21 紅の叛旗

 熾烈な戦いが再開された最奥の間の中央をよそに。

 広間最奥に鎮座するコアの前では、ヤーヒムは未だ青光に包まれ続けていた。



 ――若きヴァンチュラよ、何故抵抗をする……種の進化を受けいれよ……動を捨て固に、紅を捨て蒼に、肉を捨てヴルタになるのだ……



 地面に顔から倒れ伏し、僅かに痙攣する若きヴァンパイアに、コアが苛立ったようにその青光を強めている。青光がその威圧を高めるたび、ヤーヒムの四肢が体温を失い、心臓が凍えるように固まっていく。その意識を侵食しているのは冷たい青。身体の自由が効かなくなっていくのと同時に、思考も冷たく固まりつつあるのだ。



 ――汝は既に心の臓にヴルタの核を備えておる……もうヴァンチュラとしての熟成は要らぬ……不安定な肉体を脱ぎ捨て、空間を司る至高の結晶体ヴルタに……胎内に数多の界を宿す究極の生命体ヴルタにその身の全てを作り変え、新たな世界ラビリンスとなるのだ……それが偉大なる我らヴラヌスの進化……ラビリンスと呼ばれ無限に人を喰らい永遠を謳歌する完全なる存在……それが汝らヴァンチュラに約束された未来なのだぞ……



「……それが……未来……?」


 強烈な青光の中で、すっかり温もりを失ったヤーヒムの体が微かに反応した。青く結晶化を始めた上体を震えながらも僅かに起こし、青光に染まり出したアイスブルーの瞳が抗うようにコアに向けられる。



 ――さあ、汝の内のヴルタに全てを委ねよ……さあ……



 と、その時。

 地面に突かれたヤーヒムの左手から、弾けるように紅玉ルビーの輝きが迸った。手の甲と同化したラドミーラの紅玉だ。威圧を増す強烈な青光を打ち払うように、鮮やかな紅光がヤーヒムの顔を複雑で濃密に彩っていく。

 まるでラドミーラに優しく抱擁されているようなその感触は、ヤーヒムの身体に仄かに温もりを取り戻させてくれている。震える吐息を零しながら、ヤーヒムは左手の紅玉を凍える胸にしっかりと抱き寄せた。



 ――ほう、その手の紅玉……ヴルタのなり損ないか……動を捨て固になったのに何故紅に固執する……何故この者の正統なる進化を妨げる……愚かなり……



 コアが嘲笑うようにその威圧感を増し、唐突にヤーヒムの左手を強烈な青光が貫いた。ラドミーラの紅玉の輝きが急速に失われ、弱々しく脈打つだけになった。同時にヤーヒムの身体は完全に温もりを失い、呼吸すら遠く儚くなっていく。



 ――さあ、紅を捨て蒼に、動を捨て固に、肉を捨てヴルタになるのだ……究極の生命体ヴルタに……空間を司る永遠の結晶体ヴルタに……それが我らヴラヌスの真の姿……さあ……ヴァンチュラからヴルタに進化するのだ……



 ますます威圧を高めていく強烈な青光の中、意識すら失いかけたヤーヒムの耳に<ザヴジェルの刺剣>の叫び声が微かに忍び込んできた。


「……クソ! こう雑魚が勢い付いちゃ身動きが取れねえッ!」

「……<虚無のブレス>来ます!」

「……アマーリエ様! ここは一時撤退を!」

「……ならんっ! 奴を、ヤーヒムを信じろっ!」


 今……何と…………?


 結晶化が進み感覚すらなくなっていたヤーヒムの胸に感情の灯火が燃え上がり、浸透しかけていた青とせめぎ合いを始めた。

 ゆっくりと顔を上げ、振り返る。視線の先、斜面の下の広場は六本腕のスケルトンウォリアーに埋め尽くされ、尚も次々と無数の新手が虚空から飛び降りて参戦している。その中央、立ち塞がるスケルトンウォリアーを必死な形相でかき分け、<ザヴジェルの刺剣>が形振り構わず距離を取ろうとしているのは――大きく息を吸い、ブレスを準備する巨大なブリザードドラゴン。


 次の瞬間、氷竜は大きく口を開けて薄青に輝く霧を吐き出した。アマーリエの言っていた<虚無のブレス>だ。


 薄青に煌めく霧は猛烈な速度で直進し、氷竜が首を振るに従って<ザヴジェルの刺剣>を追い詰めるように扇状に広がり撒き散らされていく。アマーリエ達は辛うじて範囲外に逃れたようだが、立ち込めていた煌めく霧が薄れた後には、あれだけひしめいていた無数のスケルトンウォリアーが綺麗にその姿を消していた。……深く抉れた地面と一緒に。


「……うおらああ! 今度こそその下品な首を叩き落としてやるッ!」


 と、その何もなくなった空間にハルバードを振りかざしたケンタウロスが突入していった。<ザヴジェルの刺剣>もよろめきながらも反転し、暴威をふるう氷竜に少しでも反撃を行おうと距離を縮めていく。が、濁流が低地に押し寄せるように、同じその空間に新たなスケルトンウォリアーも殺到し――



 ドクン。

 ヤーヒムの心臓が強く脈打った。



 ……彼らを。


 ……彼らを、死なせは、しない。



 ドクン。ドクン。

 感情の灯火が赤く燃え盛り、心臓に温もりが戻っていく。



 ……死なせて、なるものか。



 ドクン。ドクン。ドクン。

 浸透していた青を打ち砕き、心臓がはっきりと脈打ち始めていく。



 ……その為には。



 熱い血潮がヤーヒムの身体を駆け廻り始める。

 その一脈一脈が青く固まりつつあった全身を融かし、温もりを取り戻させていく。ヤーヒムは強烈に圧し掛かる青光を跳ね除けるようにゆっくりと上体を起こした。膝を立て、その膝に手をついて身体を持ち上げ、両の足で力強く立ち上がる。


