76 呪われた街(前)

「ふう、こんな感じでいいかな」


 夕闇迫る森の中、眼前に生成された石壁に向けていた短杖を下ろし、リーディアが小さくため息を吐いた。

 巨木がどこまでも林立するこのブシェクに程近い森の中に、彼女は得意の魔法で今晩の野営地を作り上げていたのだ。いつもよりも厳重に張り巡らせた石壁群の向こうには、枯れ枝を集めているフーゴとダーシャの姿が垣間見えている。


 この場にいるのはリーディアとその二人だけだ。

 早朝に封魔のコアの試作品テストを終えた一行は終日移動を続け、夕方前には余裕を持ってブシェクの街の近郊に辿り着いていた。そこからハナート山脈沿いのこの森の中に分け入り、野営の場所を選定したのがつい先程のこと。


 護衛として同行した十五騎の軽騎兵とは午後の半ばで一旦別行動となっている。

 彼らはそのまま街道をブシェクへと先行して進んでいった。この先の少しの間は基本的にヤーヒムによる哨戒と奇襲に向けた地形の把握が主であり、彼らにはその間ヤーヒムやリーディア達には出来ない別の仕事があるからだ。それはブシェク内部の偵察と、来たる襲撃に向けた協力体制の構築。


 彼ら先遣隊の奇襲で事前に勝負を決められる可能性もあるが、よほどの幸運が重ならない限り、その実現は非常に難しい。

 その後はザヴジェル軍が駆けつける手筈になってはいるが、当然そこにはブシェクの街との連携が欠かせない。今回護衛兵のリーダーを務めている壮年の小隊長は末端ながらも爵位持ちの貴族であり、アレクセイとアマーリエのザヴジェル伯家兄妹連名での親書を預かってきている。まずはこのタイミングでブシェク太守と会見を行い、協力体制を事前に確立しておく必要があるのだ。


「ま、私たち四人のこれからの拠点としては上出来、上出来」


 作ったばかりの野営地の石壁を念入りに眺め、リーディアがひとつ頷く。

 小振りながらも八枚もの石壁で構成されるそれは、きっと安心して夜を過ごせることだろう。ブシェクに行った面々が街の宿に泊まることを思えば落差はあるものの、リーディアはそちらに混じりたいとは思わない。ここでヤーヒムやダーシャ、フーゴと野営している方がよほど良かった。


 何といっても彼らの行先はブシェクである。

 リーディア達が行ってしまえばむしろ、話がややこしくなる可能性が高い。


 ブシェクはヤーヒムが地下牢に囚われていたまさにその街だし、ブラディポーションにまつわる秘密が漏れ出た街である。以前ザハリアーシュがラビリンスの出口でブシェクの特別臨時監督官として待ち伏せしていたことを思えば、街の新太守ナクラーダル家もヤーヒムの追手に加わっていると考えて良いだろう。ヤーヒムはもちろん、霊峰チェカルまで同行していたことが知られているリーディアやフーゴがわざわざ太守との会談に顔を出すのは危険すぎた。


 その上さらに、先日王都でザヴジェル軍の駐屯地に忍び込んだトゥマ・ルカが漏らしていたことを考えると、今のブシェクからはどうも不穏な疑いを拭いきれないということもある。


 彼ら王家の<闇の手>は、もしかしたらこのブシェクでどうやってかヤーヒム達とは別のヴァンパイアと接点があった節がある。

 あくまでも可能性に過ぎないのだが、ブシェクは富と欲望の都とも呼ばれる街だ。そしてこれまでザヴジェルや王都はもちろん、となりのパイエルの街にまでジガ傘下のカラミタ勢が出現してきているのは事実。この欲望渦巻く巨大都市ブシェクにおいても、表面化していないだけで水面下では何らかの事態が起きていても不思議ではないのだ。


 と、そのような理由により、せめてブラディポーションとは完全に無関係の護衛兵達だけが別行動でブシェクへと赴いている。

 護衛兵たちはブシェクで内部の偵察と協力体制の確立を、残りの面々は森に入って先遣隊本来の任務を、という分担だ。もちろん、護衛兵たちはリーディアと繋がる簡易通信魔石を持たされている。何か不審なことがあれば、お互いにすぐ連絡を取り合う手筈となっているのだ。


 で、あるのだけれども。


「ねえフーゴおじさん、父さんは大丈夫だよね?」

「ああ、もちろんだって。偵察だけだし、何ともズルいことにあいつ空を飛びやがるからな。いざとなったらビューって飛んで逃げちまうさ」


 リーディアが作り上げた石壁の野営地に、ひと晩分の焚き木を抱えたフーゴとダーシャが喋りながら戻ってきた。

 話題はひとつ、この場にいないヤーヒムのことだ。彼はこの野営地を選定するなり、顔色を変えて夕闇の空へと飛び去っていった。


 向かった先はハナート山脈の稜線。

 朝の試作品の実験を終え、ブシェクに近づくにつれて彼は妙に落ち着きを失くしていた。そしてこの野営地でひと息つくこともせずに、ヴァンパイア達の進攻具合を確認してくると言い残して唐突に飛び立ってしまったのだ。


