35 ダーシャの選択(後)
翌朝。
パイエルの街一番の高級宿、新緑の薫風亭。その最上級の
贅を凝らしたベッドに独り眠るのはダーシャ。
漆黒の素直で長い髪がシーツの上に艶やかに広がり、朝の光が穏やかに眠る優美な顔を柔らかく照らしている。上掛けの上に出された両腕は肩口から包帯を一分の隙もなく巻かれ、目を醒ましたダーシャがいきなり自分の腕を目にすることがないよう配慮されている。
「明るくなってきたね」
隣のベッドに腰掛けたリーディアが窓の外に目を遣り、ううん、と伸びをした。
結局リーディアも眠っていない。宿の者に包帯を貰いに行ってダーシャの腕に巻いたり、他に狼の部分が残っていないか、男性陣を追い出して簡単に調べたりしていたのだ。
そしてこれからの事を相談する長々とした話し合い。
結局のところ、ダーシャ次第であるのは間違いないのだが――
「なんだかこうやって明るい所で見ると、本当にヤーヒムと親子みてえだな」
寝室の隅に馬体を横たえ、壁にもたれて欠伸をするフーゴがダーシャの寝顔を眺めつつ、同じ壁際で椅子に座るヤーヒムに軽口を飛ばした。
そう、ダーシャとヤーヒムのまとう雰囲気はそこまで似通っていた。これでダーシャが目を醒まし、その新しいアイスブルーの瞳を瞬かせれば誰が見ても親子にしか見えないだろう。
「……ヴァンパイア的に言えば、今のダーシャは我の子に近いのかもしれぬ。それが良いのか悪いのかは別として」
ヤーヒムが椅子から立ち上がり、手にしていた陶器の杯を備え付けの机の上に置いた。
その中になみなみと注がれているのはヤーヒムの血。三人で夜を徹して討論した結果、追加でそれを飲ませればダーシャの腕も人と同じになるかもしれないという話になったのだ。昨夜ヤーヒムの血を飲んで、ここまで狼から人の姿に戻った。ならばもう少し飲めば……という推論だ。
もちろんそれはダーシャの完全なヴァンパイア化を強く示唆しており、ヤーヒムの心境はさておき、本当に飲むかどうかを決めるのはダーシャだ。
「ね、やっぱり私も一緒にヴァンパイアになるってのは駄目?」
リーディアが隣のベッドのダーシャに近寄り、自分の顔を隠すようにダーシャの黒髪を撫でながら言う。
「ダーシャもその方が安心すると思うんだけどな」
「だあああ、またその話か。姫さんがヴァンパイアになるのは大変だって聞いたろう、なあヤーヒム?」
「……ああ、通常は血の遣り取りをしながらかなりの時間がかかる。それに満月は過ぎたばかり、いずれにせよダーシャと共には無理だ」
「だってさ、姫さん」
「何より、我は人の血は飲まぬ。知っているだろう」
「……うん」
強くは押さず、従順に引き下がるリーディア。
その顔は豊かな黄金色の髪の陰になって、ヤーヒムからは見えない。黙々とダーシャの髪を撫で続け、彼女はやがて躊躇いがちに話を変えた。
「……ヴァンパイアって、長生きなんだよね?」
「ああ」
「……私やマーレやフーゴ、みんなが寿命でいなくなっても、ヤーヒムはその後ずっと生き続けるんだよね?」
「老いて死ぬことはない。それがヴァンパイアだ」
「……寂しく、ない?」
リーディアのその問いは、ヤーヒムの足元を直撃するものだった。
己の種族ヴラヌスの、やがては物言わぬ結晶体ヴルタへと変わっていく
今こうしてリーディアに指摘されなくとも、ブルザーク大迷宮でコアと対話してより、その寂寞たる気付きがずっとヤーヒムの奥底に燻っていたのだ。
だが。
「――それがヴァンパイアというものだ。我らは呪われた種族、ヴラヌスなのだから」
ヤーヒムは左手の手袋を取り、己が手に同化したラドミーラの紅玉を慈しむように撫でた。
