第8話 違う

 やけに下が五月蠅い。

 その喧騒に、ジャンジーは目覚めた。

 しかし、昨日に感情を爆発させ過ぎたせいか、上体を起こすような気力は無い。その反面、思考は明瞭で、彼女はしばらく布団の中で休息を取ることに決める。


ジャンジーは上階の個人病室に引き籠っていた。

 手鏡を見れば、自慢の顔の下半分は白い包帯で包まれている。まるで醜い顔を仮面で隠しているようで腹立たしい。すぐにでもそれを外したいのだが、彼女には現実を直視する勇気もない。


 これもすべて、あのソディアという女のせいだ。


 全く眼中にない女が、手に持った箒を自分に打ち払ってきた。

 それも、何かの戦闘訓練を積んでいたのか、容赦なく的確にだ。

 さらに唖然としたのは、今回の事件がすべて事故として終結していることだ。すぐに自分の玩具が逆らったのだと察し、憤怒で頭がどうにかなりそうだった。


 そんなときに訪ねて来たのは、仲間の女学生だ。

 しかし、自分の今の姿を見せれるわけもなく、加えてまだ上手く話すことができない。そのため、扉越しで話だけを聞くという旨をメモ帳に書いて女学生に伝えた。そして、彼女の口から発せられた事実もまた、ジャンジーを怒りで狂わせた。


『みんなね、あの化物にやられちゃった……。もう、当分は学校にも来られないって。二人なんて……顔の形がおかしかったよ。後の二人も、まだ目が覚めてないの。それなのに、こんなことをしたのに……あいつは、何にも罰を受けてないんだ』


 涙混じりのその言葉を、ジャンジーはとてもじゃないが冷静に聞いていられなかった。仲間たちがソディアに痛めつけられたことではない。自分が下と思っていた存在に完全敗北したという事実が、ジャンジーを怒り狂わせた。そして、自分の美貌を傷つけたというのに、何の処分も受けていないというふざけた処遇。


 おかしい。どうして、私がこんな目に遭わなくちゃいけない。

 悪いのは全て、あのソディアとかいう狂った女だ。


 すでに、ジャンジーはミントへの復讐は考えていなかった。

 退院したならば、まずはソディアを地獄の底まで叩き落してやる。自分と比べ程にもならないくらいに顔の骨を砕く。それだけではこの怒りは収まらない。顔の皮を剥ぎ、今の自分のような仮面の生活を一生送らせてやる。


 ベッドの上でジャンジーは報復を誓う。すでに脳内ではソディアを苦しめる苛めや拷問の数々が頭に浮かんでくる。怒りというエネルギーがジャンジーの行動力の源となり、それが皮肉にも彼女の活力となっていた。この調子ならば傷の治りも早いだろう。思ったよりも早く退院できるかもしれない。


 ジャンジーがベッドの上で怨嗟の言葉を呟いていると、病室の扉をこん、と叩く音が聞こえる。気のせいかと思い無視していたが、再び同じ音が聞こえたために誰か来たのだと察する。


 誰だろうか。また、女学生だろうか。

 しかし、現在は登校時間のはずであり、彼女が学校をサボタージュしてまでお見舞いに来るとは思えない。だとしたら医者か両親か、だ。誰にも今の姿を見せたくないために、極力人と会うことを避けたいジャンジーではあったが、流石に医者と両親を無視することはできない。


 ジャンジーは気怠そうにベッドから起き上がると、扉へと進む。

 そして鍵を外した瞬間に、そのスライド式の扉は勢いよく開け放たれた。


 ジャンジーは見る。

 悦びに満ちた瞳をし、口元を愉しそうに歪ませる女の姿を。

 自分の狂気が幼稚だと思えるほどに、狂いに狂った狂人の姿を。

 この病室に自分を閉じ込めた、化物の姿を。


ほ、はえお、まえ……!」


 ジャンジーは驚き、思わず後退する。

 それはここにいる化物と距離を取った方が良い、と冷静な判断による行動ではない。もっと原始的な、人間の本能ともいえる感情が、ジャンジーの身体に訴えかけてきたのだ。


 それは恐怖。

 恐ろしいと感じた。怖いと感じた。悍ましいと感じた。逃げたいと感じた。目を背けたいと感じた。この場に居たくないと感じた。目の前にいることに耐えられない。こうして立っていることで精一杯だ。


 ジャンジーは気づいていなかった。

 怒りで自分を誤魔化していたのか。それとも、復讐するという思考がその感情を塗りつぶしていたのか。良くも悪くも、それらがジャンジーの記憶を封じ込めていた。


 あの瞬間、あの場で、何が起こったかを。


 しかし、その女を目の前にして思い出す。無理矢理に思い起こされる。

 頭を掴まれた前後左右に揺らされ、その記憶と感情を引っ張り出されるような不快感が、胸の奥から込み上げる。その瞳から涙が絶えず落ち、顎が壊れたにも関わらず、奥歯が震えてカチカチと音がする。脚に力が入らず、膝から崩れ落ち、ついには失禁する始末だ。


