第275話 ブルの里帰り
「山さん、元気なのかな? 会いたいんだな」
遠く西の空を見上げて、ぽつりとブルは呟いた。
「ブル様・・・」
「故郷を思われているのか? 早くお元気になられると良いが」
農夫達にとって、ブルの寂しげな姿を見るのは初めての事だった。
元来ブルは、心優しい魔獣である。周囲の者達を気遣って、物憂げな表情を浮かべたりはしない。平和になり、世界が安定してきた今だからこそ、想いが高まったのだろう。
思わず零れた言葉を、ブルは止める事が出来なかった。
ブルは、これまで与えられた旧帝国領を、ひたすらに耕して来た。ドラグスメリア大陸を離れての日々は、ブルにとっても、新鮮な日々であった事は間違いない。しかし、あの大戦の最中に別れた山の神ベオログが、頭の中から離れなかったのも事実であった。
荒れ果てた旧帝国領の開墾は、ブルとエルラフィアから来た農夫達の手で始まった。ブルは、神気を鍬に乗せて耕す。そのせいか、冬也が神気を注いだ帝都周辺だけでなく、他の地帯も実りは格段に速かった。
神が戻り大地が蘇ったとて、各地で直ぐに収穫が出来るはずも無い。世界の食糧危機を支えた裏には、ブルの尽力が有った。
実りが人を集める。騒乱後、ラフィスフィア大陸の各国からブルの下に労働者が集まり、旧帝国王都はドワーフ達の手によって再建される。それと共にミノタウロスの国からも移住者が現れ、ペスカの主導により農業研究所が設立される。
更には、飛空艇と呼ばれる空を飛ぶ機械の登場により、輸送手段は著しく向上し、新鮮な野菜が世界中に届けられる。加えて加工技術の進歩と、旧帝国領付近は瞬く間に発展していった。
故郷を離れて一年余り。今や隣の旧小国領をまでに広がる程に農地が広がった。
どんな種族にも分け隔てなく、穏やかに接するブルを皆が愛した。大地母神フィアーナよりも、この地においてのブルへの信仰は深くなっていった。
冬也の眷属という或を超えて、神の道を歩み始めるブル。皆に慕われ、ブルも皆を愛おしんだ。それでも惨劇以来、山の神ベオログとは顔を合わせていない。無事を伝えられても、案じない訳がない。
空を飛べるスールとミューモ、転移の魔法で何処にでも行けるペスカと冬也とは違い、ブルが持つ移動手段は己の足のみ。それがブルの憂いを誘う一因になったのかもしれない。
ブルの憂いを知ったのは、周囲の農夫だけではない。神気でブルと繋がる冬也は、随分も前からブルの寂寥感に気が付いていた。
最初は慣れない土地で、郷愁にかられているのかと、冬也は危惧した。しかし、予想外にブルと人間達は上手くやっていた。冬也が訪れれば、ブルから感じる寂寥が薄れる。ならばと、冬也は頻繁に足を運び、ブルに会いに来ていた。しかしここの所、ブルからは寂寥感を強く感じる様になっていた。
そして、旧帝国領を訪れた冬也は、ブルの様子を見て語りかけた。
「ブル、一日だけ待てるか? 明日からしばらく里帰りだ! みんなも良いよな」
「当然です。ブル様のお留守は、我々が守ってみせます」
「いいんだな? みんな、ありがとうなんだな」
「何を仰るブル様。いつもブル様に頼り切りの、我々が不甲斐ないんです」
「そうですブル様。それでブル様が、お元気になるなら行って下さい」
「ありがとうなんだな。冬也もありがとうなんだな」
ブルが答えるよりも早く、周囲の者達が冬也に反応する。そしてブルも、皆に笑顔を向ける。冬也は確かな絆を感じ、頬を緩めて姿を消した。
冬也が再び姿を見せたのは、翌日の朝である。
「ブル、待たせたか?」
「大丈夫なんだな」
「じゃあ、行くぜ」
「わかったんだな」
そして、冬也はブルに手を添えると、ブルと共に転移する。多くの農夫達に見守られながら。
転移先は、ブルが暫く拠点としていた果実園。そこで待ち受けていたのは、山の神べオルグであった。
「ブル、久しぶりじゃのう。元気でおったか?」
「山さん・・・。無事で良かったんだな」
ブルの瞳からは、光るものが零れる。
「お主は、相変わらずじゃのう。儂が無事だとは、聞いておったろうに」
「それでも、実際に見ないと駄目なんだな。山さん、良かったんだな」
山の神べオルグの優し気な眼差しが、ブルを温かく包む。
ブルは涙を零しながら、唯々山の神を見つめていた。
互いの近況を伝えながら、どれだけの時間が経ったろう。