それに応えるように濃密な紅光がふわりとヤーヒムの顔を照らし、そして消える。ヤーヒムは仄かに微笑んで、ゆっくりと大切なものを守るように再び手袋を嵌めていく。
「……そっか、そうだよね」
リーディアが寂しそうに呟き、「そうだ、そろそろ食事を頼んでこようか。お腹すいちゃった」と唐突に立ち上がると、そのまま寝室から出ていった。
何とも難しいもんだねえ、ケンタウロスのため息が壁際で零れて消えた。
◆ ◆ ◆
「ん……」
届けられた朝食の香ばしい匂いに刺激されたのか、三人が半分ほど食べ進めた辺りで眠っていたダーシャが身じろぎをした。
そのままぐずるように首を振っていたが、やがて静かにそのアイスブルーの瞳を開いた。
「おはよう!」
「おはようさん」
食事を放り出したリーディアとフーゴがにこやかにダーシャの前に顔を出す。ヤーヒムはその後ろでじっと見守っている。
「え、あ……私…………?」
「おはようダーシャ! お姉さんに、おはよう、は?」
包帯が巻かれた自分の腕にちらりと視線を流したダーシャに、リーディアが優しい笑顔で話しかけた。
「うん、その腕ね、今のところはまだ治ってないの。一緒に頑張ろうね」
「え、一緒に……頑張る……?」
「そうそ、そのままじゃちょっと不便だからね。一緒に頑張るの。ここにいる三人はダーシャの味方だよ」
「おうさ、嬢ちゃん。ケンタウロスのフーゴお兄さんも一緒に――」
「――フーゴおじさんも? え、ここは……?」
「だあああ、お兄さんだってば! ダヴィットの野郎、変なこと教えやがって!」
大袈裟に乱髪をかきむしるフーゴを見て、ダーシャがくすりと笑った。
<ザヴジェルの刺剣>の面々がラビリンスから帰還した後、よくそんな遣り取りをしていたのだろう。それは、何の気負いもない自然な微笑みだった。
「あ……」
ダーシャの視線が騒ぐフーゴをすり抜け、後ろに立つヤーヒムに止まった。
「ふふ、ようやく会えたわねダーシャ。そう、彼があなたを救い出してくれたヤーヒムよ」
「…………よく眠れたようだな」
「うそ、あ、でも……」
「ほれ頑張れ嬢ちゃん、練習してただろ? はい、せーの」
「え? あ……。あ、あの時は、あ、ありがとうございましたっ」
「うんうん、やっと言えたな嬢ちゃん。ずっと言いたかったんだもんな。そう、こいつはこんな冷たい見た目だけど良い奴だからな。あ、見た目といえば――」
そこでフーゴはダーシャがどのくらいのことを覚えているのか尋ねた。
どうやら高熱で倒れてからのほとんどの事は、細切れの夢のように所々をぼんやりと覚えているだけらしい。フーゴとリーディアは代わる代わる、ダーシャの髪の色などが変わっている今に繋がるこれまでの経緯をかいつまんで説明していった。
二日前の晩にドウベク街道上で突然意識を失ってラビリンス遠征隊の皆と別行動を取り、昨日ヤーヒムに出会ったこと。この宿に入って容体が急変し、狼の姿に変わってしまったこと。けれどヤーヒムの血を飲み、今は腕を残して人間の姿に戻っていること。
「――まあ残念ながら、ヴァンパイアの血の影響らしくてヤーヒムに似ちまったけどな。ヴァンパイア的には親と子の関係に近いんだと。可哀想に」
「もうフーゴ、ダーシャはダーシャのままだし、強いて言えばちょっと印象が大人っぽくなったぐらいじゃない」
ダーシャに動揺を与えすぎないよう一気に説明を終えたフーゴに、リーディアが小さく肩をすくめた。
そして「見てみる?」とダーシャに手鏡を渡し――
「――っ!」
恐るおそる鏡を覗き込んだダーシャが息を呑んだ。
髪が自分のものではないような艶やかな黒髪になっているのは目の端で捉えていた。だが、リーディアの言うちょっと印象が変わって、という範囲には到底収まらない美貌が自分を見返していたのだ。