 自分の身に何が起こっているか、ジャンジーは自覚した。

 あの瞬間、あの場で、すでに自分の心は折られていた。

 屈服させられていた。支配されていた。暴力で、恐怖で、自分の心内は蹂躙し尽くされていた。復讐なんて、無理だった。目にしただけで、相対しただけで、身体の震えは止まらず、すでに生きることすらも諦めているのだから。


 化物は、そんなジャンジーを見下ろしつつ、病室の扉を閉める。

 そして情けないジャンジーの姿を一瞥し、化物は――ソディアは口を開ける。


「――違う」

「……っぁ?」

「あなたかと思った。私が、会いたかったのはあなただと思っていた。この胸の高鳴りの正体は。この燃え盛さかるような頭の熱は。すべてあなたが原因だと思ってた」


 でも、違う。

 ソディアは、冷めた顔をして息を吐く。すでにジャンジーには興味がないのか、窓の外の景色をぼうっと見つめて呆けている。あのときの姿とはまるで違う、その無防備な姿に、ジャンジーの恐怖が薄らぐ。


「……あ、そうだった。謝りに来たんだった」


 思い出したかのように、ソディアは言う。

 そして、腰から折れて深く頭を下げる。


「いっぱい殴ってごめんなさい」


 無機質で、まったく反省の色がない、ただの文字列だとしか思えない言葉だ。

 声帯からその単語を出しただけで、感情は一切込められていない。


 それで用件は終わったのか、ソディアは頭を上げるとジャンジーに背を向ける。一瞬見えたその顔は、なぜかすっきりとしている。まるで嫌な宿題が終わって解放された子供のような表情だ。


 それ以上の言葉はなく、ソディアはジャンジーの病室から出て行った。

 時間にして約一分の面会だというのに、ジャンジーには一か月ほどあの化物と相対していたかのような心持ちだった。すでに全身は冷や汗で気持ち悪く濡れており、奥歯が震えたせいか壊れた顎がひどく痛む。


 しかし、ジャンジーは動けなかった。

 恐怖から解放されて弛緩した肉体に、その場から動くほどの力は残っていなかった。しかし、その代わりに、彼女に肉体は窮地を脱し、生き残ったという充足感に満ち溢れていた。


 すでに復讐という二文字は無い。

 助かった命を大切にして、生きていこう。


 ジャンジーは一人でそう誓った。


◆ ◆ ◆


 ソディアを追いかけて、ミントとシュガーも病院へと到着していた。

 全く息を切らさない様子のシュガーが病院の待合室に駆けこめば、いつもとは違う異変に二人は気づく。


「なんだ、この人混みは……」


 シュガーに抱えられたままのミントは、人に溢れている待合室を見て言う。平時は余裕がある待合室だというのに、今は座る場所がないほどに人が押し込められている。見れば、そこにいる人たちは怪我をしているようであり、痛みに呻く声が院内中から聞こえて来る。


「どういうことですか? まさか、これも全部ソディアさんが……」

「いや、違う。この人たちの服装は行商人だ。旅のために着込んでいるみたいだし、街の外で何かに襲われたようだ」

「行商人? 一体何が……」


 二人が入り口で踏みとどまっていると、医師と思われる白衣を着た男性から近づいてくる。忙殺状態なのか、その口調は荒く、対応自体がどこか棘立っている。


「おい! その小さい子も怪我人か!? だったら、そんなとこに立ち止まっていないで中に入って傷を診せろ!」


 どうやらシュガーが抱え上げているためか、ミントが怪我人と勘違いされているようだった。ミントは慌ててシュガーから降りると、「違います!」と言って頭を下げる。すると医師は激怒するかと思えば、どこか安堵した表情を見せていた。そして、面倒臭そうな態度を取りつつも、ミントたちに話しかけて来る。


「ったく、悪いが今は緊急事態だ。見舞いなら別日にしてくれ」

「あの……何か、あったんですか?」


 空気を読めない質問だとは思いつつも、何か嫌な胸騒ぎがしたミントは訊かずにいられなかった。今度こそ罵倒が飛んでくると身構えるが、意外にも医師は肩を竦めるだけだった。


