第204話 クロノス・メルドマリューネ

 大陸東部から出現した邪神の本体は、想定外の力を持っていた。

 邪神が軽く手を振ると、冬也と山の神は数メートル後方に飛ばされる。

 払う様に手を振った。ただそれだけで、冬也達は姿勢を保つ事しか出来ずにいた。


 結界は既に瓦解し、大陸東部に充満していた邪気が大陸全土に溢れ出している。

 まるで津波の様に、悪意の渦が広がっていく。結界で守られていた南部や、修復し始めたばかりの北部の大地や木々は、瞬く間に朽ちていく。


 有り余る程の邪気が邪神から放たれ、冬也達を包んでいる。

 息苦しい。身動きが取れない。

 自分達をこれ程に苦しめる禍々しい瘴気は、あっという間にドラグスメリア大陸を滅ぼすだろう。最前線で瘴気を喰らい、冬也達は著しく動きを鈍らせる。


 悪意の渦は、清浄な神気に苦痛を与える。強烈な殺意は、清浄な魂を汚していく。

 あっという間に追いつめられる冬也達。歴然とした力の差に、膝をつく事を耐えているだけでも、優秀であると言わざるを得ない。


「ハハハ。まだ何もしてないよ。それで倒れられては面白くないよ。いやぁ、圧倒的だよね。この力の元は君への怒りだよ、混血のガキ!」

「舐めんじゃねぇぞ、糞野郎!」

「ハハハ。その意気だよ」


 冬也は神剣を振るう。

 上段から振り下ろされた神剣を、邪神は避けようとしない。

 切り落とす様に振るわれた神剣は、邪神の脳天へ当たった瞬間に弾け飛んだ。かつて、オリジナルの邪神ロメリアを切り裂いた冬也の神剣が、新たな邪神に傷一つ付ける事が出来なかった。


 そして、ゆっくりと繰り出される邪神の拳。殴るというよりは触る。そんな勢いの拳でも、冬也は避ける事が出来ない。

 体が締め付けられて動かない。邪神の拳が、冬也の体に緩やかに触れる。その瞬間、冬也の胴は異常な程に折れ曲がり、口から膨大な血を吐き出した。

 冬也は崩れ落ちる。続け様に、邪神から放たれた蹴りで、大きく吹き飛ばされた。

 

「動けないのは神力の差だよ。今まで君も同じ様に、僕の分体を倒して来たんだ。これはお返しさ」


 冬也は意識を失わずに立ち上がる。全身に走る痛みを堪えて、邪神を睨め付ける。邪神は口角を吊り上げて、禍々しい笑みを深めた。

 

「それだよ、それが見たかった。良いねその顔。最高だよ!」

「悪趣味だな、糞野郎!」


 血を吐きながらも、悪態をつく冬也。その冬也に、山の神が歩み寄った。


「無理をするでない」

「山さん逃げろ! ペスカとスールが近づいてるはずだ。逃げろって伝えてくれ!」

「馬鹿を言うな冬也! 今、儂が癒してやる」

「ハハハ、治療? させるとでも思うのかい? 君を殺すのは決定事項なんだよ。君の死体を、あの小娘の前に晒すんだ! あぁ、楽しいだろ?」

「てめぇ!」

「喋るな、冬也!」


 冬也が口を開けば、血が吐き出される。慌てる様に山の神は、冬也を治療する為に神気を注いだ。

 

 原初の神に匹敵する力を持つ程に、成長した冬也でさえ、太刀打ち出来ない程の相手だ。何柱の神が居れば、止められるのだろう。そもそも、ドラグスメリアに残る神々は、ほとんどが神気を奪われている。

 切り札とも思える冬也が、一瞬にして戦闘不能にされた。これが現実だ。


 絶望が山の神の脳裏に過る。

 こうしている間にも、大陸東部で封じられていた禍々しい邪気が、大陸中へ広がっていく。言葉の通り、邪神は冬也の回復をさせまいと迫る。

 恐らくこの時点での正解は、冬也の言葉通り逃げる事なのだろう。

 

 この場から逃れて、詳細をペスカに伝える。そうすれば、事態が少しは改善しよう。しかし、山の神は冬也の治療を優先した。


 膨大なダメージを肉体に負い立てない冬也は、唇を噛みしめていた。闘志は失われていない。どちらにせよ、この男は切り札なのだ。ここで見捨てる訳にはいかない。

 

 足掻く山の神、動けない冬也を嘲笑うように、笑みを浮かべて、邪神はゆっくりと歩みを進める。

 手を動かすだけで、簡単に摘み取れる。簡単に消滅させられる。そんな簡単に殺しては、面白くない。少しだけ時間を与えてやる、足掻いて見せろ。

 邪神は愉悦に浸っていた。一歩足を踏み出す毎に、奴らの死が近づく。そんな時だった。

 

「無様だな、東郷冬也。そのなりは何だ! それでも、貴様はロメリアを追いつめた男なのか?」


 声だけが響いた。

 そして気が付いた時には、すぐ近くに居た。それは、冬也が見覚えの有るエルフであった。


「我が主の命で参上した。土産だ、受け取れ!」


 エルフは、一本の剣を大地に突き刺す。すると、周囲からたちまち瘴気が薄まっていく。


「これ以上、邪気を広げる事は、我が主の名において固く禁ずる」


 エルフの言葉と共に、再び大陸の東を取り囲む様に、薄い膜の様なものが張られていく。


「いきなり現れて、邪魔するなよ。君から殺しても良いんだよ」

「今代の邪神は、貴様だな。借りは貴様に返せば良いのか」

「何なんだ! 殺すぞ!」

「貴様は、ロメリアの記憶を引き継いでいるのだろう? それなら私の事はわかるはずだ」


 怒りを露わにする邪神と、表情を変えずに静かに口を開くエルフ。

 邪神はエルフを凝視すると、再び口角を上げた。

 

「ハハ。そうか、そういう事か。その気配から察するにセリュシオネの仕業かな? 余計な真似をするね。そうすると、君はかつての被害者って所だね。確かにロメリアの記憶に薄っすらと残ってるようだ」

「ほう、薄っすらとか。あれだけの事をしでかしておいて、随分な言い方だな」

「まぁ良いや。君が現れた所で状況は変化しない。この大陸は終わりだ」


 エルフは冬也と邪神の間に割り込む様に立つと、振り向く事なく冬也に声をかけた。


「東郷冬也。貴様とは直接会話をした事がなかったな。貴様はどうせ私の事など覚えていまい。だが、私はクラウスや貴様ら兄妹によって救われた。今、その借りを返そう。私の出来る事は、ただの時間稼ぎだ。貴様の回復する時間は、私が稼いでやる」

「クロノスだったよな。クラウスさんの兄貴だろ? 何でこんな所に居やがる?」

「私は、セリュシオネ様の眷属として、新たな生を得た。私が受けた命は、瘴気の拡散防止と貴様の手助けをする事だ」


 邪神は手を払う様に振るう。そして膨大な邪気が放たれる。

 しかし、先ほど大地に突き刺した剣が威力を発揮する。放たれた邪気が大幅に弱まり、クロノスを吹き飛ばすには遠く及ばない。

 

 クロノスが手を叩くと、数本の小刀が出現する。

 小刀は邪神の周囲に突き刺さり、繋がるように光の線を引く。さながら魔法陣の様なものが、邪神の立つ場所を中心に出来上がる。

 

 そして魔法陣は、邪神の動きを停止させた。邪神は驚きに、目を見開いた。

 間違いなく、邪神の領域である。この場は、邪神に有利に働く。冬也が一撃で沈んだのが、その良い証拠だ。

 そんな事は出来るはずが無い。


「僕を封じたのか? 何故そんな事が出来た? たかが眷属神の癖に!」

「驚く事ではあるまい。確かに私の力は借り物だ。しかし、私には記憶がある。私が何と呼ばれていたか知らんのか?」

「そんな事、知るか!」

「ならば、教えてやろう。魔法研究の天才。あの小娘だけではないのだよ、魔法に長けているのは」

 

 クロノスの参入により、冬也の命は救われた。しかし、状況が改善した訳ではない。ドラグスメリア大陸の崩壊まで、少し時間が伸びただけ。

 依然として残る脅威、そしてペスカを乗せたスールが、もう直ぐ到着しようとしている。

 大陸を賭けた戦いは、未だ終わりを見せなかった。

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