「あ、二人ともお疲れ様。入口はあっちに作ってあるわよ。……それで、ヤーヒムの話?」

「ああ。あの野郎、一人で難しい顔して飛び出していきやがって。なんかきな臭い、ちょっと待っててくれってだけ説明されて置いていかれたこっちの気持ちも考えやがれってんだ。なんていうかあいつ、王都で山向こうの偵察から帰ってきてからこっち、妙に思い詰めてるっぽいんだけどさあ」

「今回は山の稜線から向こう側の気配を探るだけだって言ってたけど――ううん、きっといつもみたいにちゃんと帰ってきてくれるわ。ね、ダーシャ? わ、たくさん焚き木を取ってきてくれたのね。じゃあまずはご飯にしましょっか」


 にっこりとリーディアが微笑み、心配そうな顔で大人二人の話に聞き耳を立てるダーシャの腕から大量の焚き木を受け取った。そしてそのままダーシャを先導し、自らが作ったばかりの石壁の野営地を賑やかに案内していく。


「おう、今回はまた厳重に作ったなあ。よし、今日の晩メシは久しぶりに俺が特製のあったけえシチューでも作るか。ヤーヒムが帰ってくるのはどうせ夜中すぎだからな、それまでコトコト煮込んでれば更に美味くなるってもんだ。嬢ちゃん、手伝ってくれるか? ここぞって時に作るケンタウロスの元気メシだ。特別に作り方を教えてやるぞ」

「本当!? うんっ、一緒に作る!」

「え、ちょっとフーゴあれ作るの? 確かにマーレには大好評だったけど……ええと、肉と人参以外も入れてね? ダーシャは育ち盛りだし栄養のバランスが――」

「がはは、姫さんは分かってねえなあ? 肉と人参がありゃ子供は育つし疲れも吹っ飛ぶってもんよ――」


 いつしかとっぷりと日が暮れ、魔石灯と焚き火の炎が灯った新造の野営地に、ようやく三人の明るい声が響いていく。

 そして、それに紛れた、その底に。


 ヤーヒム……。


 リーディアの祈りにも似た想いが人知れず夜空に捧げられ、融けるように消えていく。




  ◆  ◆  ◆




 夜の帳が下りたハナート山脈。その麓の上空を、矢のように飛んで行く有翼の人影がある。

 新世代のヴァンパイアであり、かつて青の血脈の集大成と見做されていたヤーヒムだ。普段は冷徹なそのアイスブルーの瞳は焦りに満ち、背中の漆黒の翼は狂ったかのように羽ばたいている。


 今日一日の移動でブシェク近郊に近づくにつれ、彼の中で徐々に膨れ上がっていった違和感。

 それはスタニーク王国の北方に背骨の如く連なるハナート山脈、その向こう側に、朝の時点でそこはかとなく感じ始めていた圧迫感がじわじわと大きくなっていったからだ。それはまるで、今にも山脈の稜線を乗り越えてきそうな予感を孕んでいて――


 滅亡したフメル王朝で、旅支度をしたヴァンパイア達が集結しているのを見たのは六日前のことだ。

 皆にはそこからブシェクまで、山脈越えを含めて十二日から十五日前後と解説した。つまり、残すところ最低でも六日はあるということ。それを前提として皆が行動をしている訳だが、けれども、もしヤーヒムがその前提を完全に読み違えていたとしたら。


 ――そんな不安を煽る圧迫感が、ハナート山脈の裏側で今日一日ずっと蠢いているのだ。


 ヤーヒムの予想ではハナート山脈のブシェク裏側付近まで五日、そこから山脈を登りきるのに五日、下山を含めたブシェクまで二日が最短と見込んでいる。いくら並外れた身体能力を誇る人外の軍団とはいえ、大半は下級のヴァンパイアとその眷属だ。移動速度には上限があるし、先日の偵察で見た限り、道など一切ない人跡稀な大森林を横断しなければハナート山脈には辿り着けない。そしてそのハナート山脈は峻厳極まりない天下の険、強大な魔獣が跋扈する比類なき秘境。


 なので今は早くてハナート山脈の裏側を登り始めたあたり、の筈なのだが、それにしては胸騒ぎが止まらなかった。山向こうからそこはかとない圧迫感を感じるのはまだ良い。【ゾーン】で直接は捉えられないにしろ、ジガと二十からのカラミタという強烈な存在が来ていれば、そのくらいは感じてもおかしくないからだ。けれども。


