カフェモカと真善美
孤体
4月1日
真っ暗な自室の中で、妹は鉛筆を削り続けている。
その左手にすっぽりと収まる程度の、小ぶりな鉛筆削りで。
もちろん電動ではなく、彼女は手回しで鉛筆を削っている。
削りかすが溢れ、床に散らばり始めても妹は気にするそぶりを見せなかった。
幼稚園に入りたての頃、俺はその鉛筆削りに小指を突っ込んだことがある。まだ文字を書いたこともなく、「鉛筆」がなんなのかさえ知らなかった時の話だ。母親の化粧品入れの中から鉛筆削りを取り出した俺は、得体のしれない装置の中に円錐状の穴を見つけた。何かを突っ込むための穴であることは、直感的にわかったらしい。
自分の小指がぴったりと嵌る気がして、俺はなにげなく装置に指を突っ込む。
くるり。
その後小指がどうなったのか、痛みはどうだったか、俺は全く覚えていない。
今も右手にはごく普通の小指がついているから、そんな事件が本当にあったのかすら怪しい。けれど、あの時俺の隣には妹がいて、彼女は一部始終をしっかり見ていた。鉛筆削りから出てきた「かす」を、あるいは、強引に引き抜かれた俺の小指を。
『すごかったんだから』
俺の記憶にあるのはそんな風に語る妹の方で、小学校に入学してからしばらくの間、彼女は鉛筆削りを使おうとしなかった。
一分年下の俺の妹。あれから十年以上の時間がたって、彼女は今躊躇なく鉛筆を削っている。
けれど、その日の彼女の精神状態は、やはり芳しくなどなかった。
「他に頼める人がいないの」
鉛筆を削りながら、妹が言う。椅子の上に体育座りをする彼女は、こちらを振り返ろうともせず一方的に話しかけてくる。
「必要なことはノートに書いてある。半年以内に、ミサを見つけて」
俺は返事をせず、部屋の手前で立ち尽くしたまま、右手に持ったノートを見つめる。ありふれたキャンパスノートの表紙には、黒字で「真実」という二文字が書き込まれていて、本当なら「中二病かよ」と笑い飛ばしてやりたいところだった。けれど、妹の病名はそこまでカジュアルなものじゃない。俺は仕方なく、
「わかった……でも、もし失敗したら」
「世界は滅ぶ。少なくとも、私は死ぬ」
お前さ、馬っ鹿じゃねえの。この時の俺はもう、そういう「非難」や「反論」が全て無意味だと分かっていた。会話をとにかく最小限に留めたくて、「そっか」と無難な返事をする。
「私、本気だからね」
「知ってるよ」
「嘘つき」
馬鹿げた妄想に取り憑かれているが、基本的に妹は賢い。俺が彼女の話を信じていないことくらいお見通しだ。ようやくこちらを振り返った妹は、削った鉛筆を目の高さまで持ち上げる。鉛筆はひどく不恰好な形に削られていて、黒い芯が、まるで
削り方が下手くそだったのか。
それとも、わざとこういう形に削っていたのか。
彼女はこの鉛筆で何をしたいのだろう。先ほど渡されたノートの中は、すでに神経質そうな文字でびっしりと埋め尽くされている。「必要なこと」を全て書き終わった後に、鉛筆を削り直す意味が俺には分からない。分からないから、ひどく胸騒ぎがする。
左手に持った鉛筆削りを見せながら、妹は言う。
「ねえ、この穴で指を削った時のこと、覚えてる?」
「言ったろ、俺は何も覚えていない」
「だよね。じゃあ、どうなるか見せてあげよっか」
「やめろ」
妹は笑って、鉛筆削りを投げ捨てる。軽いプラスチックが地面とぶつかる音が、やけに大きく感じられた。彼女はおもむろに左袖をまくる。俺に見せつけるようにしながら、白くて清潔な肌を露出させる。
「何をする気だ」
「近寄らないで」
神聖な儀式でもするように、彼女は鉛筆を頭上高くまで持ち上げる。
そして、慎重にその先端を手首の上に当てがった。
「おい、鉛筆を捨てろよ」
「これは予行演習」震える声で、妹は言った。「私は本気。正気なのよ」
「やめろ……」
俺の制止など届くはずもなく、妹は右手に力を込める。彼女は俺に、十年前の仕返しをしようとしていた。
手首に突き刺さった鉛筆の芯は、負荷に耐えられずにぼきっ、と折れる。小さく開いた穴から、どくどくと血液が溢れてくる。部屋の暗がりにも負けず、その液体はてかてかとした光沢を放っていて、俺は場にそぐわない奇妙なものを思い浮かべてしまう。
チョコレートファウンテン。
かつての妹がそうであったように、その一部始終から俺は目を逸らすことができなかった。
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