第219話 クロノスの奮闘

 ドラグスメリア大陸東部の東側海岸線から見える風景は、世界一美しく透き通った海が広がる。

 浅瀬の海が広がる海岸線の海底にはサンゴが広がり、その美しさを際立たせていた。色とりどりの魚が、ゆらゆらと泳ぎ回る姿は、南国リゾートの楽園を思わせた。


 しかし現在、その海は黒く濁り透明度は欠片も無い。

 ドロドロしたコールタール状の海は、時折ボコボコと音が鳴り泡を立て、弾けると共に瘴気を広げる。魚は死に絶え、コールタールの上に横渡る様に浮かんでいる。

 どれだけの環境汚染が行われたら、こんなひどい状態になるのだろうか。世界一美しい海は、完全に死に絶えていた。


 この場に一時間でも居れば、力の弱い土地神は正気を失うだろう。最早、この場に立つ事が許されるのは、原初の神やそれに近しい力を持つ者のみ。それだけ濃い瘴気が充満し、息をするのもままならない。

 視界は悪く、薄っすらとしか前が見えない。


 コールタール状の海から這い出る様に、次々とモンスターが生まれる。東側の海岸沿いで戦うクロノスは、地上だけではなく海から現れるモンスターに囲まれていた。


 全方向からモンスターが襲いくる。濃密な瘴気が纏わりつき、動く事も儘ならない。そんな地獄の中で、唯一クロノスだけが、正式な神ではなく眷属であった。

 しかし、力の弱い見習神の様な存在にもかかわらず、クロノスは懸命に抗っていた。


 例え浄化しても、直ぐに瘴気が広がる。溢れるモンスターは止まる事が無い。瘴気を清浄化してマナを大地に還す、魔術式をクロノスは行使し続ける。

 しかし、永遠と続く様なモンスターの攻撃に晒され、クロノスは辟易していた。


 クロノスが強い力を使えないのは、女神セリュシオネが訳も無く制限をしているからではない。

 通常の生物には、生命の核となる魂魄がある。元々エルフとして生を受けたクロノスも同様である。

 女神セリュシオネは、クロノスを魂魄を己の神気で満たし、神格へと昇華させた。


 変わったばかりの神格は、余りに小さく脆い。通常であれば、何千年、何万年の時を経て、神格を大きく育てていく。

 クロノスの場合、眷属として生まれ変わってから、数か月も時間が経過していない。再び肉体を得る事自体に無理が有る。大きな力を使えば、新たに得た身体どころか神格すら破壊しかねない。

 それは女神セリュシオネに対する、許されざる背信である。故にクロノスは大きな力を行使出来ず、己が行使できる力の範囲で戦うしかなかった。


 眷属として新たな生を受けたスールとて、神格の脆さは同様である。

 冬也はパスが繋がっているが故に、スールの限界を理解していた。そして冬也は、自分の力を無尽蔵にスールへ渡してはいない。

 スールもそれは理解をしている。だからこそ、相手の力を奪い己の力に変える技を使った。

 

 スールと同じ技をクロノスが使えるのか? 技を使うだけなら可能である。

 スールの場合は、冬也によって蘇ったのが正しい。そして、肉体はエルフとは存在自体が異なる、地上最強の生物エンシェントドラゴン。

 対してクロノスは、新たに得た神の身体。当然ながら神格と同様に、新しいクロノスの身体も脆弱である。


 スールは肉体を持つが故に、浄化した力は己のマナとして使用している。

 もしクロノスが浄化した力を神気に変換し、それを取り込み過ぎれば、身体は失われ神格も壊れる可能性がある。

 山の神が警告を発したのも、当然の行為かも知れない。


 大規模浄化の力を邪神に利用され、モンスターの力が強まっている。遅々として進まない浄化、邪神の力が増すだけの現状は、クロノスを大いに苛立たせた。


「この様な所で遊んでいる訳にはいかんのだがな」


 かつて邪神ロメリアに支配され、ラフィスフィア大陸に戦乱を巻き起こした戦犯であるクロノス。長い時をかけて、ゆっくりとクロノスの心は変貌させられた。

 元のクロノスは、平和を愛し、仲間を愛し、自然を愛する、温かい魂の持ち主であった。

 

 当時の女神セリュシオネは、多くの死者が出た事で多忙を極めていた。しかし、天才クロノスの非凡な魔法知識を、女神セリュシオネは必要としていなかった。使える手駒が増えただけで充分だった。


