Dragon-Jack Co. 金魚博士の青春(卒業~お礼参り)
千葉 琉
第1章 奈津の急襲
(おことわり:かつて、卒業式の日に憧れの人から制服の第2ボタンをもらうという風習がありました。本編はその風習がテーマになっています)
卒業式の朝、少し早めに自宅を出た健司を急襲したのは、制服姿から判断するに同じ高校の後輩と思われる女だった。“山本先輩!”の呼び掛けで健司の足を止めておいて、背後からどたばた回り込んできたその女は、なぜか健司の腹の辺りに目をやると
「良かった、間に合った!」
と小さなガッツポーズをして言った。まだ冬の気配が残る3月上旬の朝に白い息を吐き出している様子は“校庭1周ダッシュしてきました!”というセリフの方が似合いそうな雰囲気で、前髪をピンで止めてむき出しにした広い額が汗で光っている。きっと子どもの頃から“でこっぱち”とか“おで子”とかいうあだ名を付けられていたんだろうな。
道を歩いていてこんな風に足止めをくうのはよくあることだが、何度やられても煩わしく不快であることには変わりがない。たいていは女で、突然現れて“好きなんです!”だの、ひどい場合は“抱いてください!”などと不気味な発言をする輩すらいる。
数秒待ってまともな会話が始まらなければ黙殺して通り過ぎるという、いつものルールを適用しようと健司が一歩踏み出した時、おで子がさっと姿勢を正した。
「わたくし2年C組、安藤奈津と申しますっ」
これは珍しいケースだな。意外に思いつつ健司が奈津の額を見下ろしていると、奈津は直立不動のまま続けた。
「先輩にお願いがあります」
「なに?」
返事をした途端、奈津は後ろに反り返りながらほわああ、と妙な音を漏らし、“く、口聞いてくれた!”とつぶやいたが、またすぐに背筋を伸ばした。
「先輩の第2ボタンを、わたしにくださいっ」
ものすごい力の入りようだ。命を下さいと言われたみたいだ。
「安藤さん」
声をかけると再び、ほわああ、が聞こえた。
「悪いけど、二番目のボタンは先約が入ってる」
「先約……」
つぶやいたかと思ったら、途端に肩を落とした。
「そっか……予約かあ」
そうだよね、当日の朝で間に合うわけないじゃんヤマケンのなんだからさ、なんで気づかなかったの、甘い甘いよバカ奈津、と機関銃のような独り言を発しながら、自分の額をぺちぺち両手で叩き始めた。
なかなかいい音がするな。健司が思いながら歩き出すと、奈津も並んでついてきた。
「あの、他のも予約済みですか?」
「いや。二番目だけ。他のボタンでよければあげるよ」
おわあ~! と発した奈津の顔が輝いた。
「いいです。一番目でいいからくださいっ!」
っていうか、話せて一緒に歩けてるだけでわたし死にそうなんだけど、と頬を押さえている。独り言をずいぶん大声で言う女だ。
卒業式が終わった後でもいいかと健司が言うと、もちろんです! と飛び跳ねた。
「ありがとうございます!」
ボタン一つでこんなに喜ぶなんて、これが本来手に入れたかった第2ボタンなら、奈津はどんな反応を示しただろう。
そういえば、数日前にボタンの予約を入れてきた人間も二番目でなければだめだと言っていた。なぜ二番目なんだ? 浮かんだ疑問を健司が口にしようとした時、
「あのう。聞いてもいいですか」
駄目ならいいんですけど、と奈津がおずおずと言った。“ヤマケンの第2ボタン”を予約したのは誰なのか知りたいと言う。
「別に構わないけど、名前聞いてわかる?」
健司には信じられないことだが、校内の人間なら学年とクラスを聞けばだいたいわかると奈津は言った。
「俺と同じA組の、佐藤」
「3-Aの佐藤さんって」
頭にその人物が浮かんだのか、奈津が目を見開いた、と思ったら頭を抱えた。
「まさか、あの重量上げの?」
佐藤かおり、“でっかおり”? 嘘でしょ?
