4月18日

 放課後、珍しくKが余裕教室にいなかった。いつも通りに部屋を覗くと、窓際の席でMが一人で勉強しているのが見えて、俺は一瞬教室に入るのを躊躇う。とはいえ、「家」に帰ってもすることは何もない。一応明日は模試だったが、受験生でもない限り対策なんてしないだろう。


 Mがあくびをしたタイミングで俺は教室のドアを引き、一歩踏み込むと同時に「あいつどこ行ったんですか」と彼女に訊ねた。


「あ……来てないね。一緒じゃなかったの?」

「授業が終わった途端鞄掴んで出てったから、てっきりここにいるのかと思ったんですけど」

「そっか。私もてっきり来るんだと思って、先に教室取っちゃったんだよね」


 Mは机の端に置かれた教室の鍵に視線を向ける。また床に落としそうな位置だな、と俺はなんとなく考えてしまった。


「うるさいから出禁になったとか?」

「そういう注意はされてないよ。この辺の教室、使ってるの私たちと『あの男の子』くらいだし」


 余裕教室を借りるのは一応「簡単」ということになっているが、鍵を職員室まで受け取りに行かなければならないという微妙なハードルの高さがある。物好きな生徒と訳ありな生徒以外、毎日使おうなんて発想には至らない。Mの云う「あの男の子」というのはどちらかといえば訳ありの方らしく、休み時間や授業を問わず一日中余裕教室にいる男子生徒のことだった。


「彼、今日もいるんですかね」

 

 声のボリュームを落としながらMに聞くと、彼女も無言で頷いた。近年各地の高校に余裕教室ができ始めたのは、そもそも不登校児童への対策だ。彼の事情はなんとなく察せてしまうせいで、それ以上は言及しにくい。


 俺は話題を切り変える。「Kがいないなら、ど真ん中の席で勉強してもいいんじゃないですか」

「なんかさ、この位置が落ち着くんだよね」

「でも窓際って眠くなりません?」

「そうなんだよねぇ」


 苦笑いする手前、彼女は実際眠そうだ。Kがいるときはうるさくて勉強にならないんじゃないかと思っていたが、いなければいないで静かすぎるらしい。


「ちょっと休んだらどうですか」

「もしかして、私そんなに眠そうに見える?」

「だいぶ」

「そっか……でも大丈夫」


 今日が模試の前日だから、彼女としても勉強しておきたいのだろう。ただ、今の彼女は放っておいても寝落ちしそうな表情だった。俺はスマホを取り出して、

「無理は禁物ですよ。なんなら20分後くらいに起こしますけど」

「あ、そんな気にしないで……自分でタイマーかけるから」


 俺の提案は断りつつ、結局彼女も眠ることにしたらしい。

 しばらくスマホを弄っていたMは、のろのろとテキストを机の中にしまい込むと、そのまま机に打っ伏した。案の定教室の鍵が右腕にぶつかり、地面に落ちても彼女は気づく様子がない。


「ありがとう」


 両腕で頭を塞いでいたせいで、Mの声はくぐもって聞こえる。お節介が過ぎたと思い、俺も若干恥ずかしくなっていた所だったので、その言葉には必要以上にほっとさせれる。静かな教室の中で、二分も待たずに彼女の寝息が聞こえ始めた。俺は音を立てないようにして彼女の席に近寄り、地面に落ちた鍵を拾う。


 Mの隣の席にそっと鍵を置いて、離れようとしたその時だった。


 教室の向こうの廊下から、ばらばらと歩く数人の足音が聞こえてくる。


『この辺りだったかなー』


 男の声と同時に、ドアに備え付けられた小窓から知らない男子生徒がこちらを覗いてくる。眉をひそめながら俺が覗き返すと、


『ああ、こっちじゃねえや。失礼失礼』

『おい佐藤、隣の教室だよ』

『あ? おー、いたいた』

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