雨の日に

三角海域

1

 安っぽいベンチに寝心地を求めはしないが、ここまで腰が痛くなるものだろうか。

 男は、痛む腰をさすりながら、タバコをくわえた。

 外回りが終わって、いざ戻ろうとしたら、急に雨が降りだした。天気予報でも急な雨に注意とは言っていたので、レインコートを着てはいたものの、雨足があまりに強かった。

 疲れている体に、雨というのは堪える。どこか雨宿り、ついでに昼寝でもできる場所はないかと、男は周囲を見渡した。すると、向かい側のボウリング場が視界に入った。

 男は疲れた体に鞭打って走り出し、ボウリング場へ向かった。

 ボウリング場の中はほどよく空調が効いていて、心地良い。男は入り口近くに置いてあったベンチに寝転がり、そのまま眠りについた。そして、今に至る。

 やはり寝る場所は選んだほうがよかったかもしれないと、男は今更ながら後悔していた。

 タバコに火を点け、ベンチから立ち上がり、窓の方へと歩み寄る。窓から垂れる水が、まだ雨が降り続いていることを示しているが、一応外を覗いてみる。雨宿りする前と、降っている量はさほど変わらなかった。

まだ少し湿っているレインコートを脱ぎ、ベンチにかける。改めてベンチに背をあずけるようにして座り、のんびりとタバコを味わう。時間の流れが、妙にゆっくりに感じられる。男は、ぼんやりとする意識の波に身をあずけた。

それから、どれほどの時間が経ったのだろうか。

すぐ近くに、気配を感じた。

男は、気配のする方を見る。目の端に映ったのは、スカートから伸びる白い脚だった。

男は、何本目か分からぬタバコを口から離し、身を起こした。

「なにか用か?」

 白い脚の女は、若い娘だった。制服を着た、長い黒髪の少女である。髪は微妙に湿っていて、それが妙に艶かしかった。

「……」

 少女は、じっと男の方を見つめているばかりで、何も言わなかった。男も、少女の目を見つめるだけで、何も言わなかった。ボウリング場に響くピンを倒す音と、申し訳程度に置かれているゲーム筐体の電子音だけが、二人の沈黙を際立たせている。

 タバコの灰が、ぽとりと男の足元に落ちた。男は短くなったタバコをベンチの傍らに置いてある灰皿に捨てた。

「女子高生にじっと見つめられるってのは悪い気はしないがね、変な誤解をされるのも嫌だし、用があるなら早めに言ってくれないかな? このベンチに座りたいとか?」

 少女は首を横に振った。

「じゃあ、君はどうしてさっきから俺をじっと見つめているのかな」

 少女の唇が、ゆっくりと開いた。潤いのある唇は、濡れた髪と相まって、色気を感じさせた。

「私を買って」

 少女は、感情のこもっていない声で、言った。男は、ため息をひとつ吐くと、懐からタバコを取り出した。

「タバコ吸うのはやめて」

「どうして?」

「キスするとき、タバコ臭くなる」

「じゃあ、心配無用だ。俺は、君を買うつもりはない」

 少女は、男のとなりに腰掛け、男の顔を覗き込んだ。

「どうして?」

「どうしてもだ」

 そっけなく男が答えると、少女は怪訝そうな顔をした。

「おかしいな」

「なにが」

「男は、女に下からのぞきこまれると、一発で落ちるって本に書いてあった」

「まあ、間違っちゃいないかもな。君が順番を間違えなけりゃ、俺もころりといってたかもしれない」

「順番? 覗き込んでから、買ってっていえばよかったの?」

「いや、結局、買ってといわれた瞬間に冷めるから、意味はない」

 少女は、くすりと笑った。

「変なの」

 そうして、再び沈黙がやってきた。

男はタバコを吹かし、少女はゲームの筐体をぼんやりみつめていた。

長らく続いた沈黙を破ったのは、少女の方だった。

「ねえ」

「うん?」

「ゲームしない?」

「おじさんはゲームできないものなんだよ」

「どうして?」

「テクノロジーが進みすぎたってのを、テクノロジーなんてものを知りもせずに嘆くのがおじさんの役割だからね」

「そんなの、いじわるなおじさんだけだよ」

「俺はそのいじわるなおじさんだってことだよ」

 昼間のボウリング場は、ピンを倒す音こそするものの、賑やかな声は聞こえない。夜のボウリングは娯楽だが、昼のボウリングは趣味。娯楽と趣味。意味合いは大きく異なるのだと聞いたことがあった。

