第39話 邪神ロメリア

 皇帝の肉体が弾け飛ぶ際、ペスカは邪神の隙を突く様に、トールに向かって駈け出していた。突然の状況変化に圧倒され、顔を青ざめさせていたシグルドの表情は、煮えたぎる様な怒りに満ちた表情に変わり、邪神を睨みつけている。

 邪神の口から放たれた、ライン帝国の終焉と遊ぼうの言葉と、謁見室の惨状は、シグルドの憎悪を燃え上がらせるには充分であった。


 シグルドは、ライン帝国の惨状をその目で見て来た。冬也を抑えながらも、腸が煮えくり返る思いであった。同じ国を守る者として絶対に許せないのは、己が守るべき民をその手に掛ける事である。

 兵士を志す動機なら、幾らでも有るだろう。しかし、兵士として従事するのは、一つの意志により成される。それは、国と民を守る事である。それ故の戦いで有るならば、好んで先陣を切ろう。体を張り命を賭しても、使命を遂行しよう。

 だが、ライン帝国の惨状は全く異なる。意図も容易く操られ、意志のないままに戦わされる。そして、犠牲になるのは民なのだ。


 シグルドは冷静ではいられなかった。純粋で真っ直ぐな程、陥りやすい罠に掛かっていた。それは、邪神の好む感情である。だからこそ邪神は、最初の獲物をシグルドに選んだのかもしれない。


 シグルドは、邪神に向かって飛びかかった。


「駄目だシグルド! 戻れ!」


 怒りに我を忘れたシグルドに、冬也の言葉は届かない。そしてシグルドは、目に捉える事が出来ない程の速さで、邪神に斬りかかる。シグルドの剣は邪神の体を切り裂くが、直ぐに体は再生する。怒り任せ、何度もシグルドは光速の剣を振るう。しかし邪神は薄笑いを浮かべ、されるがままにシグルドの剣を受けていた。


「駄目だ! それじゃ奴には効かない! 戻れシグルド!」


 その時、冬也の頭に浮かんでいたのは、女神フィアーナの言葉であった。ロメリアは、恐怖や悪意の様な感情を食い物にする神。今のシグルドを見ればわかる。怒りに震え、我を忘れ、がむしゃらに剣を振るうだけ。どれだけ強くても、これでは戦いにならない。それどころか、邪神ロメリアを喜ばせるだけなのだ。

 冬也は、前回ペスカが戦った時の様子は見ていない。だが、何となく想像は出来た。多分、今のシグルドと同じなのだろう。だからペスカは、何度も冬也に語ったのだ。怒りに流されるなと。 


 耳に届いても、頭の中には届かないのだろう。冬也の言葉は、空しく響くだけ。そしてシグルドの剣が、邪神の体を縦に切り裂く。尚も邪神は、汚らしい笑みを崩さなかった。

 丁度その時ペスカから声がかかる。


「お兄ちゃん、トールが生きてる! まだ間に合うよ!」

「お前はトールを頼む。こっちは俺に任せろ!」


 冬也に言われ、ペスカは自分とトールの周りに結界を張る。そして、トールの延命処置に取り掛かった。ペスカが治療を始めた所を確認すると、冬也は剣を抜き邪神に向かい走り出した。


 邪神は体の半分まで割かれながら、ペスカと冬也を一瞥する。そして、剣を胴に留めたまま、肉体を再生させる。シグルドの剣は邪神の胴に埋まる。力を入れて抜こうとしても、びくともしない。焦るシグルドの姿を楽しむ様に、邪神は手刀を振り上げた。

