水弱る

蒼野海

第1話

 じゃらりと鎖が鳴る。黒い革の、ベルトのようにバックルで留めるタイプの手枷。音の割に鎖が華奢でたいして重くはないこれも、鎖がつく前はもっと可動域が狭かった。金属のブレスレットのような輪を両手首にはめ、その輪の開閉部分にある穴を南京錠で留めるという、手と手が離れていないやつだったと、キーボードを打ちながら思い出す。まあ、ブレスレットと言うにはあまりに非日常的な見た目だったけれど。

 手枷と同じものは足首にも着けられていて、最初の頃は本当に赤子のように彼に世話を焼いてもらっていた。あの足枷では1歩が小さすぎるし、ふと気を抜くと転んでしまう。今ではすっかり手首とお揃いの歩きやすい足枷になった。

 というものは、目に見えるもの見えないもの様々だけれど、生きていてまさか物理的に枷を着けられるとは思っていなかったと言うか、そういったも無い私には縁遠い話だと思っていた。

 濃いベージュの遮光カーテンの隙間からは暖かな春の日差しが漏れ、天井を照らしている。午前11時半。彼は3時間前に仕事に行った。今日は何時に帰ってくるのだろうか。いや、彼のことだから何も言わないけれど早く帰ってきてくれるのだろう。

 居間の食卓テーブルに置いたパソコンで仕事を終わらせ、お茶でも飲もうとキッチンへ向かう。一挙手一投足ごとにじゃらりじゃらりと鳴る鎖の音は、もはや生活音と化していて、何も気にならなくなっていた。

 食器棚を開けてずらりと並んだ茶葉の箱を見るけれど、今は自分ひとりしか飲まないので、安く売っていたダージリンのティーパックを紙で出来た個包装の袋から出し、「あっ」という間にお湯の沸くケトルに水を入れる。彼はずっと家にいる私に色んなフレーバーティーを買ってきてくれるけれど、私はそれを彼とふたりで飲むのが好きだ。お茶は好きだけれど、ひとりでは「いい匂いだね」とも「美味しいね」とも言えない。言っても虚しいだけだから。


「――あっ、」

 彼に仕事が終わったと連絡をするのを忘れた事を思い出すと、丁度同じタイミングでケトルがカチッと言った。うちのケトルはどうも空気が読めるらしい。

 沸いたお湯を放置したまま、慌ててスマートフォンを取りに行く。先程まで向かっていたノートパソコンの後ろにあったそれの電源を入れ、指でなぞるだけのロックとも言えぬような画面ロックを解く。彼にメールを打ちながら転ばないようにキッチンに戻り、空いた手でマグカップにお湯をだばだばと淹れる。本当は茶葉を蒸らしたりしなくてはいけないけれど、今はそれどころではない。送信が完了した画面から視線を外してカップの中にティーパックを投入すると、透明だったお湯がじわりじわりと褐色に染まってゆくのが見えたが、すぐにメガネが曇ってしまって見えなくなった。カップから出た紐を数度引き、お湯の中で茶葉を揺らして成分を出す。

 色のないモノがなにかに染まっていくのを見るのは面白い。お湯と紅茶の成分ならば、どちらが支配される側なのだろう。侵蝕されるのはお湯の方だけれど、お湯が液体でなければ紅茶の成分は溶け出さない。ティーパックを取り出しても、完成したお茶は液体のまま。葉っぱに成り代わることは、絶対に無い。

 パタパタと曇ったレンズを手で扇いでいると、2ヶ月前に買ってもらったばかりの手元の端末が震えながら大音量で私を呼び、彼からの返信を知らせた。いつも通り速い。仕事は大丈夫なんだろうか。

 返信を確認して、お茶を持ったまま居間のパソコンの元へ戻る。接続を切っておいたUSBメモリを引き抜いて、いつでも大丈夫なように目の前に置く。

 ゆっくりと紅茶を飲んで疲れた目やバキバキに固まってしまった肩をほぐす。手枷をしていても案外肩は回せるもので、回す度にゴリゴリと音を立てる。首もぐるぐると回すけれど、全て根本的な解決にはならないというのが難点だ。彼にお願いすれば、小豆をレンジで温めて目や肩に載せるを買ってもらえるだろうけど、この暑い夏に温めるやつを載せるのも憚られる。しかし、整体には絶対に行けないと分かっているし、行こうとも思わないのでやっぱり早めに買ってもらった方がいいかもしれない。今日のお散歩はドラッグストアにも寄ってもらおう。

 そうこう考えたりぐるぐるしたりしていると、5分ほどで次はインターホンが鳴った。モニター越しに玄関の外を見ると、想像通りの厳ついスーツ姿の男の人が立っていた。通話ボタンを押して声をかけると、男の人はドスの効いた声で「朱雀出版です」と言った。はーいと返事をしてから、USBメモリを手に玄関のドアを開ける。

「おはようございます、太田さん」

「呑気な返事しやがって」

 編集社の太田さんは私のことが嫌いだと言う。私だけではなく、彼も。けれど、どんなに顔が恐くても、どんなに見た目がその手の方っぽくても、とても仕事のできる頼れる担当編集者さんだから私は嫌いじゃない。

「これ、今回の分です」

「はいご苦労……ったく、なんでお前みたいのがハードボイルドで売れてんだかなぁこのドMが」

 眉間にシワを寄せたまま太田さんは私の手足を見て言った。

「太田さんのおかげに決まってるじゃないですか。そして私は虐げられて悦ぶ趣味はありません」

 いつもの憎まれ口に負けず軽口を叩くと、舌打ちと共に太田さんの眉間のシワがいっそう深くなった。見た目だけなら本当に凄腕の借金取りみたいだ、この人は。

「だいたいそのナリで間に合うってどういうことだよ」

 太田さんはちらりと私の手脚に視線を投げた。

「ふふふ、痛くないようにタオル巻いてくれるんです。優しいでしょう」

 そう言って私が笑うと、太田さんはなにか諦めたようにため息を吐く。

「へーへーお優しーこったぁな。まぁいい、次号もよろしくどーぞ」

「お疲れ様です」

「はいお疲れ」

 面倒くさそうに話を切り上げ、ひらひらと広い背を向けたまま手を振る姿がゆっくりドアに遮られる。

 太田さんは少し前から彼からの連絡で、原稿のデータを取りに来るようになった。


 私が太田さんを嫌いじゃないのは、もうひとつ、なんだかんだで優しいから。私が彼と一緒に住み始めて、一度連絡がとれなくなってから、以前に増して気にかけてくれるようになった。仕事を飛ばされるのが困るという理由以外に、人として、心配してくれていると思う。初めて私の手脚についた拘束具を見た時の、あのぎょっとした顔は忘れられない。その後で見せた、心配そうな目も。今日も私の手を見て同じ目をした。失礼だけど、見た目に反してとても優しい。けれど、照れ隠しのように口が悪い。そういう人だから嫌いになれない。世間的にはと言うのだろう、本人に言ったら怒られそうだけれど。


 彼に太田さんが来て帰ったと連絡をする。これから彼の稽古着なんかの洗濯と部屋の掃除、終わったら夕飯の支度をして、それからちょっとしたらきっと彼は帰ってくるだろう。晩ご飯は何がいいだろう。早く帰ってこないかな、なんて、仕事中の彼を想いながら洗濯物の仕分けをすることにした。

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