 皆と一緒に野営地を選定し、リーディアがほっとしたように微笑んだ瞬間、ヤーヒムの脳裏に雷が走った。

 これで暗くなる前に落ちつけそうね、ヤーヒムのすぐ隣でそう言って、生気に満ちた紫水晶の瞳で見上げてきたリーディア。


 暗くなる前に――


 そう。

 山向こうの圧迫感が、今日一日で徐々に大きくなっていくように感じるのがおかしいのだ。


 季節は初夏、その日差し降り注ぐ昼間。

 そんな環境で下級ヴァンパイアを大量に含む軍団が日中も移動を続けるはずがない。ならば、もしかして。


 ヤーヒムは焦る心を抑え、皆に簡単な説明だけして大空へ飛び上がった。

 未だ【ゾーン】には何も映っていない。未だ稜線は越えてきていない。このタイミングで気付けたことだけが救いだ。


 日中に圧迫感が大きくなっていたということは、動いていたのは当然、日中も動ける者達ということを意味する。つまりジガやカラミタ勢といった中枢が、二千からのヴァンパイアの軍団は置き去りに、自分達だけ先行してきていることを示唆している。


 くっ――――


 見上げるほどの前方、夕闇空をそのシルエットで切り取るハナート山脈の稜線に向け、猛然と飛翔してくヤーヒム。

 もし最初からジガ達が配下を置き去りに、先行して移動してきているとしたら。

 昼間も動ける彼らならば、単純計算で半分の時間でこちらへ来れる。


 いや、二千の軍団の大半を占める下級ヴァンパイアとその眷属がいなければ移動速度はもっと早くなる。

 あれから六日が経つ。

 もうそこまで来ていてもおかしくない。


 けれども。

 六昼夜ずっと移動し続けることはさすがにないと思われる。

 ジガやカラミタが稜線を越えれば即座に分かる【ゾーン】も沈黙したままだ。



 ……ならば、今はどこまで来ている?



 早急に確かめなければならない。

 ヤーヒムは神授の翼も千切れろと言わんばかりに羽ばたかせ、ぐんぐんと速度を上げていく。


 いずれにせよ一度は稜線まで飛行して、相手の位置を確かめる予定だったのだ。未だ稜線は越えてきていない。が、すぐにでも稜線を越えられる位置にまで来ているとすれば、それは非常に危険な事態だ。今ヤーヒムがフーゴやリーディアと色々と話し合っているものは、日中に行軍が止まったヴァンパイア達にどう奇襲をかけるかというもの。高位ヴァンパイアの身体能力で昼夜問わず移動し続け、山頂から街まで一日強で駆け下りてくる相手への効果的で安全な攻撃方法など、何ひとつとして用意できていないのだ。


 ……すぐにでも現在地を確かめ、ブシェクへ下りた魔法騎兵たちの呼び戻しも含め、急ぎ計画を練り直す必要がある。


 ヤーヒムは飛ぶ。

 既に最高速に達した飛翔速度を更に上げようと、あらん限りの力を振り絞って翼を酷使し続ける。


 頭上高くそびえるハナート山脈の稜線まで辿り着いて向こう側を見下ろせれば、ジガ達がどこにいようとも【ゾーン】でその現在地を確かめることが出来るのだ。

 緩やかに広がる山麓斜面を一気に飛び越え、ハナート山脈の本体をなす険しい山肌に沿って急角度に上昇を――



 と、その時。



 ヤーヒムの【ゾーン】に、強烈な存在が次々と映り始めた。

 目指すハナート山脈の稜線、尖峰と尖峰の間の切れ目の、その真ん中に。

 三十にも及ぶ強力なカラミタの反応と、魔王が如く君臨する、真祖ジガの気配。


 ……来てしまった。


 ヤーヒムは鋭く空中で転回し、麓で野営地を整えている筈の仲間の元へと速度を落とさぬままその行き先を変えた。




  ◆  ◆  ◆




「え、父さん――!?」

「ちょ、ヤーヒムどうした――?」


 高度差を最大限に利用し、落下するが如くの勢いで野営地へと飛び戻ったヤーヒム。

 墜落に近い激しい着地をどうにか収めた彼の周りに、立ち巡らせた石壁の中からダーシャとフーゴが飛び出してきた。


「奴らが来た! もう稜線にいてこちらを窺っている!」


 怒鳴るように告げられたその事実に、二人の目が大きく見開かれる。

 それだけ衝撃的だったのだろう。だが、ヤーヒムに言葉を選んでいる余裕はない。彼が【ゾーン】で認識できているように、ジガもまたヤーヒムに注視しているのが強烈な悪寒と共に伝わってきているのだ。視線を感じるという生易しいものではない。それはまさに――


「大変よ! みんな聞いてっ!」


 ひと足遅れて石壁の中から飛び出してきたリーディアが、ヤーヒムを見た途端に泣きそうな表情になった。

 そして真っ直ぐに駆け寄り、縋りつくように叫ぶ。




「ヤーヒム! いいところに! 聞いてみんな、ブシェクに行った騎兵達から緊急通信が入ったの! 街をヴァンパイアの集団が襲っているって!」






―次話『呪われた街(中)』―

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