第四章 藁で作った狗(3)


            3


 熱帯の空は、色褪せない。

 黄色い太陽はじりじりと大地を焼き、土中に残っていた雨を追い出した。森全体が蒸している。驟雨スコールに洗われた木々の緑は、いっそう鮮やかだ。

 ファルスは眼を細め、天を仰いだ。熱気で頭がぼうっとしてくる。肌にまとわりつく風の重さに耐えかねて、少年は息を吐いた。額を手の甲で拭い、となりに横たわる母へ視線を戻した。

 先立った夫の荼毘だびの炎へ村人達の手で突きこまれた《火の聖女サティワナ》は、片方だけ残った瞼を閉じ、浅い息を弾ませていた。頬から首をおおい胸に達する火傷には、汗と膿がにじんでいる。ファルスは湿らせた布で、そっとそれを拭きとった。

 母は片眼を開けて息子をみた。真夏の大洋を宿す瞳は、虹彩の周囲に碧のかげが滲み、うるんでいた。また発熱しているのだ。

 ファルスは唇を結び、かたい微笑を返した。頭を上げ、ぐるりと周囲を見渡す。


 襲撃のあとで逃亡してきた奴隷が加わったため、盗賊タグーの数は以前よりさらに増えていた。女、子ども、老人の姿もある。

 ごつごつと岩肌がむきだした斜面で、痩せた子ども達が膝を抱えている。十人もいるだろうか、ファルスより幼い者もいる。きょときょとと大人達の顔色をうかがう瞳は、飢えと恐怖にぎらついている。女達は我が子を抱き、やはり身を寄せ合っていた。大刀を腰に提げて歩きまわる男達の言動に、神経を尖らせている。

 身分は同じはずなのに。

 所詮、自分達は盗賊タゴイットなのだ。


 ファルスは項垂れた。胸の奥につめたく重い石が沈んでいる。あの夜の光景が、まなうらに蘇える。

 灰色の雨の幕に、蒼白い雷光によって描きだされた盗賊たちの影。裸足をつつむ生暖かい泥の感触。水溜りに落ちた小石のあげるしぶき。門扉が軋む音。炎を反射してあかくかがやく刃、その凶暴な煌き。

 デオの声……松明から零れ落ちる光の粉、噎せるような血のにおい。

 頬を焼かれた男の憤怒にみひらかれたあおい瞳。そこに映し出された自分の顔。夢中で振りあげた薪の重さと、にぶい手ごたえ……。


 心の闇に浮かんでは消える記憶の断片にファルスが見入っていると、柔らかな感触が膝に触れた。母が、骨と皮ばかりになった掌を重ねている。ファルスはもう一度、ぎこちなく微笑んだ。


「オレ、デオのところへ行ってくるよ」


 息だけで囁き、彼女の手を外して立ち上がった。赤い大岩へと歩いて行く少年の腰には、黄色い帯が揺れている。

 声の出せない母親は、息子の後ろ姿をじっと凝視みつめていた。



             *



 ファルスは、裸の地面に転がる岩を慎重に避けて歩きながら、自分達について考えた。ここ数日の間に、気持ちは微妙に変化していた。


『デオは人殺しだ』

 聖河で溺れていた母子を救った単なるお人よしではない。村々を襲って奴隷を解放しつつ、王都カナストーラを目差している。


『オレ達は盗賊タゴイットだ』

 狙うのは貴族、奴隷をかかえた地主の館だ。護衛の兵士を殺し、布と宝飾品を盗み、食糧を奪う。土地を耕さず、襲撃と移動をくりかえす。平時なら死罪に値する行為だ。

 その自覚は少年の肌をひっ掻いて、ちりちりとした痛みをび起した。骨に達するような重い疼きではなく、風に触れて思い出す。


『それが何だと言うのだ……』

 デオは少年が育った村の人々を殺した。だが、その村人たちは、長年ともに暮した彼の母を焼き殺そうとしたのだ。

 死ぬところだった母子を、デオは救ってくれた。「聖女サティワナと知っていたら、救けなかった」と言っていた。傷の手当をしてくれ、食べものをくれ、母に寝床を作ってくれた。「早まると、後悔するぞ」と、止めてくれた。


『死にたくなったら、言ってくれ。いつでも、殺してやる』


 少年は面を上げた。女達が食事を作るかまどの周囲に、武装した男達が集まっている。彼等の頭上をおおう岩は、天に向かって吼えるワーグあぎとを思わせた。

 奪われたものを取り返す。彼等の具体的な目標は知らないが、憐れな母子にしてくれたことは分かる。恩に着せられたことはない、無理強いされたこともない。

 いつしかファルスは拳をかたく握り締めていた。デオの役に立ちたいという思いが、胸の中に芽生えていた。それは本当に小さな草の芽程度のものだったが、灰色の絶望に染まった世界で、蝋燭の焔のごとくちろちろと燃えていた。