「さあな。行商人たちこいつらの話を聞くに、化物に襲われたっていうが……錯乱状態の奴が言うことだ。恐らく、野獣か野盗だろう」


 医師はそれだけ言うと、慌ただしく走って行った。もしかしたら、ミントたちとの会話は彼にとってのほんの少しの休憩だったのかもしれない。

 ミントは医師から聞いた話を振り返り、顎に手を当てて思案していた。そんな姉の姿に痺れを切らしたのか、シュガーがミントに言う。


「お姉ちゃん。早くソディアさんを探しに――」

「ごめん、シュガー。先行ってて」


 ミントの言葉に、シュガーは目を丸くする。

 まさかソディアを最優先として動く姉が、それ以外のことを優先するとは考えてもいなかったのだ。その理由を訊く前に、ミントは表情に陰りを見せて言う。


「嫌な、予感がする。……シュガー。昨日会った行商人から聞いたんだよね? 見たことも無い化物が現れた……ていう噂話を」

「……これがその化物の仕業だと?」

「あんたが信じる私の話が正しければ、ありえない話じゃない」


 ミントは近くの床に座る怪我人を観察する。

 胴体に巻かれた包帯は、真新しいというのにすでに赤く染まっている。傷口を見れば確信できるが、それをすることは出来ない。しかし、その赤い染みの大きさから、大きな切り傷があることは確かだ。


 そう、まるで大きな獣の爪で切り裂かれたような。


「私は、もうちょっと情報を集める。シュガーはソディアを探すんだ」

「し、しかし……こんな人が多い状況では――」

「私の推理だと、ジャンジーの病室は上階の個人病室。恐らく、ソディアも私と同じ考えですでに向かっていると思う」


 なぜ? とシュガーは訊き返さず、ミントの言葉に頷く。そして、慌ただしく人が行き来する待合室を駆けて行った。院内で走るのは危ないのだが、それを守れるほどの余裕は今の二人にはない。


 ミントはシュガーを見送ると、息を吐く。

 実際のところ、もし暴走状態のソディアと相対したとき、必要なのはそれに応戦できるシュガーの戦闘力だ。自分の頭脳はそこには不必要であり、ならばこうして最悪の事態を想定して情報を集めていた方が良いだろう。

 

 ソディアのことは心配だが、妹に任せよう。

 不出来な妹だが、自慢の妹でもある。

 

 ミントは気を取り直し、頭をフル回転させようと頬を叩く。

 すると、そのタイミングで聞き慣れた声が耳に届いた。


「あれ? ミントちゃん?」


 ミントは混乱しつつその声がした方を振り向けば、そこにはきょとんとした顔で幼馴染を見るソディアの姿があった。互いに『なんでここに君がいる?』という視線を送り合うが、その熱視線はソディアが照れ臭そうに笑ったことで途切れた。


「もしかして、心配して来てくれたの?」

「いや、心配というか……。心配なのはジャンジーだったというか……」


 普段通りであるソディアの言動に、ミントは安堵して息を吐く。

 どうやらソディアの異変はシュガーの見間違えだったようだ。どうやら、これに関しては妹の不出来さが露見したらしく、あんなに慌てたのが馬鹿らしいな、とミントは顔を俯いて力なく笑う。


「え? なに? どうしたの? なんで笑ってるの?」

「ごめんごめん。いや、ちょっと気が抜け――」


 謝ろうと顔を上げて、再びソディアの顔をみたとき。


 ミントはシュガーが正しかったのだと、確信する。

 表面上は笑っているように見えるが、その瞳に感情は無い。それは、あの夜の日に、彼女が垣間見せたあの表情だ。狂気を内包した、爆発する前の風船のような危うさがひしひしと伝わって来る。


「ソディア……。ジャンジーとは、どうだったの?」


 ミントは冷や汗を浮かべつつ、相対するソディアに問う。

 もしかしたら、もう手遅れかもしれない。そんな覚悟をした質問だったのだが、意外にもソディアは「あー……」と煮え切れない返答だった。


「なに? まさか、君――」

「ううん。殺してはないよ」


 その返答に、ミントは心臓が止まったかのような衝撃を受ける。

 あのソディアの口から『殺す』という言葉が出て来ることすら、ミントにとっては信じがたい。しかし、聞けば殺してはいないとのこと。つまりは、生きてはいるが、その寸前までは……?

 と、ミントが考えていたところに、ソディアはあっけらかんに言う。


「まあ、半殺し程度にはしても良かったかもしれないけどね」


 そう言って、ソディアは病院の出口へと歩みを進める。

 目の前に幼馴染がいるというのに、全く興味がない様子だ。

 すでにそこに自分の知るソディアはいないのか? いや、そんなことはない。ミントは自分の中の勇気をかき集め、自分に背を向けているソディアに叫ぶ。


「どこに、行くつもり!?」


 ソディアはそこで、歩みを止める。

 そして、振り返って、言う。


「探してるんだ。待ち人を」


 それはもう。

 ミントの知らないソディアの表情だった。

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