 邪神の口は裂けるように割れ、瞳は爛々と輝く。シグルドに向かい振り下ろされる手刀。まさに斬られようとした瞬間、シグルドの体は横から体当たりされ、吹き飛ばされた。


 邪神の手刀は空を切る。忌々しいとばかりに、冬也を睨め付け、再び振りかぶる。その瞬間を冬也は見逃さなかった。

 邪神の振りかぶった手を左手で押さえた冬也は、右手で胴に埋まるシグルドの剣を抜く。そして剣をシグルドいる方角へ投げると、謁見室全体に響き渡る程の大声で叫んだ。


「目を覚ませシグルド! お前の正義を果たせ! それが出来ないなら、すっこんでろ!」

「とうや・・・。何を・・・」


 吹き飛ばされたシグルドは、呆気に取られ動けずにいた。ただ、冬也と邪神の姿を見つめていた。


「混血の分際で、僕の楽しみを奪うなよ」


 低く響き、全て凍りつかせる様な声で、邪神が忌々しそうに呟く。


「何言ってんだてめぇ! 馬鹿じゃねぇのか?」


 冬也の言葉で、邪神の表情は一変し、能面の様になる。


「僕にそんな事を言った奴は、君で二人目だよ。混血の分際で神を舐めた罰、教えてあげないとねぇ」

 

 邪神は手刀を振りかぶり、冬也に襲い掛かる。その手刀は冬也に届く事は無く、冬也は剣で受け止め弾き返す。弾き返した剣を返す様に振り下ろし、冬也は邪神に斬りかかかる。邪神は冬也の剣を避けようとするが、僅かに腕を斬りつけた。斬りつけられた腕の傷は元に戻る事は無く、邪神は僅かに表情を曇らせた。


「やっぱり邪魔だな。君から殺すよ混血」


 邪神は次に手刀を横薙ぎに振るうと、鋭い風の刃が冬也を襲う。冬也は、剣を真上から振り下ろし、風の刃を両断した。次の瞬間、邪神が光を放ち姿を消す。一瞬で冬也の後ろに回り込むと手刀を振り下ろす。冬也は振り向き様に、手刀もろとも邪神の腕を斬り払う。邪神は叫び声を上げ、後方へと逃れた。

 邪神は斬られた腕を、もう片方の手で押さえる。能面の様に、表情を消していた顔は酷く歪み、怒りに満ち溢れている。わなわなと体を震わせ、憎悪は臨界点を突破しようとしている。

 神に痛覚が有るかは、わからない。しかし、敢えて冬也は言い放った。


「おい! 痛いか? 痛いかよ? それが痛みだよ! お前はその何倍もの痛みを、人に与え続けたんだ。今更、謝って済むと思うなよ! 俺がお前を調伏してやるよ」

「貴様ぁ! よくもよくも!」


 邪神の顔が殺意に染まり、淀んだ様な黒いマナが体から漏れ出した。黒いマナは謁見室に充満し始める。ただその瞬間、黒いマナを吸い込んだシグルドが、途端に苦しみ始める。

 冬也はシグルドを見やると、黒いマナをまき散らす邪神に向かい、剣を振り下ろす。


「消え果ろ、この野郎!」


 冬也は黒いマナごと邪神を斬り払おうとした。すると、謁見室中に充満した黒いマナは消えうせ、邪神の姿もなくなっていた。

  

「シグルド無事か?」

「あぁ、すまない冬也」

   

 辺りを警戒しながら、シグルドに声を掛ける冬也。シグルドは視点の定まらない目で、冬也を見つめて答えた。

 邪神は消滅していない。それは、謁見室に満ちる濃密な殺意からも、よくわかる。少しでも気を緩めれば、狂ってしまいそうな強烈な殺意。それは、冬也に向かい放たれている。

 邪神が姿を消そうとも、謁見室に静寂は戻らない。やがて上方から、おどろおどろしい声が響く。声と共に謁見室が真っ黒く染まる。


「この腕の恨みは、命一つでは足りないぞ!」


 邪神の言葉は、一つの鍵であった。仕掛けた罠を発動させる鍵、そして冬也の後ろで倒れていたシグルドが立ち上がる。黒いマナを吸い込み、その目を真っ黒に染めたシグルドは、冬也に向かい剣を振りかぶった。

 冬也には、一瞬の油断が有った。濃密な殺気に紛れて、シグルドが剣を向けた事に気が付かなかった。戦いでは、その油断が命取りになる。邪神が高笑いをする姿が見える。冬也の頭部まで数センチまで迫った時、剣はピタリと止まった。


