明日の月が昇る前に

泡科

第1話

ビルの外を、冬を感じさせる風が通り過ぎていく。当然風に湿度はあまり含まれておらず、夜なので気温はすでに10度を切っている。それと引き換えに、少女の頭上には澄んだ空気によってよく見えるようになった星がいくつも瞬いていた。

真っ黒な髪に碧い目、すらりと伸びた手足はモデルのそれを思わせた。一つに結った長い髪をたなびかせながら、少女はある路地の扉の前で立ち止まった。

「泡沫の夢、記憶の底。夢へすべてをつなぐ道よ」

 少女が取り出したその鍵は、ドアノブについている差し込み口の形状とは全く違う形をしている。しかし、少女がその呪文を唱えると、鍵はきっちりと差し込み口に収まった。軽くひねるとともに、かちりと開錠の音が聞こえた。そこには、都会のビルには到底収まりそうにない大きさの温室が広がっていた。

 温室の中には、ポタジェを思わせるようにきれいに道が整備してあり、わきにはローズマリーやミント、マジョラムなどが植えられている。その道の先、温室の向こう側に彼女の目的地はあった。

「あら、お久しぶりね、“眠りの魔法使い”」

立ち止まっていた黒いローブを着た女性が振り返る。

「ええ、久しぶり。この間の薬はどうにかなった?緑青の」

「おかげさまで」

少女の問いかけに、ローブを羽織ったその人は笑いかけた。

「集会にそんな恰好でやってくるのはあなたぐらいなものよ」

確かに、遠くに見える人々はみな、黒いローブを羽織っている。対して少女はジーンズに真っ白なブラウス、パーカーというあまりにもカジュアルな出で立ちである。

「仕方ないじゃない、日本であの格好は目立ちすぎるのよ」

そういいながら少女は背中にかけたカバンの中からずるりとローブを取り出して羽織った。

「お先に、“緑青の魔法使い”」

少女はそう言って、女性の先を歩いた。しばらく歩いていくと、少女はまた、扉の前で立ち止まった。今度は何の呪文も唱えず、鍵を差し込み開ける。そのままドアを開けた瞬間、ラベンダーの淡い香りがすっと鼻に入ってきた。大きなテーブルを囲んで、一番奥に座っている初老の男性が、顔を上げた。

「おや、めずらしい。今月二回目の集会参加じゃないか、眠りの、いや、ユヅキ」

ユヅキと呼ばれた少女は、軽く笑って男性の横の席に着いた。目の前においてあるポットから、紅茶のにおいが流れてくる。

「ちょっと調べたいことがあってね、それも今回の話し合いに加えてほしいの」

「ほう?言ってみなさい」

ユヅキはローブのフードを脱いで、男性のほうを向いた。

「杖の装いに使えるいい石を探しているの。この間杖を一本お陀仏にしてしまったから、新しいものを作らなければならないのだけれど、なかなか私と相性のいいものが見つからなくって」

表向きには杖の装いとしてついている石には、その杖を使っている魔法使い本人の魔力が蓄積される。そのため、器として魔力自体と相性の良い石を使わなければならないのだ。

「それなら、私が良いものを持っている」

「本当に?」

「ああ、その代わりに条件がある」

男性は小さなきんちゃく袋をテーブルの上に出し、にっこりとほほ笑んだ。

「今日、話し合いで決めようと思っていたことだが、君がいるなら話は別だ、ユヅキ。一人、君に預けたい子がいる」

 預けたい子がいる、つまりはその子を弟子として面倒を見てほしいということだ。

「暁の、それはできないよ」

男性、―暁の魔法使いはその返答に眉をひそめた。

「できる、できないじゃない、やるんだよ。我が師は私を育て上げ、私は君を育て上げた。そして今度は君が育てる番だ。わかるね、“眠りの魔法使い”」

優しい声だが、いつもよりも圧力をかけてくるようにゆっくりと“暁の魔法使い”は話す。すでに選択権はないのだ。

「それでもこれでは、さすがに割に合わない」

少し震えた声でユヅキが言う。かつて“暁の魔法使い”は彼女の師であったが、修行を一通り終えたユヅキと彼は対等とはいえずとも、せめてもの交渉権はあるはず。

「まあ、単純に考えればそうだね。此度は特別に、別の家と、新しいお前用の温室を用意しよう」

 よかった、杖の装いの石一つで人の人生を左右するようなことを鵜吞みにしなければならないところだった、と思ったのもつかの間だった。

―別の家?

「暁の、別の家ってどういうこと?」

「それは彼を見ればわかる」

入ってきなさい、と暁の魔法使いは自分に近い扉に向かって言った。

 扉の蝶番が、さび付いて重たそうな音を出しながら、ゆっくりと動く。扉の向こうから、なんだか懐かしいようなにおいがした。その少年は、緑色の瞳をしていた。加えて右手の甲にある紋章。あれは―。

「これこそ割に合わない仕事じゃない、暁の。この子、妖精と人間の混血じゃないの」

少年が肩身狭そうに小さくなる。ユヅキをたしなめるように、暁の魔法使いはため息交じりに言った。

「人に教えるということも時には勉強となるのだよ」

「そんなことは私にだってわかってる。だけど、最初からこんな―」

「やめなさい、本人の前で」

諭すような暁の魔法使いの声に、ハッとしてユヅキの話す声が止まる。少年が気まずそうに委縮しきっていることに今更気づいた。

「ごめんなさい」

ユヅキが素直に少年に謝る。

「いや、もともとは僕が悪いんです。すみません」

丁寧に謝る少年を見て、ユヅキの中の心に、罪悪感が重く沈んでいった。この子の出自に問題があったとしても、この子本人に悪いところなんか一つもないのに。こんな台詞を言わなければいけないほど、少年は追い詰められていたのだ。

「暁の、この話は受ける。ただし、温室に入れる苗まできっちりそろえておいて」

暁の魔法使いが、少しだけうれしそうに微笑んだ。

「よいだろう。とりあえず君の自宅にはすでに結界を張っておいた。3日くらいは持つだろうから、彼はその間はユヅキの家にいればいい」

「ありがとう、暁の。今日はここで失礼するわ」

ユヅキがそのまま振り向いて少年を見据えた。

「ついてきて」

緊張した面持ちで少年がユヅキの後ろを三歩分ほどの距離を空けてついていく。二人が部屋から出ていくのを見守った後、暁の魔法使いは少しため息をついた。

「いるんだろう?緑青の。盗み聞きとは人が悪いぞ」

シナモンの香りとともに、霧が集まって人の形になる。そのまま実体化した緑青の魔法使いが口を開いた。

「だって入りづらい話ばかりしているんだもの。彼、現妖精王の息子でしょう。しかも星詠みとの混血。眠りのに任せて本当によかったの?」

暁の魔法使いは手元にあったティーカップに出すぎてしまった紅茶を注いだ。

「よかったんだよ。彼女たちであれば、これから来る“世界の終末”にもきっと耐えることができるだろう」

「ふうん?ま、さすがはというか、暁の秘蔵っ子。信頼が厚いわね」

「まあな」

出過ぎた紅茶は少し苦かったようで、暁の魔法使いは口に含んでから口端をゆがめた。

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明日の月が昇る前に 泡科 @Awashina0105

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