確かに自分の顔ではある。
髪と瞳、そして肌が白く透きとおるように変わっていること以外、どこがどう変わったとはっきり説明することはできない。けれど、まるで物語に出てくるお姫様のような乙女がそこには映っている。恩人であるヴァンパイアに良く似た、艶やかな黒絹の髪と澄みきったアイスブルーの瞳。ヴァンパイアを夜の王者というならば、鏡に映った自分は優美な夜の姫君のようで――
「ね、悪くないわよね? 目と髪が変わるだけで全然大人っぽくなったわ。女の子はお化粧したりちょっと細かいところを変えるだけでぐっと美人になるんだから。フーゴのようなおじさんケンタウロスには、その辺りは一生分からなくてよ?」
「だあああ、だから俺はおじさんじゃねえ! 俺がおじさんだったら、そう、ヤーヒムはオヤジだっ。ヴァンパイア的に親と子に近いんだから、ダーシャはヤーヒムのことをオヤジと呼ぶべき――」
二人の遣り取りのどこまでが演技でどこまでが本気なのか、ヤーヒムにははっきりと分からない。
けれど、その賑やかさが場の空気を和らげ、ダーシャの受ける衝撃を小さくしていることは事実だ。フーゴが駆け足で説明した中で、狼の姿に変わった云々の辺りでやはりダーシャは激しく動揺していた。だが、今は自分の容姿が変貌したことまでを含め、それなりに前向きに受け入れ始めているように見える。
後で二人に礼を言うべきだな、ヤーヒムはそう心の中にメモをした。
「そうそう、これはヤーヒムから頼まれていたことなんだけど」
リーディアが明るい口調を崩さずに話題を変えた。
「ねえダーシャ、今、お日様の光を見てどう感じる?」
「え……」
リーディアの視線につられ、一緒に爽やかな朝日差し込む窓際を眺めて、不思議そうにリーディアを見返すダーシャ。
「…………朝、かな?」
「普通にそれだけ? 何か嫌な感じとかない?」
「う、うん」
リーディアが目でほっとしたようにヤーヒムに笑いかけた。
これはヤーヒムが提案した、現時点でどこまでダーシャがヴァンパイア化しているかの確認だ。ヤーヒム自身は真祖に連なる極めて高位のヴァンパイアなので全くと言っていいほど影響はないが、通常、特に下位のヴァンパイアは陽光を苦手とするものなのだ。
ここまで明るい朝の光を見て何も感じないならば、全くヴァンパイア化していない可能性も出てくる。
逆にヤーヒムの血を濃く受け継ぐ、極めて高位のヴァンパイアになりかけている可能性もあるのだが。
「じゃあ次です。ええと、ちょうど食べかけの朝食があるから……」
リーディアが見回したのは半分ほど手をつけたままの朝食。
白く柔らかなパンが籠に盛られており、平皿にはカリカリに焼いたベーコン、モーニングバードの卵をふんだんに使ったキッシュなどが並び、新鮮なサラダやスープ、色とりどりの果物などもある。
昨夜のヤーヒムとの打ち合わせでは違う方法を予定していたが、それらがあるなら使った方が良いという判断だろう。
「ダーシャ、お腹すいてない? 一番食べたいのどれ? お姉さんが特別にあーんしてあげる」
空腹を思い出したのだろう、街一番の高級宿の豪華な朝食の上をうろうろと動くダーシャの視線の動きを、他の三人は慎重に見守っている。やがてダーシャの視線が一点で止まり、躊躇いながらもリーディアに尋ねた。
「……あの、向こうの机の上に置いてある、アレには何が入っているの? みんなおいしそうなんだけど、アレだけなんだかすごく気になっちゃって……」
リーディアの顎ががくりと落ちた。