 邪神は、一つの誤算をしていた。

 シグルドという男の精神力。天才と呼ばれたペスカを失ったエルラフィア王国で、精神的支柱になっていたのは、まごうこと無くシグルドである。

 極限まで技を鍛えても、強くなったとは言えない。そこに必要なのは、心の強さである。厳しい鍛錬の末に鍛え上げられた精神力は、簡単に折れたりはしない。ましてや、英雄ペスカの代わりに、国を守って来たのだから。 


 シグルドの目から、黒が抜けていく。そして剣を下ろすと、言い放つ。


「私を操れると思うなよ! この剣は、国と民を守る為に振るわれる! 友を斬るためではない!」

 

 邪神の怒りが、更にヒートアップし、黒いマナが広がっていく。既に謁見室は、邪神の領域となっていた。神が遺憾なく能力を発揮できる空間。特に邪神ロメリアの場合は、あらゆる悪意を糧とする。恐怖、殺意、憎悪等の悪意が入り交じる常軌を逸した空間は、既に人が抗えるレベルを超えている。邪神の洗脳を払い除けたシグルドでさえも、辛そうに顔を顰めている。


「貴様らには、神の鉄槌を食らわせてやる。消し飛べ!」


 天井を突き抜けて、謁見室を満たす様に、黒い光の矢が降り注ぐ。冬也は剣を使い、黒い光の矢を弾き飛ばす。そしてシグルドも同様に、剣を使い懸命に黒い光の矢を弾き飛ばす。しかし、勢いは弱まらない。


 冬也は邪神との戦闘を開始してから、始めて狼狽した表情を見せた。

 降り注ぐ黒い光の矢は、謁見室全体へと広がっている。だが、冬也には苦しむシグルドを庇う余裕どころか、トールを治療中しているペスカの護衛に回る余裕すらない。

 ただ、天才と呼ばれた魔法使いは、神の浅慮な策など簡単に凌駕して見せた。

 

「おに~ちゃ~ん!」


 その叫び声と共に、ペスカは自分の周囲に張っていた結界を、謁見室全体に広げる。そして雨の様に降り注ぐ黒い光の矢を、全て払い除けた。

 だがペスカは、トールの治療を続けている。結界に全力で注げた訳ではない。黒い光の矢が止むと共に、ペスカの結界も砕け散る。

 そして、邪神はその瞬間を見過ごさない。冬也の背を越える程に大きく黒い剣が、宙に出現する。それは、冬也に向かい振り下ろされた。冬也は剣で受け止めるが、勢いは殺せず吹き飛ばされた。


 黒い剣は次々に現れる。そして、冬也に向かい振り下ろされる。冬也は全てを受け止めるが、段々と数の多さに押され始める。だが冬也の危機は、シグルドの剣により救われる。

 ポーカーフェイスを保つ事が出来ず、苦しい表情を浮かべるシグルドが、冬也の前に立ち光速の剣を振るったのだ。

  

「助かったぜ。シグルド」

「お互い様だ冬也。君のおかげで、目が覚めた。邪神の洗脳を振り払う事も出来た」


 シグルドのおかげで、一瞬の余裕が出来た冬也は、周囲を見渡す。ペスカは未だトールの治療で動けない。しかも結界を張り直す余裕は無い。冬也とシグルドは、ペスカを守る様に位置取りし、黒い剣を受け止め続けた。

 止まる事無く続く剣の嵐。二人は力の続く限り受け止める。


「冬也、このままではジリ貧だ。何か手は思いつかないか?」


 冬也の戦いを見続けていたシグルドは、冬也に光明を求めた。


「シグルド、ちょっとだけ耐えろ!」


 冬也は考える様に、一瞬目を閉じるとシグルドに答えた。そして、冬也は剣を床に突き刺し、呪文を唱え始める。


「大地母神フィアーナ。俺の母親なら力を貸してくれるよな! 悪意を粉砕しつくせ、トールハンマー!」


 冬也のマナが膨れ上がると、手には輝くウォーハンマーが現れる。冬也がウォーハンマーを振るうと、真っ黒な空間に亀裂が走り、割くような悲鳴が響き渡る。真っ黒な空間が粉々に砕けると、体中に大きな裂け目を作った邪神が倒れていた。