それまで、二人の邂逅を眺めていた冬也が、徐に話しかける。
「ブル。今回は、特別にゲストを呼んでいるんだ」
「ゲストって、何だな?」
「見えてないか? あそこに居るのを」
冬也が指を差した先に、一体のサイクロプスが居た。
そのサイクロプスは、ゆっくりと近づいて来る。
不思議と懐かしい感じを受ける、そのサイクロプスはブルの目の前まで近づくと、静かに口を開く。
「あぁブル。大きくなったね。立派になったね」
そのサイクロプスのブルを見つめる優しい瞳、微かにだが覚えが有る。
幼い頃に見た、懐かしい笑顔。
「もしかして、お母さんなんだな?」
「あぁそうだよ、ブル。お前は、小さい頃から優しい子だった。ごめんね、ひとりぼっちさせたね。でも、お前は、私達サイクロプスの一族をを助けてくれた。一族が無事でいられるのは、お前のおかげだよ。お前は、私の誇りだよブル」
「お母さん・・・。お母さん・・・。お母さん・・・」
反芻する様に、ブルは連呼する。同時に、その瞳から涙が溢れていた。
ずっと独りで生きて来た、永遠に孤独で生きて死んでいくのだと思っていた。
初めて出合い自分を孤独から救ってくれたのは、父の様に感じた山の神べオルグと兄の様に慕った冬也、それに数少ない仲間達であった。でも、どこかで満たされない気持ちが有った。いつの日か、再び会いたいと心の何処かで思っていた。その母が目の前に居る。
それはブルの心を震わせる。ブルは零れる涙を止められずにいた。そんなブルを、母は優しく抱きしめる。
抱きしめられて思い出す、幼い頃に感じた母の温もり。それは、ブルの心を温かく包んでいく。
暫くの間、ブルは母の温もりを感じながら、涙を止める事は出来なかった。
「おで、おで、いっぱいいっぱい頑張ったんだな。今は、畑を作ってるんだな。人間や亜人達が手伝ってくれるんだな。みんながおでに優しくしてくれるんだな、おでは幸せなんだな」
ひとしきり涙を流し、落ち着いてからは、ブルの言葉が止まらなかった。
長く離れた時を埋める様に、母に伝えたい想いが溢れていた。
「ブルや。これでも、食って少し落ち着かんか」
そう言って、山の神が差し出したのは、懐かしく感じる山の麓で採れる果実。
「相変わらず、美味しいんだな。お母さんも食べると良いんだな。山さんも食べると良いんだな」
「ありがとうブル。お前は優しい子だね」
そう言って母はブルの頭を撫でる。ブルは目を細めながら、母の温もりを感じた。
「良かったなブル。二週間位したら迎えに来る。お前は周りに気を使い過ぎだ。たまには、存分に甘えろ」
「冬也・・・」
「礼なんか言うんじゃねぇぞ。これは、俺からお前への礼だ」
「わかったんだな」
冬也は微笑みながら、姿を消す。
そんな冬也に、陰ながらブルの母が頭を下げていた。
山の神が無事だった事は、とても嬉しかったし、安堵したのは間違いない。それよりも夢が叶った事は、驚きであり、感動であった。
ブルは、それを叶えてくれた冬也に、そして送り出してくれた農夫達に、心の中で礼を告げる。
長い時を経て、再び再会した親子は、互いの事を語り合った。それを見つめる山の神べオルグの表情は、終始笑顔であった。
二週間では足りはしない。ほんの瞬きの間と思える程に、親子の時間は儚く過ぎ去っていく。
再び別れの時は訪れる。なにせブルは巣立ちを終え、新たな拠点で生活の場を築いているのだから。
「また、会いに来てもいいんだな?」
「当たり前だよブル。ここがお前の故郷なんだ。いつでも帰っておいで」
「あぁ、そうじゃ。たまにと言わず、ちょくちょく顔を見せい。儂もお前が居ないと寂しいんじゃ」
山の神と母に見送られ、ブルは冬也に連れられ旧帝国領に転移する。
不思議と寂しさは消えていた。また会える、それがブルの心に勇気を与えていた。
「行きたくなったら、また言えよ。まぁ、お前が転移出来る様になれば、自分の力で行き来が出来んだけどよ」
「転移の仕方を覚えるんだな」
「あぁ、教えてやる。今のお前なら、そう難しくはねぇだろうからな」
他者を思い、周囲を優しさで包み込み、皆に愛される心優しきブル。
愛する事が出来るから、愛される。
そんなブルに贈られた、ささやかなプレゼント。
ブルだからこそ叶ったであろう、願いの物語。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます