第二部 果てなき旅

プロローグ

 そのときミラの手に握られたナイフは、彼女の身体の一部だった。


 殺人の恐怖に手足を縛られてしまうより前に、突っこんでいた。全体重をのせ〝主人〟へナイフを叩きつけていた。刃の先端が皮膚をやぶる瞬間がはっきりと判った。硬いゴムを刺すような感触があった。


 たちまち刃は肉を食む。〝主人〟が角ばった鷲鼻にしわを寄せ、鬼めいた形相を浮かべた。口端に血の泡が湧いた。それが弾けてミラの肩に落ちた。真っ赤に焼けた鉄のように熱かった。


 しかし、それも次第に冷えて乾いてゆく。生命が急速に熱を失ってゆくのが判る。迫りくる死への恐怖、激痛による苦しみまで、僅かな肉の動きから、つぶさに感じられてくる。


「んっ……!」


 刃がさらに深く抉りこまれ、はらわたを捉えた時、ミラは指先で肉の中をまさぐるような悍ましさを感じ取った。

 全身の毛が逆立ち、半身は震え、手許から力がぬけてゆく。粘ついた血がはりつく。


 あっ、あたし人殺しになるんだ。


 不意に現実感がおし寄せてきた。肌の下で血潮が逆流するような怖気を感じた。


 これ以上は――!


 そう覚悟の揺らいだ時だった。


「もっと、もっと深く抉りこめェ!」


 薄闇の中を這う〝主人〟の呻きを、不意に獰猛な叫びが押しつぶした。


 最年長のガゼルの一声だった。

 それが一人でないことを思い出させた。


 窓のないあばら家。

 薄闇の中に浮かび上がる影は八つだ。


 今〝主人〟は七人の子どもたちに囲まれ、それぞれのナイフに刺し貫かれているのだった。ガゼル以外の子どもたちは皆、泣き顔めいた表情を浮かべながら必死にナイフを握りこんでいる。中には嗚咽を漏らしている子どももいた。


 悲痛な気配を感じながら、ミラはきつく瞼を閉じる。


 覚悟を決めねばならなかった。準年長者である自分が怖気づいていたら、義弟おとうとたちの覚悟が折れてしまうから。


 ミラはまなじり決して、腐った床をかたく踏みしめた。


「あああああああああああああぁぁぁッ!」


 叫びで恐怖をおし殺し、柄を回しながらナイフを抉りこむ。


 筋繊維がぶちぶちと断ち切られ、手中に血液が溜まった。ばちんと音をたてて臓器が弾けると、出血はさらにひどくなり、むせ返るような饐えたにおいを、狭いあばら家に充満させた。


「ン、ばぁっ……!」


〝主人〟が激しく痙攣し、こぼれそうなほど目を剥いた。


 仲間たちは、ミラの覚悟に奮い立ったのか、あるいは早くすべてを終わらせてしまいたかったのか。


 各々咆哮を上げ、刃を奥へおくへと抉りこんだ。


 ただ一人、ガゼルだけが、ナイフを抜いては刺し、抜いては刺しの滅多刺しで〝主人〟のなけなしの命を削り取っていった。


 やがて痙攣がおさまると、悲鳴も呻きも闇にしずんでいった。子どもたちの興奮した息遣いだけが、あばら家の中を廻っていた。


〝主人〟の剥きだした目は灰に濁り、怒りで赤茶けて見えた肌は陶器じみた白と化している。


 それが糸の切れた人形のように倒れこむ時、抱えたのはガゼルだった。

 彼はそれをとんとんと抱擁した次の瞬間、無感情に床へほうり出した。びちゃ、と嫌な音をたてて死体から血がとび散った。ガゼルの半身は、真っ赤に濡れていた。


 ガゼルは〝主人〟の死体を、道端に転がった石ころでも見るように一瞥してから、背後のテーブルの端に軽く尻をのせた。


 薄汚れた床板になお鮮血が拡がってゆく。


「ふぅ」


 小さく吐き捨てると、ガゼルが仲間たちへ向き直った。


 ミラはその表情を見て、戦慄こみ上げる身体に深く爪をたてた。

 ガゼルの口許には、人を殺した直後とは思えない爽やかな微笑があった。血に濡れ、立てられた親指には、彼の純粋無垢な快哉が漲っているように見えた。


 仲間たちも異常に感じたようだった。真意を測りかねたように、互いの顔を見合わせる。


 状況を理解したのは、それから数秒経ってからだった。

 彼らは、震えながら乾いた笑い声を上げるしかないのだった。


 しかし最年少のアヌベロだけは、血塗れのモノと化した〝主人〟や自身の手にこびりついた赤色に耐えかねたらしい。小さな体躯をわなわなと震わせ、滂沱のごとく涙を流した。


 やがて立っていることもできなくなり、蹲って胃の中のものをぶちまけた。


 ガゼルの動きがあと数瞬遅かったなら、ミラもそうしていたはずだった。


 ところがガゼルは――


「あぁ、ぐッ……!」


 獣のようなしなやかな動きでテーブルを降りると、躊躇なく七歳の子どもを蹴り飛ばしたのだった。


 ミラの隣にまでアヌベロが転がり、目をむき腹を押さえた。その口からさらに吐瀉物が吐きだされ、顔の半分を黄色く汚した。


 くずおれかけたミラの膝が反射的に硬直し、直立を保った。


 恐るおそる視線を上げると、やはりガゼルは笑っていた。うっとりするほど柔らかな笑みだった。


 眼差しだけが残忍だった。卓上に置かれたランプの明かりが、それを鈍く光らせていた。


「みんな、ビビるなよ。たった今、この家を支配してきたクズは死んだ。俺たちは強くなったんだ。解るよな?」


 絹を撫でるような優しげな声で言った後、ガゼルは〝主人〟の潰れたブーツを脱がし、履いた。そして〝主人〟の顔面を爪先で蹴りあげ、角ばった鼻面をへし折った。


 誰もが身をすくめ、首肯を示すしかなかった。ミラももちろん頷いていた。


 けれど彼女の胃は、反発を示すように暴れ回っていた。今すぐガゼルの顔面に吐瀉物を浴びせかけてやりたいほどに。


「疲れたな、みんな。俺は少し外の空気でも吸ってくるよ」


 ガゼルは労うような言葉をなげ小さく肩をすくめると、血塗れのまま、あばら家をでて行った。


 ドアが閉じた瞬間、ミラは中のものを吐き出していた。

 なけなしの朝食が床にぶちまけられ、〝主人〟の鮮血と混じり合った。それがさらなる吐き気を呼び起こし、床を汚した。


 仲間たちのえずきが続いた。


 地獄の始まりだった。

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