信じらんない~! とまた額を叩き始めた。激した時の癖らしい。
「いや、そっちの佐藤じゃなくて。浩一の方」
「は?」
元サッカー部キャプテンの佐藤浩一だと健司が言うと、今度はふんが~と呻きながらその場にしゃがみこんだ。
「そ、そんな」
そっちの人だったんだ! すっごいショック! でも“でっかおり”だったら佐藤さんの方がマシ? いやさすがにそれはちょっと……と奈津は例によって大きな独り言を吐き出していたが、やがてそのまま歩き続けていた健司の後を走って追ってきた。
「ほんとに佐藤さんが、先輩のボタンほしいって言ったんですか?」
「ああ」
「だって、佐藤さん彼女いますよね。カニタマのたまちゃん」
そう言えば1か月ほど前、“チョコとともにおれの春がやってきたぜ!”と狂ったように喚いて以来、浩一が“たまみちゃん”の話をしない日はない。“蟹って字、書けるか?”と自慢気にいうので、その場で書いてやったらすごく嫌な顔をしていた。
「ああ、蟹瀬珠美だから、カニタマか」
「わたし、同じクラスなんです」
極めてどうでもいい情報だったが、一応健司はうなずいた。
「浩一がその子に夢中だっていうことは知ってるけど」
いったい何の関係があるのか?
「俺があいつにボタンを渡すのに、何か不都合があるわけ?」
すぐに、ほわああ~が返ってきた。健司が質問の答えを得る前には、どうしてもこれを聞かされなければならないらしい。
「す、すごい……」
さすが超人、もしかしたらたまちゃん負けちゃうかも、となぜか額まで真っ赤になって言う。
「それにしても佐藤さん、すんごい二股……」
二股? どうも会話が噛み合わない。
「あのさ、何か勘違いしてない?」
「え?」
「あいつがくれって言うから、俺は承諾しただけなんだけど」
健司は制服のボタンを摘まみながら、これまで聞き損ねていた疑問を再び口にしてみた。
「浩一もだけど、なんで二番目限定なんだ?」
「え? なんでって」
「君はさっき一番目“で”いいって言ったよね」
奈津がぽかんとしたままうなずいた。
「素材も形もまったく同じなのに、ついている位置で価値が変わる理由がわからない」
「ほんとに意味知らないんですか?」
「うん」
何か特別な意味があるのかと健司が問うと、
「こんなこと聞かれるなんて思わなかった」
奈津は苦笑しながら言った。
いろいろ説はあるみたいですけど、という前置き付きの奈津の解説によると、第二ボタンが一番心臓に近いからとか、実はそれぞれのボタンに意味があり、一番目は当人、二番目は当人にとって最も大切な存在を表す、などと決まっているのらしい。
「だから」
憧れの人、想いを寄せる相手から第2ボタンを貰うということには特別な意味があるんです、と奈津は少しうつむいた後、ちらりと健司を見上げて言った。
「ふうん」
それでボタンの予約者が浩一だと知った時の奈津の反応と二股発言の理由がわかった。
健司はもう一つ尋ねた。
「ボタンを手に入れた後は?」
奈津が怪訝そうな顔を向けた。
「何に使う?」
「使ったりしませんよ。思い出の品としてずっとずっと大切に持ってます」
わ、何か恥ずかし~! と頬を押さえて叫んだ。かと思ったら、何かに気づいたように立ち止まった。
「もうすぐ着いちゃいますね」
早かったなあ、と行く手の校舎を指差してしみじみと言う。
「わたし、そろそろ離れた方がいいかも」
奈津が苦笑した。
「このままじゃ、学校中の女子に睨み殺されちゃう」
「ごめん。もう少しだけ」
話ができないかと健司が言うと、奈津は自分の額やら頬やらを引っぱたいたあげくに、じゃあ殺されたっていいです! と叫んだ。
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