ダーシャが無邪気に尋ねたそれは、朝方ヤーヒムが血を注いでおいた陶器の杯。この確認で元々使う予定だったものだ。これを目の前に差し出し、反応を見る段取りだった。それが、この豪華な朝食群を差し置いて、遠くの机にあるその杯にまっすぐ惹きつけられるとは――
「――どうやら本格的に選択を迫る必要があるようだ」
ヤーヒムは溜息と共に前に出て、戸惑うダーシャの隣に腰を下ろした。
それからヤーヒムが説明をしたのは、ダーシャの中にある人狼の魔とヴァンパイアの魔の話だ。
かつて地下牢で飲んだヤーヒムの血に含まれるヴァンパイアの魔が、ダーシャの中に眠っていた人狼の魔を刺激して目醒めさせてしまったこと。そして二日前の晩、満月の光を浴びてその人狼の魔が動き出したこと。けれど今度は逆に、ヴァンパイアの魔がその完全な覚醒を邪魔し、ダーシャは人狼になりきらずに倒れたこと。
「……ここまでは良いか? 全て憶測だが、間違ってはいまい」
心の中の葛藤を出さずに淡々と説明を続けるヤーヒムに、ダーシャは蒼白な顔ながらもゆっくりと頷いた。
それを見てヤーヒムは一気に最後まで言葉を連ねる。
けれど昨夜、ヴァンパイアの魔の妨害を乗り越え、人狼の魔がダーシャを完全に呑み込んでしまった。
部屋にいた三人に襲いかかり、ヤーヒムに噛みついてその血を再び口にする結果となり、今の半狼半人の姿となった。先ほどの食事に対する反応を見るに、追加で取り込むことになったヴァンパイアの魔が人狼の魔を打ち消したのではなく、ヴァンパイアの魔でほぼ全てが上書きされた状態であると思われる。
つまり今のダーシャは「腕だけ人狼の姿の人間」ではない。
端的に言うならば「腕以外はヴァンパイアになった人狼」なのだ。
「……今のダーシャには、ふたつの選択肢がある」
この先は以前にリーディアとフーゴに話したものと大筋では同じだ。
ただし以前にひとつめの選択肢として候補にあった、神殿で人狼の魔を祓ってもらうという手段は消えている。今のダーシャは神殿に近づくなりヴァンパイアもしくはその亜種としてそれ以上の討伐対象となるだろうからだ。
残された選択肢はふたつ。
どちらもこの年頃の少女に強いるには酷すぎる選択肢だ。だが、現状はどちらかを選ばざるを得ず、それがヤーヒムの心をきりきりと締め付けてくる。
……だが。
ヤーヒムは心を鬼にし、淡々とダーシャに今後の選択肢を説明する。
ひとつ、今の姿のまま、月の光を避けて暮らしていく。人狼の魔が再び膨れ上がることのないよう、特に満月の晩は注意が必要だ。
ふたつ、更にヤーヒムの血を取り込み、人狼の魔を消し去って完全なるヴァンパイアとして生きていく。
「……ヴァンパイアは知ってのとおり、忌み嫌われ神に呪われた種族だ。人狼と比べて姿は人間と同じで理性もあるが、完全にヴァンパイアになりきることはお勧めできない。逃げ道を残しておく方が――」
ヤーヒムの口から、ひとつめの選択肢を推す言葉が零れ出てくる。
それは気休めでしかないかもしれない。けれど、先送りしている間に何か新しい解決策が出てくるかもしれないのだ。何より、一度ヴァンパイアとなったら後戻りは出来ないのだ。そしてヤーヒムは充分すぎるほどに知っている。ヴァンパイアという種族の、絶望的な救いのなさを――
「ちょ、それはどうだよヤーヒム」
それまで黙っていたフーゴが、珍しく饒舌に言葉を並べるヤーヒムを後ろから軽快に小突いた。
「俺はお前さんを見て、ヴァンパイアってもんを見直したんだぜ? お前さんがいるぐらいだ、世間で言われてるほど悪い種族じゃないだろう? それにここで言うべきは、選ぶのはダーシャでどっちを選んでも見捨てることはねえ、だろ。そう決めてんだろうに、口に出して言ってやれよ」
フーゴの目に浮かぶ純朴な強い光が、ヤーヒムの心から反論の芽を消し去っていく。
