10月15日
明るい夜の喫茶店。
その日初めて会った一人の女性と、俺は向かい合って座っている。
「私ね、知らない人の身の上話を聞くのが好きなんだ」
開口一番、彼女はどうでもいい趣味を暴露した。俺は彼女に大して興味がなかったので、「へえ、そうなんですか」と相槌以下の返事をする。
「名前も知らないまま、互いを特定できない範囲で、色んな人の話を聞いて回ってるの。君と同じ高校の子にも聞いたことがあるんだよ」
俺のブレザーにちらりと目をやりながら、女は笑った。大人っぽい顔立ちに似つかわしくない、子供じみた表情。こちらの年齢は一瞬で割れてしまったらしいものの、俺の方は彼女の歳をまったく把握できていなかった。いや、自分より年上だというのは分かるのだけれど。
異性のファッションに疎い俺からすれば、彼女の服装は「なんだか色素が薄い服」くらいしか言い方を思いつかなかないのだが、それでもなんとなく年上らしい印象は受けた。とはいえ、それが「少し年上」なのか「かなり年上」なのかは分からない。
詮索しても無駄だと思い、俺は机に頬杖をつく。
「良かったら、君の話も聞かせてもらえないかな。話す方も、一回吐き出すとスッキリできるらしいよ」
名乗る気がないらしい彼女のことを、俺は勝手に「Ⅰ(いち)」と名付ける。Ⅰにこう尋ねられた時、以前の自分ならどうしただろう、と考えた。こんな提案をされたら、「俺」はきっと断っていたはずだ。気味が悪いし、面倒臭い。初対面の人間に過剰な自己開示を図るほど、かつての俺は間抜けではなかった。
けれど、そもそも一年前の自分なら、Ⅰと喫茶店になんて入らなかった。
俺は彼女のことを何も知らない。なんとなくⅠと出会って、なんとなく誘われ、そしてなんとなくこの場にいる。加えて、そんな自分の「投げやり」さすら、他人事のように感じていた。
俺は今日、全てが手遅れになったような心地がしていた。何もする気が起きなくて、だから、却って何かを拒む気にもなれなかったのだ。
「聞きたいですか、俺の話」
「うん、すごく」
「今日、中間テストが終わったんですよ」
「どうだった?」
「散々。でも、テスト自体はどうだっていい」
俺は首を振って、足元のスーツケースに目をやった。「午前中で学校が終わるから、すぐに家に戻って、荷造りをしなきゃいけなかった。あ、家っていうのは自分の家じゃなくて、しばらく友達の家に泊まっていたんですけど」
「泊まるって、テスト期間中に?」
「ほとんど居候みたいな感じで、もう半年くらい住ませてもらってました」
「……それはすごいね。家で何かあったの?」
「まあ、色々。かなりの間、実家には帰ってなかったんですけど、居候先の先輩が、もともと大学に推薦で入ろうとしてた人で」
「うん」
「今が一番忙しい時期だから……さすがに迷惑だし、一旦戻ることになったんです」
「なるほど。それで大荷物だったんだ」
合点がいった、という感じでⅠが頷く。手元のコーヒーを一口すすりながら、俺はスーツケースのずっしりした重みを想起した。会話がひと段落したら、俺はこれを引いて電車を乗り継ぎ、家までの短くない距離を移動しなければならない。
帰るべき場所があるということが、一体どうしてここまで不愉快なのだろう。
「三時ごろには荷造りも終わってたから、本当ならもう、家に着いてるはずなんですけどね」
「やっぱ、まだ帰りたくない?」
「はい」
「いったい家で何があったの」
普通の人ならもう少し躊躇しそうな問いを、Ⅰはずばりと切り込んでくる。だてに人の「身の上話」とやらを聞きまくっていないのだろう。俺はもう一度コーヒーに口をつける。熱いエスプレッソとミルク、そしてチョコレートの入り混じったカフェモカが、喉から腹へと降っていく。
「双子の妹がいるんです。俺が家に帰れなくなったのは、全部あいつが原因。名前は――」
「待って。本名は無しね。適当な仮名を付けるか、イニシャルにしといて」
「……そうですか。じゃあ、Lで」
「了解。Lちゃんね」Ⅰは笑った。「でも珍しい。Rじゃないんだ」
俺自身も言ってから気づいた。日本語の「らりるれろ」の文字は、普通ならRで言い表すものだって。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます