4月12日
そう語った後の奇行から察するに、「ミサ」に出会えなかった場合Lは自殺するつもりらしい。ようするに、彼女が生き延びる手段は自分の妄想を自覚する以外になく、俺たちにしてやれることは皆無だということだ。俺がノートに手をつけないのは、「無駄だから」という一言に尽きる。
それなのに、ノートを読んで俺以上に現状を認識しているはずのKは、なぜだか楽しげに余裕教室を散歩していた。
「もちろん、やばいのはノートに何が書かれているかじゃなくて、あのLがこれを書いたってことだ。俺が同じものを書いたところで、いつもの発作だと笑いながら捨てられただろう」
「私は心配するよ」
「ありがとう……だが、Lはこの中の誰よりも聡明な奴だった。その証拠に、双子の兄は彼女よりも偏差値の低い高校に通っている」
「お前もだぞ」
「そんなLが狂った時、お前はビビって、こう考えた。『これは裏に何かあるぞ』と。物事には必ず理由がある。なんの前触れもなくLみたいに風になっちまうなら、俺たちだっていつ発狂するか分からないからな」
「さすがに飛躍しすぎだ。俺たちがあんな風になるわけ――」
「試してみるか?」
狭い室内を徘徊した末に、Kは黒板の前で立ち止まった。気障ったらしくこちらを振り返り、右手にはいつの間にか白いチョークが握られている。
「お前がLのようなイカレポンチにならずに済むか、今からテストしてやるよ」
1、3、5。Kは黒板に三つの数字を書く。
「問題。この数字はある単純な法則に従って並んでいる。そのルールに従い、5の後に来る最小の整数は何?」
「7だろ」ひっかけだろうな、と感じつつも俺は即答した。
「ううん、Kがそんな単純な問題出すはずがない」同じくKの性格を知っているMが、単語帳を脇に置いて真剣に応えようとする。
「二人とも不正解!」嬉しそうな顔でKが笑った。「正解は6だよ」
「待てよ、Mさんはまだ答えてないぞ」
「いーや、姉貴はすでにドツボに嵌ってるね」
そう言われたMは、きょとんとした表情で「どういうこと?」とたずねる。Kはチョークを黒板消しに持ち替えながら、
「姉貴今言ったよな、『Kがそんな単純な問題出すはずがない』って。これが大きな間違いだ。答えはもっと単純なんだよ。これはただ『昇順』なだけの数字の羅列だ」
「昇順……?」
「順番に大きくなっていれば、なんでもいいってこと?」
「そう。6でも7でも8でも、5より大きな数字ならなんだって良かったんだ」
Kは俺たちに背を向けて、黒板をゴシゴシと擦り始める。なんだか適当なことを言われている気がして、俺は思わず反論していた。
「そんなのありかよ。だって、その前には奇数が」
「1、3、5はちゃんと昇順の並びだろ。何が問題なんだ?」
「問題って……いや、少なくともお前ひっかける気だったろ」
「もちろん。これは奇数と偶数の違いがわかる、お前みたいなインテリ御用達の引っ掛け問題だ」
すごい、よく気がついたな。黒板の数字を消し終えたKは、ぱちぱちと心ない拍手をする。俺はKを睨みつけ、Mは生真面目に顎をつまむ。
「それで、Kは何が言いたいの?」
「そのまんま、人間は物事を可能なかぎり限定したがるってことさ。シンプルな法則で並んでいた数字が、『たまたま』より限定的な規則性、つまり奇数で並んでいるように見えたとき、人は『昇順』という単純なルールを忘れてしまうんだ」
「…………」
「納得いかないって顔だな。そりゃそうだ。普通は限定された規則性の方がもっともらしく感じられるから、答えを聞いた後も妙に腑に落ちない。で、だからこそこれが、一番の落とし穴になるワケだ」
「落とし穴?」
Mが律儀に相槌を打つせいで、Kがどんどん図に乗っていくのが分かる。この男の異様な多弁ぶりは、優しい姉との涙ぐましいコミュニケーションの末に育まれていったものらしい。Mは決してKを無下にせず、真剣な表情でその話に耳を傾けている。真剣すぎて、単語帳が床に落ちたことにも気付いていない。
