5話  自己紹介

 目に見据える教室の世界は、静寂という言葉が相応しかった。


 中央に顕著する机と二つの椅子は物寂しく存在しており、まるで外の世界から切り離した異次元のよう。特に内装の変化のない普通の教室は物置のような役割を果たしていたのだろうか、隅に置かれた机の城が聳え立つように見える。


 手に負えない理不尽に孤独の道へと追放された机に着席する少年。

 新藤弥彦はひたすら沈黙を貫いていた。


(そこに座れと言われたものの、あの先生は一体何を考えているんだろうか?)


 偶然と思えるようなタイミングで用事を思い出した秦村先生。

 辺鄙な教室に生徒を残し何処かへ姿を眩ませる。戻ってくる気配すら感じさせないほどの自暴自棄には期待も見込みも最初から失せていた。


「……」


 暇だ。

 あまりにも暇過ぎる。


 外部からの拒絶を忍耐するのは構わない。慣れているので抗体はある。だが目的を知らずのまま待たされる時間が苦痛で仕方ない。

 なので弥彦は自分が出来ることを専念する。


(……とりあえず読書で暇を潰すか)


 黒バックから幾つかの文庫本を取り出し、読んでいた所から開いては栞を取る。慣れない環境の中で本の内容が頭には入らないだろうと考えていたが、案外静寂に包まれた部室によってスムーズに捗る機会を得た。


 下手したら普段利用している教室よりも快適かもしれない。

 それほどの有意義な一時が過ごせるとは。


(個人的には有能な部室とはいえ、他に部員はいないようだな。廃部か?)


 人材と経費を必要としないボランティア活動部。

 何かしらの武器によって解決するのではなく言葉だけで解法を導く手段を講じるのがこの部活のモットーで合ってるのか曖昧だ。しかし牽引する人間が居ない限り恋路部という存在は廃部と同じだ。


 相談する学生が来なければ、風通しの良いただの倉庫に過ぎない。

 元の教室には戻らない。


(……もういいだろう。相変わらず先生の気配は無い。あの先生のことだ。まさか職務を忘れて自宅に帰っているんじゃないだろうな)


 本当に有り得そうだから非常に困る。

 見た目が大人でも素性が狡猾の社会人を信用してはいけない。


 しかし黙々と読書に熱中していた弥彦は自然と時間を忘れていた。これは迂闊。環境が最適だったがために本気で私生活を送ってしまった。


 流石に融通の効かない話に付き合わされるような身分ではないのに。


(これは期限が過ぎたみたいだ。……後で話せば分かるだろうし)


 観念が過ぎたので帰宅の準備を行う。

 弥彦の方に都合が出来てしまえば立場は対等になる。好きでこの部活動に入部を決めたのではない。自分の評価を維持するための保険のようなもの。


 あくまでも人生の通過点に過ぎないのだから。


 帰路に着くために文庫本を閉じた弥彦は黒バックへと仕舞う。用事がない学生は放課後居残っても仕方がないので、教訓を活かすために規則正しく部室を出ようと席を外す瞬間だった。


 誰も来ることのない未知なる部室の戸が、勝手に開いたのだ。

 そして聞き覚えた声が嫌にも聞こえてくる。


「おい新藤。恋愛進路の依頼人を呼んできたぞ」

「その前に色々と忠告すべき点があるんですが、それは後で横に置いときます」


 予想以上に訪問するのが遅かったり手本となるべき教師がノックもしなかったりと指摘する部分があるが、冷静にせざる負えない状況を優先することに。


 まさか。

 秦村先生が本当に依頼人の女子高生をこの部室に呼ぶとは。


「彼女が恋愛事情の依頼主ですか」


 閑散とした教室に立ち入る少女に気付く弥彦。

 扉の前に佇むのはボブカットの髪型をした黒髪の少女だった。着崩れのない制服と身嗜みの良さを感じる彼女。可憐と清楚を兼ね備えた欠けるものがない容姿は男女問わず多くの人気を集めるような、高評価の印象を浮かべる。


 それは間違いなくヒロインという言葉が付くほどの、美少女だった。


「ああ。彼女が今回の客人で合っている。どうやら異性に関する問題があってな。客人は空いている椅子に座るといい。相談してくれるぞ」

「えっと、その、よろしくお願いします……」

「……なるほど。とりあえず承諾を任意しましょう。話は彼女次第で」


 整った顔立ちとスタイルの良さを鑑みるに、異性から告白される日々が絶えないところか。恋愛なんぞ理由はそれだけの問題だ。ある程度の過程は変化が極端に現れるので見抜ける自信を持つ。


 しかし、何故彼女は信憑性皆無の部活に相談してきたのか、逆に気になる。

 噂話が大好物の女子共に話せばいいのに。


 内心他人事のように考えていた弥彦であったが、不意に彼女と目が合う。

 途端に彼女の方から声を掛けてきた。


「あれ……? もしかして、新藤くん?」

「……」


 誰だコイツ。

 哀れみと蔑みを織り混ぜた表情を浮かばせてみるが秦村先生が間を取る行動に。向けられたその鋭利な瞳は刃物のようにグサリと刺さる。


「新藤は転校してきてまだ日が浅いからな。まだ学生の名前を覚え切るのは困難だろう。念入りに彼女の事を自己紹介しようと思う。素直に有り難いと思え」

(いや、覚えるどころか何も知らないんだけど……)


 相手が大人だとしても隙あらば反撃に転じる不屈の精神を持つ弥彦であったが、素性の知らない今の彼女の前では無理がある。


 何せ、無関係の彼女がしょんぼりしながら落ち込んでいたから。

 どうしてそうなった。


「そうだったんだ……。じゃあ、新藤くんにもう一回自己紹介するね」


 切り替えの早い彼女は自分を鼓舞するために、華奢な両手を握ってはちっぽけなガッツポーズを決める。何事にも前向きな姿勢の彼女は誰に対しても優しい性格の持ち主だと即座に見解する。


「2年D組の、相澤あいざわちぎりと言います。名前を覚えてくれると嬉しい、かな」


 微かに目を逸らす彼女であったが若干恥ずかしそうにして肩を竦めていた。


 けれどこの相談が彼女の恋愛フラグについて知るキッカケを紡ぐ。

 恋路部という部室の存在が、決められたレールを変える事を。


 まだ誰も知らなかった。

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