「……そうだな。すまない」
「まあまあ二人とも、話が逸れているわ。あのねダーシャ、どっちを選ぶのも大変だと思うけど、どうなっても私たちはあなたの味方よ? 本当は早めに決めて慣れていった方が良いんだけど、すぐに決められなくても私たちがどうにかするわ。……これからみんなでザヴジェル領に行こうと思うの。ザヴジェルは辺境だけあって、田舎で人より亜人の方が多いわ。いろんな亜人がいて、魔の森が近くて危険が多いこともあって、種族よりその人の力が、その人自身が評価される土地柄なの。だからダーシャがどっちを選んでも、悪目立ちさえしなければ充分に生きていける。だって私もフーゴもヤーヒムも、そしてマーレやマクシムだって皆あなたの味方なんだから」
ヤーヒムの隣に腰掛け、ダーシャににっこりと微笑みかけるリーディア。
そこにフーゴも人型の上半身を割り込ませ、ドンと胸を叩いた。
「おうよ、任しとけって。嬢ちゃんがまだ傭兵になりたいってんなら色々教えてやるし手伝ってやるぞ。いっそザヴジェルで傭兵団を立ち上げちまうか? お、なんかソレいいアイデアっぽい。俺が矢面に立てば必要以上に嬢ちゃんに注目が集まることもないし、おおう、俺としたことが天才か! なら名前はどうする? やっぱ格好いいやつがいいよな、でも嬢ちゃんいるからそれも隠し味にして、なんかこう上品で頭が良さそうな感じに――」
「――ふふふっ」
ダーシャが笑った。
夜に咲く一輪の花のような、けれどどこか人懐こい笑み。
人狼として生きるか、ヴァンパイアとして生きるかという年頃の少女には厳しすぎる道を選ばざるを得ない状況なのに、実に気負いのない自然な表情を浮かべている。まるでその選択が何でもない事で、仄かな喜びを感じているようにすら見える不思議な面差しだった。
「ありがとう、リーディアさんもフーゴおじさ――フーゴさんも。あの、心配してくれて、とっても嬉しいです」
ベッドの上で、ぺこりとお辞儀をするダーシャ。
黒絹の髪がさらりと流れ、新しいアイスブルーの瞳が真剣な色を乗せてヤーヒムに向けられた。
「えと、私が選びたいのは、説明を聞いた瞬間にもう決まっているの。私……ヴァンパイアになりたい」
ヤーヒムは衝撃で大きく目を見開いた。
よく似たアイスブルーの瞳同士が瞬きもせずに見詰め合っている。
「私、人狼は嫌、だから。忌み子に生まれついて経験してきた思い出したくないこと全部が、その、人狼というものに詰まっているの。でもえと、ヴァンパイアになればそれから解放されて、本当に新しい自分になれる……かなって。それに、ヴァンパイアって」
そこで何故か照れ臭そうに視線を逸らすダーシャ。
救いを求めるようにフーゴを見上げ、そのまま言葉を繋いだ。
「……私の知ってるヴァンパイアって、その、フーゴおじさ――フーゴさんが言ってたのと同じで、私の知ってるただ一人のヴァンパイアも、とってもその……あたたかくて、やさしい人で。だから私、ヴァンパイアがいい」
結論を言い切ったダーシャに大きく頷き、満足そうに笑うフーゴ。
リーディアは励ますような優しい微笑みを浮かべ、そうなのね、とダーシャの頭を撫でた。
ダーシャはそこで一旦ヤーヒムに視線を戻し、目が合った途端ビクリと肩を揺らした。ヤーヒムが氷のような無表情で、その奥の感情は一切読み取れなかったからだ。しかしダーシャはヤーヒムの胸の辺りに視線を落ち着け、早口で懇願するように話を再開していった。