 デオが彼に気づき、手招いた。


「ファルス。こっちだ」


 襲撃の際の猛々しさは微塵もない。にやりと不敵に笑う彼の隣に、ファルスは並んだ。デオが腕を伸ばし、肩にまわしてくる。親しげな温もりと緊張が、少年の背を走った。

 何故だろう……ファルスは気恥ずかしさを覚え、面を伏せた。特別なことを話したわけではないが、あれ以来、自分とデオの間で何かが変わったと感じる。

 デオは彼の肩に片腕をのせたまま、仲間と会話を続けた。


「食糧の大半は、まだあそこに残っているわけだな」

「今度は一筋縄ではいかないぞ。奴等も警戒している」

「身内を置いて来た者がいるんだ。放っておくわけにいかないだろう」

「その身内なんだが――」


 デオの手が離れ、少年の頭上を超えて戻り、無精髭の生えた顎を掻いた。ぎりぎりまで無駄を削ぎ落した横顔を、ファルスは観ていた。別の男の言葉に、どきりとする。


「あの地主は、熱病にかかった者を集めているぞ」


 デオの灰青色の瞳に鋭い光が閃いた。男達が騒然とする。


「なんだと」

「病人を集めて、どうしようって?」

「偽善者め!」


「……何のことだ? デオ」


 ファルスはデオを顧みた。デオは顎を掻きながら眉間に皺を寄せた。


「熱病に罹っているのは、奴隷ネガヤーだ」


 デオは唇を歪め、ぼそりと答えた。ファルスは息を呑んだ。男達の視線が彼等の指導者アナンダーに集中する。


「病は聖河の上流から流行り始めた。ろくな食べ物もなく、こき使われて体力の落ちた奴隷から倒れていった。河を渡ってナカツイ王国へ逃げた者もいるが、殆どは捕らえられ、連れ戻された……。地主やつらは病人を隔離して、身内に世話をさせる。ネガヤーの身内はネガヤーだから、熱病がうつって死んでも構わない。生き残った者は焼き殺してしまえば、病いを拡げることもない」


 そんな……と、ファルスは思った。いくら何でもと。しかし、否定できない。

 脳裡にあの時の村人達の姿が浮かんだ。か弱い母を縛りあげた、表情のない風貌かおの群れ。薄い膜を貼ったような濁った水色の眸……。

 デオは衝撃をうけている少年を横目に観つつ、皮肉たっぷりに付け加えた。


は屋敷の一部を病人に開放し、働けなくとも食事を出してやるんだから、されて当然なわけだ。汚いものは纏めて蓋をしてしまえば、観なくて済む」

「騙されないぞ」


 新しく加わった者だろう、ファルスの初めて見る男が、冷笑とともに吐き捨てた。


「隔離しなければ他の者にうつすなどと。あんな薄汚い場所に閉じ込められたら、治るものも治らなくなる」


 別の男が頷いた。


「殺されてたまるか」


 デオは黙っていた。前方を睨みすえ、ぎりりと奥歯を噛み鳴らす。

 ファルスは背筋が寒くなった。彼等の話が真実ほんとうなら、隔離されて死んだ父はどうなのだ。焼き殺されそうになった母は……?


「何度でも行くぞ」


 デオは、呆然としているファルスの肩を掴み、揺さぶった。すがるような少年の眸を、彼は真っすぐ見返した。力をこめて言う。


「地主と護衛の貴族どもを倒して、仲間を救い出す。戦える者は来い!」

「この国を取り戻せ!」


 男が拳を挙げて叫ぶと、他の者もそれに倣った。瞬く間に興奮が拡がる。鬨の声に驚いて、木々の梢から小鳥の群れが飛びたった。野生のサルが警戒の声をあげ、うずくまっていた子ども達が不安そうに顔を上げる。

 盗賊タグーたちは大刀と棍棒を振りかざし、ぐるぐる回して勝鬨をあげた。日差しは彼等の上に容赦なく降りそそぎ、褐色の影に染まる面で、灰色がかった青い瞳がぎらりと輝いた。

 アナンダー・デオの口元には、またあの半ば嘲るようで半ば苦々しい嗤いが浮かんでいた。

 喚声の渦に呑まれながら、ファルスは、自分の顔も今は同じように観えるのだろうかと考えた――。



   貴族を倒せ。《名のある者》を倒せ!

   この国を取り戻せ。奪われたものを、取り戻せ!

   憎しみを忘れるな! 怒りを忘れるな!

   民族が受けた屈辱を! 奴等から受けた仕打ちを、思い出せ!


   奴等から受けた仕打ちを忘れる者は、呪われろ……!





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