「当たり前だが、こういう『たまたま』は現実でいくらでも起こり得る。なのに、偶然の中に必然っぽい何かを見つけてしまった人間は、『これが偶然のはずがない。偶然にしてはできすぎている』と思い込んでしまうんだ」
「それが今の私たちってわけ……」
「その通り」Kが頷く。「そして、この手の『ひっかけ』に弱いのは、人より細かいルールを見つけられる人間――つまり、基本的には『頭がいいやつ』ってことになる。ありもしない問題を発見して、勝手に解決しようとする奴ら……俺は『周回バカ』と呼んでるんだが、賢い人間ほど変ななカルトに嵌まりやすかったりするだろ? あれはこういうからくりがあるからなんだよ」
「じゃあ、KはLもその周回バカだって言いたいの?」
「ああ。知的であるからこそ現実にありもしない法則を見出したLは、それを本気で信じてしまった。そしてノート一冊分の理論武装を終えた彼女は、それ以外の文脈で世界を解釈できなくなってしまったのさ」
ここまですらすらと語り終えたKは、教壇に肘をつくと満足げに目を細めた。どうだ、面白いだろ、と言わんばかりのその表情に、俺は呆れた視線で返す。室内が静かになった途端、グラウンドで何やら楽しそうに騒いでいる生徒の声が耳に入るようになってきて、それが少しだけシュールだった。
俺と同じことを思ったのか、Kがわざとらしいため息をつく。
「うるせえな、あいつら」
「お前ほどじゃない」
「もう一度ノートを貸してくれたら、俺は黙るぞ」
両手を広げるKに向かって、俺は何か反論しようと口を開く。けれど、声を上げることはしなかった。「ああ言えばこう言う」の典型であるKを黙らせる言葉なんて、俺には思いつかない。
それに、Kにノートを渡すのも計画の内だ。
一度は返してもらったノートを、真正面のKに向けて放る。両手でキャッチしたKは満足げに笑い、Mが困った顔を見せた。
「いいの?」
「別に、無くなるわけじゃないですし」
「そうそう、姉貴は心配しすぎなんだよ」
Kはそう言うと、再びノートをぱらぱらとめくる。渡せば黙る、と言ったくせに、今度は声に出して解説し始める。
「えーっと、どこまで読んだっけな……たしか、Lが
「痛々しいな、ほんと」
「そう言うなって。このノートの中には、お前や姉貴も登場するんだぞ」
「私たちが?」
「もちろん、Lは現実の予言としてこれを書いているんだからな。まあ、みんなそれぞれエキセントリックな設定が追加されてるが……今の所、母親の『ミサ』以外の登場人物は全部俺の知ってる人間だ」
あの子友達少なかったのか、と首をかしげるKに、Mが「そうかも」と頷いた。俺の方は、残念ながらLの交友関係に全く詳しくない。
高校に入学してからの一年間、俺はLが何をしていたのかほとんど感知していない。部活をしているわけでもないのに、放課後は家に直帰するわけでもなく、夜まで外にいることが多かった。帰りが遅いLはよく母親に叱られていて、けれど、どこに行ってたか問い詰められても絶対に答えようとしない。
俺はそんなLを横目で認識していたものの、特に気にかけたりはしなかった。KやMとは違い、もともと俺とLはそこまで仲の良い兄妹ではない。必要最低限の会話しかしなかったし、それが当たり前だと思っていた。
もちろん、今になって「無関心がいけなかった」などと偽善じみた自己嫌悪を抱いたりはしていない。俺が感じているのは、ただ双子の妹が抱えていた問題について何も知らないという、言いようのない不気味さだった。
K曰く、Lはこの世にありもしない法則を見出した『周回バカ』らしい。
そこに至るまでに一体、彼女は何をしていたのだろう。
考えてみてもさっぱり見当がつかず、俺は椅子から立ち上がる。窓際の席まで歩き、Mの足元に落ちた単語帳を拾い上げ、軽く汚れを払ってから彼女に手渡した。
「落としてますよ」
「へ? ああ……ありがとう」
両手で本を受け取ったMが、薄い笑みを浮かべて感謝を口にする。俺はMの左側の机に座って、「推薦、どうなってますか」と自分でも意味のわからない質問をした。