「えと、それだけじゃなくて、あの、昨夜わたしをだ、抱き締めてくれてたでしょう? その時に思ったの。その……父さんみたいだなって。私、本当の父さんにそんなことされたことないけど、ザヴジェルの騎士さまたちが読んでくれた物語に出てきた親子って、みんなそんな感じで。それでその、私がここでヴァンパイアにしてもらったら、ヴァンパイアでは親と子になるって言ってたし、だから私……」
「――ヴァンパイアになって、ヤーヒムの子になりたいのね」
流れるように言葉を継いだリーディアに、ダーシャがこくりと頷いた。
ヤーヒムは言葉も出ない。くすりと笑ったリーディアが立ち上がり、先ほどダーシャが惹きつけられた陶器の杯を取って軽やかな足取りで戻ってくる。
「これ、実はダーシャが起きる前にヤーヒムが用意してくれた血なの。ええと、本来のやり方ではないようなんだけど、ダーシャの場合はヤーヒムの血を飲むだけでヴァンパイアになっていくらしいのよね。どのくらい必要かは分からないけど、昨夜完全な人狼姿のダーシャの口に入った血の量と、それでここまで姿が変わったことを考えると、このぐらい飲めば少なくともその腕も人と同じに見えるようになるらしいわ。生の血だから抵抗があるかもしれないけど、まずは思い切ってこれを飲んでみて頂戴」
杯の中に注がれているのは真っ赤な鮮血。
けれどダーシャは嫌がる風もなく受け取って、その新たなアイスブルーの瞳でまじまじと見詰めている。
「ううん、なんでか分からないけど、とってもおいしそうに感じるの。これがヴァンパイアになるってことなのかな……」
そうしてひと口含み、ふわりと微笑むと残りは一気にコクコクと飲み干していった。
「美味しい……これが、父さんの味……」
そして、杯を大きく傾けて飲みきっていくにつれ、ダーシャの瞳が徐々に紅に変わっていっている。ヤーヒムと同じだ。いつかは深く精緻な紅玉の色に染まりきるが、若いヴァンパイアは皆、飲血の直後だけ紅の瞳に変わるものなのだ。
「なんだか、眠くなってきちゃった……ねえ、またぎゅっとして……私の、父さん……」
ダーシャが急に子供のように甘え始め、ヤーヒムの方に身体をずらしてそのままゆっくりと瞳を閉じた。
ヤーヒムは内心の混乱からまだ立ち直っておらず、おずおずとその存在を確かめるようにダーシャの小柄な身体に手を回している。微かな笑みを浮かべ、あっという間に眠りに落ちていくダーシャ。
「あらあら、寝ちゃったわね。ふふふ、幸せそうな顔しちゃって。でもこんなに急激に庇護を求めるって、昨夜みたいにこれから体が作りかえられていく前兆かしら。……ちょっと羨ましいけれど、これがダーシャの選択だものね。応援してあげなきゃ」
「とりあえずは良かったじゃねえか。まさかああも躊躇なくヴァンパイアを選ぶとは。ま、嬢ちゃんの事を考えりゃ当然かもしれんな。それにしても――くくく、なんだか本当の親子みてえだなあ。なあヤーヒム?」
本当の、親子……?
その言葉に、ヤーヒムは魂を揺さぶられるような衝撃を覚えた。
そして、はっと気が付いた。
今、こうして自分がダーシャの小さな体を抱いている光景。
これはつい先日ヤーヒムが仄かな羨望と共に眺めていた、鹿人族の親子が仲睦まじく抱き合う光景と同じなのではないか。
あれと同じことを、こうして、自分が……。
いや。
己とダーシャの間にはまだまだそこまでの絆はない。
けれど、もし叶うことならば。
いつか、あの鹿人族の親子と同じようになれるだろうか。
忌み嫌われるヴァンパイアである自分に、人と同じ本当の家族が――
ヤーヒムは己の裡にこみ上げた震えるほどの暖かさに戸惑いながら、腕の中ですやすやと眠るダーシャの頭をそっと撫でてみるのであった。
―次話『新たな目的地』―
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