5月21日

 日が昇っている間、Mは自室で勉強している。けれど夜が更けてくると、勉強道具一式を持って一階に移動してくる。一杯のホットミルクを片手に、寝る寸前まで食卓で勉強するというのが彼女の日課だった。


 Lの侵入事件以降、俺は定期的に深夜の一階を確認しにいくようになっている。次にLが来た時は、自分で対処すべきだと思っていたからだ。Mの邪魔にならないように気を使ってはいるのだが、なにもせずにリビングに居座っているのは正直気まずい。ここ最近はテスト期間中でもあったから、開き直ってMと一緒に勉強することにしていた。


 彼女の生真面目が感染うつったのか、ここ最近、俺の成績は頗るいい。


 その日は土曜日で、ちょうど一学期の中間テストが終わった日でもあった。零時に一階の電気がついているのを発見した俺は、今日くらい休めばいいのに、と小声でつぶやきながら階段を降りる。廊下を渡ってドアをあけた途端、食卓のMがこちらの気配に気づいた。


 俺を見つけたMは一瞬、驚いたような表情をする。けれど、すぐに取り繕うような笑みを浮かべて、


「今日も勉強するの? 真面目だね」

「こっちの台詞ですよ。テスト終わったばかりなのに」

「あ、私は……今日はね、ちょっと違うんだ」

「でもノートを開いて」


 Mの正面にあるいつもの席に座ろうとした俺は、彼女が開いていた『ノート』を見て硬直した。白い紙の上を埋め尽くす、ひどく神経質そうな筆跡。Mがぱたんとノートを閉じると、ピンク色の表紙には赤い斑点が細かく散っている。


「Kが貸してくれたの」

「……やめた方がいいですよ。こんな夜遅くに、精神衛生上良くない」

「分かってるけど」Mが頭を振った。「でも、一度くらい目を通しておいた方がいいんじゃないかって」

「Kがそう言ったんですか」

「ううん、自分でそう思っただけ」


 何か飲む? と言いながらMが椅子から腰を浮かせる。「自分でやりますよ」と俺は止めたが、「いいからいいから、座ってて」


 3分後、俺はMにマグカップを手渡される。手元にホットミルクの熱を感じて、ほとんど強制的な安心を俺は感じてしまう。


「……ありがとうございます」

「この間のLもね、最初は結構騒いでたんだけど、これを手渡したらすぐに落ち着いたんだ」

「ほっとしたんですね」

「何それ、面白くない」


 温かい笑顔のまま、Mが辛辣なことを言ってよこす。席に戻る彼女の姿を見つめながら、俺はホットミルクを一口飲んだ。牛乳の熱が、食道から下へと下っていく感触。


「ねえ、Kが一週間学校を休んだ時のことって、覚えてる?」


 ふいにMが、過去の話を持ち出してきた。俺は頷いて、


「ああ、ちょうど去年の今頃でしたね」

「そう。うちの学校って、修学旅行が五月末とかでしょ? 私が準備でバタバタしてたちょうどその頃、Kが一週間学校を休むって言い出してさ」


「あいつ、ずっとゲームで遊んでただけだって言ってましたよ。ひどいサボりですよね」

「うん……お父さんをどう言って説き伏せたのか知らないけど、一週間きっかり休みを取り付けてて、あの時は正直困っちゃったんだよね」

「大変ですね」


 俺は頷いた。高校入学以降に知り合ったKの異常性に気づいたのも、ちょうどあの頃だったと思う。しばらく学校をサボった後、Kは何事もなかったかのように登校してくると、「久しぶりだな、クソ野郎」となぜか俺を罵った。突然の暴言に、教室が意味もなく静まり返ってしまったことを今でも覚えている。


 Kは元からクラスの中で浮いた存在ではあったものの、その暴言では俺までとばっちりをくらい、なぜか周囲からよそよそしい態度を取られるようになっていった。友達選びを間違えた、と気づいた頃にはもう、色んなものが手遅れになっていて、Kと俺は硬い腐れ縁で結ばれるようになった。


「私が修学旅行で開けてる時期に、家にずっといるっていうのが不安だったの。Kはその、中学生の頃も不登校気味だったから」

「そうらしいですね」


「だから、お目付け役じゃないけど、定期的にKの様子を見に言って欲しいって、その時は友達にお願いしてたんだ」

「友達?」

「L」

「ええっ」


 想定外の名前が飛び出してきて、俺は目を丸くする。MとLが知り合いなのは知っていたが、Kとの関わりもあったなんて。


「やっぱり知らなかったんだ」Mはノートに視線を落として、「まあ、二人とも言わなそうだしね」


「まったく聞いてないです。じゃあ、Lもこの家へ?」

「そう。一週間毎日来てくれてたらしいよ。家事とかまでやってくれちゃったみたいでさ……なんだか申し訳なかったな」

「あの二人、結構相性悪そうなイメージあるんですけど、仲良くやれたんですか」

「それが、ちゃっかり意気投合してたみたい」

「……意外」


 KとLが仲良くしゃべっている姿を想像しようとして、全くイメージが掴めないことに気づく。Kがべらべらと喋っている様は分かるのだが、Lがそこにどのような反応をするのか見当もつかなかったのだ。ここ一年ほど、Lが家に帰らずに何をしていたか俺は知らない。この家で過ごした一週間のことも、もちろん聞かされてはいなかった。


 Mが人差し指でLのノートを撫でる。血の斑点から斑点へ、線で繋ぐように白い指が表紙の上を滑っていく。


「旅行が終わって、私が家に帰って来たときもね、二人は熱心に議論してたみたいなんだ」 

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