6月4日

 Kが不登校を決め込んだ週からちょうど一年後――つまり、今年の修学旅行が終わった日。クラスの解散後も俺はやはり自宅には帰らず、Kと一緒に「帰宅」することにした。


「おかえりなさい」


 玄関口でMが出迎えてくれて、俺たちは目を丸くする。土曜日の午前中、本来彼女は学校にいるはずだったからだ。


「Mさん、学校は?」

「へ? あー……体調が悪かったから、休んだんだ」

「なんだ、去年の俺と同じだな」


 Kが呑気なことをほざき、Mが「そうだね」と微笑む。体調不良とは思えない、リラックスした表情。俺は違和感を覚えたものの、即座に指摘する気にはなれなかった。


「旅行、楽しかった?」

「最悪だよ。こいつと相部屋になったんだけどさ、一回トイレでうんこ流し忘れやがったの」

「生々しい嘘をつくな」

「あははっ」


 久々に聞いたMの笑い声が、心なしか普段より明るく聞こえてしまう。見たところ、彼女は自分の仮病を隠そうとしていないみたいだった。Mらしからぬ大胆な振る舞いに、俺は内心でうろたえている。何も言うことができないまま、彼女に促されて荷物を仮の自室に運ぶ。


 スーツケースを地面に横たえて一息つきながら、俺はなんとなく初めてこの家を訪れた時のことを思い出していた。あの時もMが色々と案内してくれたけれど、その態度は今よりずっと余所余所しかった。それと比べれば、今は随分と打ち解けたものだ。近くのベッドに腰を預け、俺は一息つく。旅行から帰ってきた時特有の安心感を、自分の家ではない場所で感じていた。


「お疲れ様。それと、Kのお守り、ありがとね」

 開けっ放しのドアから覗いたMが、労いの言葉をかけてくれる。

「お守りって、別に何もしてないですけど」

「……ふふ」

「どうかしました?」

「去年のLも、私が帰ってきたときに全く同じこと言ってたよ。『別に私は別に何もしてないです』って」


「……へえ」


 Lの話を持ち出され、俺はまた複雑な気分になる。去年の一件は、Mの「欠席」とも無関係ではないだろうに、適当な相槌を打つことしかできなかった。


「二人がいない間、一度君のお母さんから電話がかかってきたんだ」

「もしかして、家に帰ってこいって話ですか? 直接俺に言えばいいのに」


 俺はため息をつく。家を出た頃はよく電話がかかってきて、「いい加減帰ってこい」と度々催促されたものだ。けれど、あれから二ヶ月が過ぎた。両親との連絡の頻度は日に日に減っている。もちろん、電話なんかかかってこない方が俺としてはありがたいのだけれど、遠回しにMに連絡するようでは本末転倒だと思う。


しかし、Mの返答は予想外のものだった。彼女は首を振ってから、


「ううん、違うよ。キミのことじゃなくて……Lのノートの話」

「なんだって?」


 そう驚きの声をあげたのは、俺ではなくKだった。隣の部屋から出てきたKは、どうやら俺たちの会話もちゃっかり聞いていたらしい。そのことをとやかく言う余裕もなく、俺はMに質問する。


「どうしてあの人が、ノートのことを知ってるんですか」

「知ってるっていうか、何か勘付いちゃったみたい。Lはその、入院する直前にずっと鉛筆を握っていたんだって。それがなんだか気がかりだったらしいんだ……同じ鉛筆で、何か書いてたんじゃないかって言われたの」


 正確には「鉛筆を握っていた」のではなく「鉛筆で手首を刺した」のだが、そのことをいちいち説明しようとは思わない。俺はため息をついた。親という生き物は、どうしてこうも嫌な勘が働くのだろう。大抵の場合、この手の直感が子どもの役に立つことがない。ノートの存在に気づいたところで、俺たちの「事情」をいたずらに引っ掻き回すだけなのだ。


「鋭いな。さすがLの母親って感じだ」Kは顎をつまむ。「それで、姉貴はなんて答えたわけ?」

「『知りません』って。ノートのことがバレたら、まずLがどう反応するか分からないし」

「賢明だ」


「お母さんはすぐに『そうですか』って引き下がったんだけど……たぶん、あの感じだと納得はしてないと思う」

「じゃあ、また嗅ぎ回ってきそうなのか?」

「……言い方は悪いけど、そういうこと。それでね」


 言葉の途中で、Mは俺の部屋の中に入ってくる。ベッドの隅に座った俺の、その左隣に腰掛ける。一瞬ベッドが柔らかく振動して、胸が無意識に高鳴った。そんな俺を現実に引き戻すように、Kも室内に侵入してくる。


 デスク前の椅子を勝手にガラガラと引いて、KはMの目の前を偉そうに陣取る。そして言葉を促すように、床を見つめる姉の顔を覗き込んだ。


 先ほどまでよりずっと小さな声で、Mが呟くように言う。


「絶対に見つからないように、昨晩ノートを処分したんだ」

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