「とりあえず、今日の放課後に面談があるけど、あとは……どうなんだろ」
Mは両腕を組んだかと思うと、その左目をぎゅっと閉じた。ウィンクがしたい訳ではなくて、片目を閉じたままじっとするのが彼女の独特な癖なのだ。物思いにふける時に頻発するらしく、勉強をしている時のMは、十分に一度くらいのペースで必ず左目を閉じている。
俺が彼女の癖に気づいたのは割と最近のことだったが、初めて見たときは素直に可愛いなと思ったりした。
「Mさんなら大丈夫ですよ」気休めにしかならないと分かりつつも、俺は言う。
「そうかな」
「Kと会話が成立するんだから、面談も面接も簡単でしょ」
K本人の目の前で、俺達は笑い合った。といっても、当人はノートを熟読しているらしく、こちらの会話など気にも留めていない。校庭の馬鹿騒ぎもなぜかすっかり止んでいて、教室にはようやくまともな静寂が訪れていた。
ちらりと右傍のMを見ると、俺から受け取った単語帳を鞄にしまいこんでいる。どうやら彼女も、昼休み中の勉強は諦めたらしい。こちらに背を向けるようにして鞄をごそごそとやるMの、その長い黒髪を俺は見つめる。
Mと会話するのは好きだった。少なくとも、Kの「講義」を聞くよりは。
Kは去年から幾度となくこの教室を使っていて、その度に人が困惑するような話を喋り散らしている。この男は自分の知識をひけらかすのがよほど好きらしく、トロッコ問題がなんだとか、ミルグラム実験がどうのこうのとか、いつも一方的に何かをまくし立てている印象があった。放っておいてもKが黙らないことを知っているから、普段の俺は今日ほど真面目にこいつの話を聞いていない。いつもMの隣に座って、適当に会話をしたりしながらのらりくらりと時間を潰していた。
無意味に浪費されている休み時間や放課後。こうした日常を別に嫌ってなどいなかったし、高校にいる限りずっと続くのだと思っていた。
それなのに。
「どうかした?」
鞄のチャックを閉めたMが、俺の視線に気づいて首をかしげる。
「いや、なんでもないです」
「……そう?」
一瞬さらに怪訝そうな顔をしたMだったが、最終的にはまあいっか、という表情で正面のKに視線を写す。Kは相変わらず、Lのノートを(珍しく無言で)凝視している。
あの一件のせいで、この関係性に変化が生じてしまうのが嫌だった。
四月一日を経て以降、俺は今みたいな日常的感覚が奪われてしまったような気がしている。Kがどうだかは知らないが、俺とMの間にはやはりLの一件が重くのしかかっていて、現状は話題に挙げるのも避けていたくらいだった。
俺がノートを持ち歩いていた理由は二つある。一つ目はKの言う通り、ノートに関する違和感が拭えなかったため。そしてもう一つは、他でもないK自身をひっかけるためだ。元々Lの事件に興味津々だったKが、あのノートに関心を持たないはずがない。「集中したい」などと言い出して、Mに余裕教室をせがむまでの流れは容易に想像できる。
そうして校舎に3人で集まれば、形だけいつも通りの昼休みの出来上がりだ。
俺が欲していたのは、最近忘れがちな「いつものアレ」の反復だった。
何月何日に何があったとか、具体的に記憶するのもアホらしいような「日常」の羅列。起伏もなく続いていく毎日。ただ一緒にいられればいいのではなく、この教室の中でいつも通りの一日を過ごすということが、俺にとって非常に重要な意味を持つのだ。そして、この「状況」を取り戻す上でLのノートには利用価値があった。
あのノートを道具として活用するなんて、俺は酷いことをしているのだと思う。もちろん、別に妹が「どうでもいい」などと思っているわけじゃない。十七年一緒に暮らし、あんな姿を見せつけられた上で妹を無下にするなんて、そんなことできるはずがない。
それでも俺は、ひと時だけ忘れてみたかったのだ。何事もない平穏な時間を過ごしたくて――。
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