4月18日

 隣の教室のドアが、乱暴にガラガラと開け放たれる音がする。同時に、『うわっ』と何かに驚く声――俺自身は一度だけしか聞いたことのない、「あの男の子」の声だった。


 ちらりと背後を振り返ると、Mが起きる様子はない。無性に嫌な予感がして、俺はドアの手前まで歩いていく。声は少し遠いが、何を喋っているかはそこからでも十分に聞こえてきた。


『ひさしぶりぃ』

『全然教室に来てくれないからさ、俺らも寂しかったんだぞ?』


 げらげらと二人だけの笑い声が響き、言われた男子生徒は一切答えない。予感が的中して、俺は思わず息を呑む。


 うわ、こいつスマホ弄ってんじゃん。

 校則違反だわー。センセーに報告しとくか。


 ……もう、放課後だから。


 モ、モウホウカゴダカラー!

 アハハ! 『語録』がまた増えちゃったな!


 ……返せよ。


 パスコードは?


 ……なんで。


「なんで」じゃないでしょー。

 お前さ、もしかして俺らがジユーイシ自由意志でここに来てあげたとか思ってるわけ? 

 気持ち悪っ。

 お前の担任のSセンセーにな、「もう帰っていいよー」って報告に行けってお願いされたんだよ。

 Sもなんで俺らに頼んだんだろうなー。

 そこはお察しくださいって感じじゃね? あのオッサンもこいつのこと嫌いそうだし。

 不登校とかめんどくせえもんな。

 マジでさ、なんでお前授業出ないわけ? 進学する気あんの?


 ……返せ。


 え、なに力尽く? できると思うの。 

 やめとけよ、豚が力んだり汗ばんだりしても気持ちわりぃだけだから。

 俺らもボランティアじゃないんだよねぇ。

 報告と引き換えに、スマホのパスコードをいただくって契約になってるわけ。

 そそ、契約。

 さっさと教えてくれないかなー。

 …………。

 早く言えよ。


 がたん、と机か椅子に蹴りを入れたらしき音が響く。五秒後、俺は知りたくもない赤の他人パスコードを本人の口から教わってしまう。


 うわー、マジで言っちゃうんだ。

 おい見ろよ、こいつLINEの連絡先に5人しか登録してないぞ!

 え、君クラスのグループにも入ってないの? 最近転入して来たのかなー?

 幽霊なんじゃね?

 まーじか、除霊しなきゃじゃん。

 本当に幽霊かどうか、お母さんに連絡して確かめてみ――。


 隣部屋の話にすっかり聞き入っていた俺は、Mに肩を叩かれていることにしばらく気がつかなかった。振り返ると、彼女は無表情で二人分の学生鞄を両脇に抱えている。


「出よう」


 俺は自分の鞄を彼女から受け取って、すぐそばのドアを右に引いた。二人で教室を抜け出して、Mは素早く両側の扉に鍵をかける。


 早足で廊下を抜けていく彼女は、背後で行われている「通話」の内容に全く興味を示さない。俺は急ぎ足でその後を追いながら、時折背後を振り返っていた。校舎の裏側にある余裕教室は、下駄箱まで若干の距離がある。廊下を渡ったり、階段を降りたりする最中、俺たちは一言も言葉を交わさなかった。


 下駄箱にたどり着き、俺たちは一度二手に分かれる。靴を履き替えて再集合した後も、Mは無言で俯いている。


「あの」


 俺は何か言おうと口だけを動かすも、案の定かける言葉を思いつかない。今しがた起こった出来事について、Mが何を思っているのか推察するのは難しかった。一応は帰るつもりらしいが、家までずっとこの調子で続けるわけにもいかないだろう。


「あの、Mさん」


 ただ名前を呼ぶ、という子供じみた真似以外にできることを思いつかない。俺が何度か呼びかけた後で、Mがゆっくりと顔を上げる。


 先ほどまでの無表情と違う、何かを取り繕うような笑みを浮かべながら彼女は言った。


「ごめんなさい」

「どうして謝るんですか?」

「だって……なんていうか、聞くに耐えない会話だったでしょ? 君も嫌な話聞いちゃったでしょ? それであの……ごめんね、って」

「……は?」

 

 噛み合わない俺たちの会話。Mの言葉の要領がさっぱり掴めず、俺の口角はつい「へ?」ではなく「は?」の形に開いてしまう。


「……ごめんなさい」


 だめ押しでもするように、Mはもう一度謝罪する。

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