 ならば何故、女神セリュシオネは、クロノスを眷属とした時に、なぜ記憶を経験を残したのか。

 当然、己の神気で魂魄を支配したのだから、記憶や経験を奪って神格化するのも容易であった。寧ろ、全てをリセットした方が、クロノスにとっても幸運だったろう。


 女神セリュシオネは、エルフとしての最後を迎えた時の、クロノスに宿った悔恨の念を信じた。

 罪を償う機会を与えたと言えば、聞こえは良いだろう。いつ消えるともわからない罪、悔恨の念を抱きながら、神として生きなくてはならない。それは、クロノスを永劫に縛る呪いと言っても、過言では無かろう。

 だがクロノスが、女神セリュシオネに語ったのは、たった一言であった。

 

「感謝します。私は罪を償い続ける事が出来る」

 

 原初の神々とそれに対抗する神々が、一触即発の状態である構図で唯一、中立の存在である女神セリュシオネ。

 女神セリュシオネが、ドラグスメリア大陸の混乱にクロノスを送り込んだのは、これ以上の死者を出さない為であり、これ以上の多忙を阻止する為に他ならない。


 同時に女神セリュシオネは、クロノスを送り込むのが適任だとも思っていた。

 この地で奮闘しているのは、かつてのライバルであるペスカ。そのペスカと、双璧を成す魔法の天才であるクロノス。そのクロノスは、償いの機会を欲している。


「私の償いは、始まってすらいない。クラウス、お前は異界で奮闘しているのだろう。この兄が負けられるはずが無かろう。何よりもあの小娘に大きな顔をされるのは、非常に腹立たしい!」


 クロノス自体、理解をしていない。いや、理解をしているが、認めたくないのが正解かも知れない。

 クロノスは、ペスカをライバルの様に感じていた。だが、それは格下では有り得ない事。同格かそれ以上でなければ、意識すらしないだろう。それだけ、クロノスにとってペスカは大きな存在だった。


 それは女神セリュシオネが描いた、もう一つの思惑である。

 中途半端な神よりも、この場にはクロノスが相応しい。この場にクロノスを送れば、ペスカへのライバル心を掻き立てるだろう。そしてクロノスの強い意志は、現状を打破する鍵となるだろう。


 人間でありながら神の一柱として、原初の神にも劣らない力を見せるペスカ。それに対し、モンスターに手を焼くクロノス。

 クロノスは、己の不甲斐なさを恥じると共に、ペスカとの差を埋めようと必死に頭を働かせた。

 

「私が殺した数だけ、私は救わねばならん! 私が壊した数だけ、私は直さねばならん! 小娘だけに任せて、こんな場所でのうのうとしている場合では無いのだ! 負けられん。負けられんよなぁ!」


 クロノスは叫んだ。

 そして使用限界のギリギリまで、神気を高める。例え大きな力がが使えなくても、クロノスの武器はそこにはない。

 知恵と知識への欲求こそが、生前のクロノスを支えてきた大いなる武器。それこそが、ラフィスフィア大陸で最大の国家、魔道大国メルドマリューネを造り上げたのだ。

 

 海からは、クラーケンを模した様なモンスターが沸き上がる。シーサーペントを模した様なモンスターも、海面上を埋め尽くす。大地には、多数の醜悪なモンスターが、大波の様に激しくうねり押し寄せる。

 どれだけ強大で凶悪そうなモンスターに囲まれても、クロノスの心は微塵も怯まない。

 

「全てをあるべき姿に。淀んだ海、淀んだ大気、荒れた大地。美しい自然は美しいままに。全てはあるがままに。眠れる力よ、眠れる想いよ、今ここに甦れ!」


 クロノスが思い描いたのは、生命とマナの循環。命がやがて土に還る様に、海が生命を創り出す様に。


 自分は単なる鍵である。

 鍵は本来有るべき力を、解放させるだけでいい。

 淀みは浄化され、マナは有るべき場所へ。その循環が連鎖し、周囲の淀みを浄化させていく。

 正しい循環が、全てを清浄へと変えていく。


 自分は単なる引き金である。

 己の力を使わずとも、大地には大地母神ミュールの力が眠っている。その力を呼び覚ませばいい。

 ただそれだけで、全てが変わっていく。

 

 クロノスが唱えた呪文は、周囲のモンスターを消し去っていく。

 大地と海、そして空から、多くのモンスターが姿を消す。大気から瘴気が失われ、大地には緑が芽生え始める。海は再び息を吹き返し、美しさを取り戻していった。


 浄化は広がっていく。

 東側の海岸線沿いが、次々に浄化される光景をみて、クロノスは再び呟いた。


「一矢報いたかロメリアよ。まだまだこれからだ。必ず息の根を止めて見せる」


 クロノスの口角は少し吊り上がっていた。

 戦いは未だ終わらない。しかし、各所で戦果を上がりつつある。ペスカが、冬也が、魔獣達が、クロノスが、大いなる逆境を跳ね返していた。

 そして、逆境に立ち向かう存在は、北側の海側の海岸沿いにも存在していた。

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