面にしたたか打ちつけられるか、あるいはヲームルガドラの腹の中。いずれにしても待っているのは死である。


 しかしガルバが『心配するな』と言うと、機械巨人の背中から筒状の金属が排出された。それは遥か下方の海原へと吸いこまれ、やがて見えなくなる。


 そして機械巨人はキンと鳴き声をあげ、その硬質な肌のしたで無機質な肉を軋ませた。


「わあ!」


 たちまち巨人の双翼から噴霧される空気が勢いを増す。高度は徐々に元へ戻りはじめる!


『圧縮ボンベ問題なく排出完了。装填にも問題なし。連結シークエンス良好だ』

『当然だ。俺たちの英知を収斂した傑作だからな』

『試運転には臆して反対していたくせに、いざ飛んでみればずいぶん威勢が好いな』

『うるさい。まだ軌道のコントロールには難がある。旋回して戻るのは不可能だ。だが直線を移動するだけなら問題ない。そんなことは運転する以前から分かりきっていた』


 ドワーフたりの小競り合いは実に楽しそうだった。あんなにも剣呑としていたデイバまでもが、まるで子どものようだった。


 そして防区は、その地理が輪郭を描いて見えるまでに近づいてくる。


 輪を描いた奇妙な森。その中央を穿った荒野。連なる峰々――。

 さらに東の方角には広大な森が広がり、とおく煙突めいた突起が並んでいるのまで見てとれた。


「これが防区……」


 カナンの旧友ビルが住むという世界。

 ヨトゥミリスという巨人が現れる修羅の世界。


 だが、それだけではない。


「なんなの、あれ……?」


 煙突の連なる街の方角。いや、それとほとんど隣接するところに、尋常でない大きさの塔がそびえたっていた。それは二本あり、頂上に傘のようなものを広げている。晴天の下で、その黒は夜の闇よりもなお深かった。


『ありえん……』


 それを認め、愕然と呟いたのはガルバだった。


『まさか、現存していたというのか……?』

『なんだ、ガルバ。あれを知っているのか?』


 ガルバはあの塔の正体に心当たりがあるようだ。一方でデイバには見当もつかない代物らしい。


 ガルバはさらに塔へと接近し、その足許に投げだされた物体を見て息を呑んだ。

 そして塔へと組みついた赤黒い岩山を見たとき、今度こそ悲鳴をあげた。


『……悪夢だ』

『おい、なんだガルバ!』

『あれは〝機械の化神ゴッデス・マキナ〟だ』


 その意味を尋ねる間もなく、防区の方々で火柱や稲妻がほとばしった。その方向へ目を凝らせば、蟻めいた黒い粒と紺青の米粒の小競り合いが窺えた。


 ガルバたちは広大な森のなかにそびえた、一つの小山の頂上に着陸する。脚部からそれぞれ四本の鉤爪が突出し、それが地を食んで勢いを殺したのだった。


 そして彼らは、改めて防区にそびえる威容を観察した。


「……大きい。あれ、一体どれだけの高さがあるの」

『解らん……』


 ミラは機械巨人の手から降り、改めて遠方にそびえる塔の大きさに慄いた。とても人の手から作りだされた物のようには思われず、しかし自然に生じた物体とも思えなかった。


 だが何よりもミラを慄然とさせたのは、むしろそれに組み付いた岩山のほうだった。それは一見すれば頂上の滑落した小山のようだったが、隻腕の人型のようにも見えるのだ。


『ガルバ、〝機械の化神〟とはなんだ?』


 デイバが改まって尋ねた。

 ガルバは機械巨人の腹から這いだすと、重い嘆息をついて答える。


『……神を模して造られた〝黒鉄の化身〟だ』

『神を模して……? いや、どう見ても塔にしか見えんが』


 ミラも同じ疑問を抱いた。あれはどう見ても塔だ。傘のようなものを備えているが、二本の丈高い塔にしか見えない。


 しかしガルバは、はっきりとかぶりを振った。


『あれが史書に記されたものに違いないのなら、本来は人型をしているはずだ。……しかし壊れている』


 塔の足許に転がった漆黒の塊を指さし続ける。


『おそらく、あれが胴体だろう』


 ミラは絶句して塔とその残骸を見た。

 言われてみれば、横になった胴体に見えなくもない。だとすれば、あれの完全な姿は、塔の倍近くはあるという事になる。


 そう呟いたときだった。

 遠い大地で火柱が上がり、それとほぼ同時、赤黒い岩山の隻腕めいた部位が微かに動きだしたのは。


『……まずいぞ』


 震える声でガルバが言った。

 その間にも岩山は動いているように見えた。本当に微かに。風の弱い日の雲のように。緩慢に。


『あれは生きている……』


 ガルバはそう言うと、自らの肩をかき抱いてくずおれた。

 ミラも足許から力が抜けてゆくのを感じていた。いつの間にか全身の肌が粟立っていた。


『そして〝機械の化神〟が滅びたのなら……』


 ガルバは追い打ちをかけるようにこう結んだ。


『あれを止める術など、どこにもないだろう……』


                ◆◆◆◆◆


 ミラたちが防区へと到着する、およそ一ヶ月前。


 激戦があった。

 オルディバルと〝逆鱗〟の死闘であった。


〝逆鱗〟は一度、大瀑布へと突き落とされたが、その尋常ならざる力は断崖を掴み、ふたたび地上へと舞い戻ったのだ。


 瀑布周辺は、ふたたび破壊の渦に呑まれた。さらに巨神の再臨を祝福するかのごとく、次々と小型ヨトゥミリスたちが湧きだした。さながら濁流のなかを馳せる紺青の波のごとく。


 それを迎え撃つのは、生身の魔法使いたちだった。


 カルティナ・ヨフォンの指揮する寄せ集めの小隊は、飛来する鱗の衝撃、巨神同士の戦いの余波によって傷ついていた。


 大瀑布の北部に茂った楡の森は、ほとんど原型を留めないほどだ。

 木っ端が肌を食み、打ちつけた肉体は軋んでいた。中にはついに動きださない者もいた。


 それでもカルティナは杖を握った。

 しゅうねく小型を追い回した。執念に続く者もあった。

 彼らは魔法を駆使して風を切った。あるいは彼ら自身が風であった。

 殺戮の風は、たちまち命をそぎ落とした。

 ヨトゥミリスは自らの血と臓物に溺れていった――。


 駆ける異形がなくなれば、彼らは人類の希望に想いを託した。


 その名をオルディバル。

 スルヴァルト級ヨトゥミリスに対処可能な唯一無二の剣である。


 彼らは祈った。

 カルティナもまた、いつかの戦いを思い起こしながら、勝利を願った。


 一方、西方面、マクベル近辺の街道では、アオスゴル元守護隊長のドゥエタスが、中型の首をはね飛ばしたところだった。彼の指揮下に置かれた仲間たちは勝鬨をあげ、殊勝に杖を掲げた。


 彼らはオルディバルの勝利を信じて疑わなかった。あの日の雄姿が、はっきりと眼裏まなうらに焼きついていたからだ。

 オルディバルは唯一無二の剣であると同時に、絶対の盾であった。


 やや南方、ミズィガオロスの拳へと至る街道では、アルバーン・ストラスによる一方的な殺戮があった。彼はたった一人で二体の中型ヨトゥミリスを相手どり、狙い過たずその眼窩に雷の矢をねじこんだのだった。


 巨体がゆっくりと傾ぎ、アルバーンの両脇を隔てるように倒れた。

 そして彼もまたオルディバルの勝利を願った。

 ただ一人、霞に胸をまさぐられるような不安を覚えながら。


                 ◆◆◆◆◆


「うぅ、あ……」


 オルディバルの中で呻くヴァニには、しかし外の声も想いも届きはしなかった。彼はただ一人で〝逆鱗〟との闘いに臨み、心を蝕まんばかりの期待だけを感じとって壊れかけていた。


 その肉体さえも滅びを前にしたかのようだ。

 彼の斑の髪は、今や全部が金色こんじきに染まり、双眸は乾いて灰を帯びていた。肌は生気を抜いたように白く、スフィアを掴んだ指先には刃のような爪が伸びている。


「来るな……」


 ふたたび地上へと這いあがった〝逆鱗〟を前に、ヴァニは震えた。オルディバルはひどく傷つき、彼自身の肉体も異状を訴えていたからだ。


 脳裏に、敗北の二文字と死の恐怖が燃えあがった。


 そこへ薪をくべようとでもするように、〝逆鱗〟が駆けだしてくる!


「来るんじゃねえええッ!」


 ヴァニは血涙に顔を赤く濡らしながら、オルディバルの歪んだ拳を突きだした。

〝逆鱗〟がそれを掴んで止めた。

 ヴァニは破れかぶれに、もう一方の拳も突きだした。


「オガアアアッ!」


 それが敵の胸を捉えた。表面からメキメキと天をも割らんばかりの音がひびき、岩の破片が飛び散った。


 しかし〝逆鱗〟の勢いは衰えなかった。小さな足で地を蹴り、発達した腕でオルディバルを押し返しはじめる。


 猛烈な勢いで黒鎧が後退する!

 たちまち大瀑布が縮んで見えた。

 街道に破滅の煙がふき、地上にあるものすべてを押し潰していく!


「やめろおおおぉ!」


 ヴァニは叫びとともに渾身の力をこめる。同調したオルディバルにその意思が伝達され、〝逆鱗〟を押し返さんとする!

 しかし〝逆鱗〟の単純な膂力は、たとえ片腕であったとしてもオルディバルを上回っていた。黒鎧の足許からはなおも土埃が噴きあげ、守るべき地上を土漠へと変えてゆく!


「クッソぉ……!」


 ヴァニは全身に痛みを感じた。それが力の妨げとなっていた。彼自身が感じる痛みではない。オルディバルの損傷からフィードバックされた痛みだ。

 特に拳や関節、腰回りの痛みは激しかった。今にも肉の引きちぎれそうな痛みが思考まで焼き尽くそうとする。


 このままではオルディバルも地上もつまい。

 覚悟を決めねば、待っているのはミズィガオロスの滅びだ。


 ヴァニは〝九つ頭スルヴァルト〟との死闘を思い返した。あの日の勇気を手繰り寄せた。


 あの時、ヴァニは死んだはずだった。それを迷いなく断行できるだけの覚悟があった。


 今の自分はどうだ。

 死に怯え、重圧に震え、地上をおびやかす自分はどうだ。

 惨めではないか。愚かではないか。無力ではないか。

 あの日の己を呼び起こせ。


 出逢ってきた人々の相貌が燃焼する。


 ヴァニは胸のうちで叫んだ。

 何度もなんども叫んだ。

 そして叫びは、言葉に紡ぎだして初めて力となる!


「スプリーンガァァァッ!」


 致命の咆哮に、オルディバルが応える!

 その双腕、肘に設けられたスリットから爆炎が噴きだした!


「オガアアァッ!」


 腕を弾かれ、〝逆鱗〟の上体がのけ反る!

 オルディバルは拳を、


「うらぁッ!」


 打ちこむ!


「ガアァッ!」


 打ちこむ!

 さらに打ち込む!


「オオオオガアアアッ!」


 衝撃に〝逆鱗〟の肩が爆ぜた!

 しかしその腕はもはや防御には用いられず、鋼の腕を伝い、斜め上方に突きだされた。鋼と巌に火花が散る!


「るああああああああああァッ!」


 その時、世界に破滅の鐘が鳴らされた。


 衝撃波が渦を巻き、環状に雲が散った。

 一瞬、時が息を呑んだかのようだった。


「「「おおおおおおおおおおおおおおおォ!」」」


 しかしそれが時の女神の腹に落ちれば、あとには一斉に突きあげられる勝鬨があった。


 超重量の拳は〝逆鱗〟のひび割れた胸を穿っていたのだ。

 赤黒い岩山から、急速に命の融ける気配が満ちていく。


 あとは英雄の帰還を待つばかり。


 誰もがそう信じる中で、肘の爆炎が黒煙へと変わり、ドロドロと空気がひずみはじめた。

 その命なき鋼から、魂がぬけ落ちていくかのように。


「――ッ!」


 その時、ヴァニが形容不可能な絶叫をあげた。

 神経を焼き切るような痛みが、火花にも似て間断なく青年を苛んでいた。


 何故ならオルディバルの腹部は、巌の拳に大きくえぐれ、腰部は内側から破裂していたからだ。


 爆ぜる痛みの中で、ヴァニは泣いた。

 生きたい、死にたくないと泣いた。

 オルディバルもまた泣いた。ドロドロと泣き続けた。


 さながら断末魔のごとく。


 否。

 それは真実、断末魔であった。


 オルディバルの半身はゆっくりと傾ぎ。

 ヴァニの意識は冥府に溺れ。


 黒鎧の半身だったものは、深く地にしずんだ。

 生命いのち芽吹く大地を荒廃に洗った。


 かくして輿望よぼうは地に墜ちた。


 一つの戦いの終焉とともに。

 希望もまた失われたのだ。

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