 男は、腕時計を見た。ほとんど時間は経過していなかった。長く続いたと思っていた沈黙も、それほど長いものではなかったらしい。

「それで、どうするの?」

「なにが?」

「私を買ってくれるの?」

 話が最初に戻ったらしい。男は、頬を掻いて、笑った。

「なんで笑うの?」

「面白いからだよ」

「面白い?」

「ああ、君が面白いから」

 少女は、じっと男を見つめた。

「小遣い稼ぎの売春するなら、ここらは不向きだよ。この周辺で売りをやってる女は、大体は裏にヤクザが絡んでたりする。だから、勝手にシマを荒らすと、トラブルが生まれるわけさ。それに、大通りに出ても、飲み屋ばかりだからな。駅が近いってわけでもない。宴会帰りのリーマン捕まえる売りってのもおかしな話だろ。そんなの、小遣い稼ぎじゃなく、夜の組体操が目当ての淫乱がするこった」

 ボウリング場に客が入ってきた。恰幅のいい老人だ。ボウリングを趣味にしているのだろう。嬉々とした顔をしている。

老人が通り過ぎるのを見届けると、少女が言った。

「知らなかった」

「だろうな。学生が売りやるには、ここいらは危険すぎるよ。そもそも、どうして売りをやろうなんて思ったんだ。そういうタイプじゃないだろ、君」

「タイプなんてあるの?」

「まあね。清楚な淫乱もいれば、不良っぽい純情もいるもんさ。そういうことを遊びにしてる人間には、においがある。君からはそれがしない」

 少女が、スカートを指でなぞっている。動揺しているわけではないだろう。なにか考えている様子だ。

「そっか、簡単じゃないんだね」

「簡単すぎてもこまるけどな、自分の身体を売り物にするんだから」

 男は、タバコを取り出し、火を点けた。今日一日で何本吸ったのだろうか。そんなことを考えつつも、やめる気が起こらないのだから、どうしようもない。

「ヤケになって、こんなことしようと思ったのか?」

「そんな感じ」

「学校は?」

「それ、今更訊くこと?」

 少女は「可笑しなおじさん」と言って笑う。この歳の少女にしては、妙に大人びた笑顔だと男は思った。

「サボった」

「何日目だ?」

「え?」

「サボりに慣れてる。でも、癖がついているようにも見えない。サボリ癖のあるやつってのは、サボってるときにどうするかを考えてるもんだよ。君はボウリング目当てでもゲーム目当てでもないだろ?でも、ここにいる。だから、癖はついてない。でも、サボってることを気にしてる素振りもない。少なくとも、最初のサボりじゃない」

「……三日目」

 少女は答えた。声に悲しみを纏わせている。

「何があったのか、ってのを訊いてもいいか?」

「どうってことないと思うよ。おじさんは大人だし」

「大人じゃなくておじさんな」

「なにか違うの?」

「大人は、世の中でもがいてる。おじさんは、世の中でもがくのを諦めてる。つまり、おじさんは悟りをひらいてるわけだな」

 少女は、俯いた。口元に浮かぶ艶やかさは、彼女の憂いが生み出したものなのかもしれない。男は、少女から視線を外し、タバコを吸う。無理に聞き出すきはなかった。これで少女が自分のもとを去ったとしても、それはそれだ。

「サッカー部にさ」

 少女が、ゆっくりと語りだした。

「すごく女子受けのいい先輩がいるんだ。でも、私はそういうのに興味がなくてさ。好みとはかけ離れてるし。でも、変な話だよね。ものすごい数の女子に好かれてるのにさ、先輩はなんでか知らないけど私を好きになったみたいで」

 男は何も言わない。ただ、少女の話を聞いているだけだった。

「告白されたときは驚いたけど、私にはそんな気はないし、断ったんだ。そしたら……」

「周りの反応が変わったか」

「うん」

「あることないこと色々噂されてさ、先輩も、それをかばってくれるなんてことはなくて。振った相手に、そんな気遣いを期待した私が悪かったんだけどね。それから、なんだか学校行くのが嫌になって」