 神の力を借りて、神の空間を打ち破ったのだ。戦況を覆す、大きな一手となっただろう。


 しかし、冬也とシグルドは、既に息が上がっている。邪神は倒れていても、直ぐに立ち上がるはず。消滅はしていないのだ、戦いは終わっていない。気を緩める訳にはいかない。そして、ペスカから声がかかる。


「トールの治療は終わったから、交代だよシグルド」


 ペスカは、トールを守る様にと、シグルドを下がらせる。そして、邪神に向かい身構える。そして邪神は、ゆっくりと体を持ち上げた。


「ふは、フハハハハハ。フハ~ハハハハ! ここまで追い詰められたのは、天地開闢以来初めてだ。流石に僕も力を使い過ぎた。貴様らは良く戦った。だが、そろそろ消えて貰う。神には決して抗えない事を知れ!」


 邪神は、柏手をする様に手を叩き、大きな音を鳴らす。音が鳴った瞬間に、全員が頭を抱えて苦しみ始めた。

 戦い続けていた冬也は、既に限界を超えていた。そして意識を失い倒れる。一方のペスカは意識をギリギリで保ち、シグルドとトールを魔法で謁見室の外に吹き飛ばす。

 シグルドは朦朧としながらも、這う様に謁見室に戻ろうとするが、力が入らず動けない。


「ペスカ様、何を!」

「あんたは国を守りなさい。こいつは意地でも私が何とかする!」


 シグルドを逃がそうとするペスカに、邪神は目を吊り上げ睨め付ける。


「残り少ないマナで君が何を出来るんだ? ここで皆殺しにしてやるよ!」

「お断りだよ! ここで滅びろ邪神。この世界は壊させない!」


 ペスカは痛みに耐えて立ち上がり、呪文を唱える。


「貫け、神殺しの槍! ロンギヌス!」


 邪神は黒いマナを噴出させ、自身の前に障壁を作り出す。邪神の領域は既に破壊され、かなりのダメージも負っている。しかしペスカが放ったのは、先の戦いで簡単に打ち破った魔法である。今回も容易いと考えたのだろう。それは完全な誤算であった。

 ペスカが作り出した槍は、障壁を突き破り邪神の肩を貫く。邪神が大きな悲鳴を上げるが、ペスカは間髪入れずに呪文を唱える。


「刺し貫け、ロンギヌス! 邪悪を滅殺せよ」


 邪神に向かい魔法の槍が飛ぶ。それを食らえば、流石の邪神でも消滅の危機に陥る。邪神は有らん限りの力で、ペスカの魔法に対抗した。


「あぁぁぁぁ~! 向こうに送ってやるよ~!」


 邪神は、ペスカが作り出した槍を、避けようとせずに手を叩く。すると邪神の眼前で空間が歪み、ゲートが出現した。そのゲートに、魔法の槍が吸い込まれる。

 ペスカは力を振り絞り魔法を放つが、全てゲートに吸い込まれる。やがてゲートは、ペスカの魔法だけで無く、倒れた冬也も吸い込んだ。


「おに~ちゃん!」


 ペスカが冬也に気を取られた瞬間であった。邪神の放った黒い光の矢が、ペスカの肩を貫いた。邪神の矢は、ペスカのマナと生命力を奪い取って行く。トールの延命、結界の拡大、大魔法の連続行使、ペスカのマナは枯渇寸前であり、限界を超えて戦いを続けていた。

 ペスカはマナと生命力を奪われると、力尽きて倒れゲートに吸い込まれた。


「流石にここまでやったら、神連中に目を付けられたろうな。そうだ! 貴様らの世界は楽しそうだし、傷を癒すついでに向こうで遊んでやろう!」


 ペスカと冬也がゲートに吸い込まれた後、邪神は独り言ちゲートを潜る。邪神がゲートを通ると手を翳し、ゲートを完全に閉じた。

 謁見室には、戦闘で遺体確認が出来ない程に砕けた死体だけ残された。この戦いで生き残ったのは、謁見室から放り出されたシグルドとトールだけだった。

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