「親がいるだろ」

「私ね、期待されてるんだよ。親に」

「なるほど」

 親がする期待。それはどの親にも共通かもしれないが、子供が期待されているということを意識している場合、その期待は重しにしかなっていない場合が多い。そして、重しを背負わせることが愛情だと勘違いしているのだ。子供がサボったとしたら、サボった理由を問うのではなく、なぜサボったのかということしか気にしない。

「なんだか、考えてたらよくわからなくなって。それなら、噂を本当にしちゃえば、色々考えなくて済むかななんて」

 若者にとって、学校は社会そのものだ。大人が抱えている苦しみや悲しみを、若者は学校で味わう。今大人と呼ばれている者にもそういう時代はあったはずだが、時間というのは色々なものを流してしまうものだ。

「ヤケになることなんてないよ」

 タバコを灰皿に捨て、男は言った。

「君は間違ってないんだから、わざわざ自分で間違いを犯すことなんてない」

「でもさ……」

「分からないんだったら、訊いてみればいいだろ。私は売りなんてしたことないんだけど、どうしてそんな噂を流すのってな。そうすりゃ、自然と噂も消えるだろうさ」

「私は、そんなに強くないから」

「なら、今から強くなればいいだろ。おじさんを見てみろよ。ちゃんと胸張って生きなかったから、こんなにくたびれちまった。いいか、強くないんなら強くなればいい。簡単なことさ。泣きたい時に泣く、怒りは声に出す。心の強さってのは、感情をちゃんと前に出すってことなんだよ」

 少女が顔をあげる。目が潤んでいた。

「いいか、君は間違ってない。だから、大丈夫だ。それに、女は憂いと悲しみを乗り越えると、もっといい女になるもんさ。そういう噂を流した連中も後悔するだろう」

 少女の目から、涙があふれた。頬をゆっくりと涙が流れていく。しゃくりあげて泣くわけでもない、少しの嗚咽ももらさない。それでも、心に溜め込んでいたものが、涙として溢れているのが男には分かった。




 それから、また沈黙がやってきた。

男は腕時計を見る。今度は、それなりの時間が経っていた。

「おじさんは、ここにいることが多いの?」

 少女がぽつりと言った。

「いや、今日はたまたまだよ」

「そっか、残念。でも、ある意味運命かも」

 少女は立ち上がり、男を見下ろす。憂いを含んだ艶やかさは消え、歳相応の無邪気な笑みを浮かべている。こちらの方が魅力的だと男は思った。

「私の好み、教えてあげよっか。あのね、私、ピーター・フォークみたいな人が好きなんだ」

「ピーター・フォークって、刑事コロンボ……」

 の、という言葉が出てこなかった。少女の唇が、男の口を塞いでしまったからだ。

「やっぱり、タバコ臭い」

 唇を離した少女は、恥ずかしそうに笑った。

「じゃあね」

 そう言って駆け出した少女の背中を、ぼけっと男は見つめていた。

「ちょっと旦那!」

 少女が去ったのと同時に、背後から慌ただしい声が聞こえてきた。

「ああ、いたのか。てか見てたのか」

 ボウリングは娯楽と趣味で接し方が違うと男に教えた人物がそこにいた。

「そんなこたあどうでもいいんですよ。あの子女子高生でしょ。いいんですか、刑事が女子高生とキスなんかして」

「あっちがいきなりしてきたんだから、どうしようもないだろ」

「学校サボってたみたいだし、補導しなきゃいけないんじゃないですか?」

「俺は刑事課だから。そういうのは少年課の仕事」

「にしても、たまげたなあ。結構かわいい子でしたよ。羨ましいなあ」

「それが本音かよ。というか、俺ってピーター・フォークに似てるか? あそこまでくたびれてるかな。歳だってそんなにいってないし」

「うーん……ボロいレインコート着てたみたいですし、共通点ないわけじゃないですけどね。まあ、女子高生からしてみれば、俺たちはみんなおじさんなんじゃないですかね。でも、ある意味勘がいいんじゃないですか? 旦那は刑事なわけですし」

 男はベンチにかけてあったレインコートを撫でる。もう湿り気はほとんどなかった。




 騒ぎ立てる男を適当にあしらい、男は外に出た。すでに雨はあがっていた。

「タバコ、少し量を減らすかな」

 男はぼそっとそう言って、雨上がりの湿った道を、署へ向かって歩き出した。

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雨の日に 三角海域 @sankakukaiiki

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