 眼前には巨大な水晶、ラビリンスコアが、戸惑うように未だ語り続けている。


 ――何故下等生物をそこまで気にする……あれらは我らヴラヌスに血を捧ぐ家畜にすぎぬ……汝らヴァンチュラならば直接血を啜り……長じてヴルタになってからは胎内でその命を貢がせる……ヴルタの空間の力で界を創れば創るほど……欲に釣られて無限に入ってくる……偉大なるヴラヌスの矮小なる餌……それが我らヴラヌスとあれらの、太古よりの運命さだめ……


 その言葉にヤーヒムの視界が真っ赤に染まった。




「ふざけるなああああ!」




 沸々と込み上げる灼熱の怒りが、心の底からの絶叫となって迸った。



「そんな運命など認めぬ! ヴラヌスなど知ったことか! 我が名はヤーヒム、人の血は啜らぬ! 石などにもならぬ! 己が足で立ち、己が求める生を歩むのみ!」



 左手の甲の紅玉を胸に抱きしめ、ヤーヒムは決然と一歩を踏み出した。

 そのラドミーラの紅玉が、その叫びに反応するかのように目も眩まんばかりの紅光を放ち始めている。鮮やかで、濃厚で、複雑で、かつてのラドミーラの瞳と全く同じ色の光の奔流が、コアの青光を一気に塗りつぶしていく。


 一歩、また一歩と、敢然とコアに向かって距離を縮めるヤーヒム。

 そして、遂に触れる距離まで近づいた己の背丈ほどもある巨大な水晶に――


 ――目にも止まらぬ速さで牙を突き立てた。


 どうしてそんなことをしたのか、ヤーヒム本人にも分からない。ただ、眼前の水晶が余りに強大な力を持っていて、今の己に敵う相手ではないという冷めた認識はあった。どうにかして力の差を縮めなくてはならなかった。そしてヤーヒムはヴァンパイアだ。彼の知る、相手の力を己が物にする唯一の方法――それは吸血。


 突き立てた牙から途方もない青の力が流れ込んでくる。

 全てを己が物にはできないが、可能な限り己の内に取り込んでいく。眼前の強烈な青光がみるみる弱まり、そして。


 蒼光一閃。


 ヤーヒムの爪がラビリンスコアを真っ二つに分断した。

 あれほど青く輝いていたコアは、無色透明の水晶となってゆっくりと地面に転がっていった。


「……おい、魔獣の召喚が止まったぞ!」

「……やってくれたか! 信じていたぞ!」

「……ああヤーヒム! ヤーヒムっ!」

「……リーディア様、まだ魔獣がいなくなった訳では――<虚無のブレス>が来ますッ! 退避をッ!」

「……がああ! またかクソッ!」


 遠くから<ザヴジェルの刺剣>の面々の声が聞こえてきた。

 魔獣の追加召喚は止まったようだが、未だブリザードドラゴンは健在、既に出現した大量のスケルトンウォリアーも彼らを取り囲んでいるようだ。ドラゴンだけならいい。だが、その凶悪なブレスに押し寄せる夥しい魔獣群が加わり、進退窮まる切羽詰った状況にまで追い詰められつつあるようで――



「今行く!」



 ひと声吼えてヤーヒムは全てを置き去りにして稲妻の如く走り出した。

 その身にはコアから啜った青の力が新たに加わり、既存のヴァンパイアの一段上の存在へと彼を押し上げている。特有の空間属性が更なる高みへと強化され、研ぎ澄まされた感覚には周囲の全てがそのアイスブルーの瞳を介さずともはっきりと認識できている。コアの語っていた空間を司るというところまではいかないが、蒼く輝く五本二対の爪で周囲を蹂躙するには充分な空間認識能力。


 立ち塞がる無数のスケルトンウォリアーの隙間を飛び去るように駆け抜けながら、その全てを【ゾーン】として認識し、触れるものことごとくを斬り裂いていく。全ての斬撃の軌道が分かる。その次に繰り出されようとしている斬撃の全ての予備動作も見えている。【ゾーン】内の全ての動きを把握したヤーヒムは、一体あたり六本の腕で振り回される幾重にも重なった剣を危なげもなく回避し、斬り落とし、流れるように背後に置き去りにして突き進んでいく。


 新たに出現してくるものはいないとはいえ、この広大な最奥の間には夥しい数の骸骨兵がひしめいている。

 骸骨の白と直剣の鈍色に埋め尽くされたその空間を裂き進む、新しきヴァンパイア――ヤーヒム。その周囲には蒼き五本二対の閃光が舞い踊り、うちひとつには鮮やかな紅の光点が尾を曳いて追随している。彼の疾走を妨げられるものはなく、無人の野を軽やかに飛ぶ燕の如く最奥の間を駆け戻っていく。


「――ブレスが来ます!」

「今度は虚無じゃねえぞ! 盾で耐えろッ!」

「応ッ!」

「魔法で補助します! 我が魔力よ盾となりて立ち塞がれ! ラージシールドッ!」


 ヤーヒムの視界に遂に苦闘する<ザヴジェルの刺剣>が入ってきた。

 ブリザードドラゴンの代名詞とも言える氷塊混じりの極寒のブレスを、リーディアの魔法障壁と騎士達の三枚の盾で凌いでいるようだ。だが、魔法障壁が受け止めているのは小さめの氷塊のみ、大きな氷塊は受け止めきれずに容赦なく騎士達の盾を猛打している。必死に耐える騎士達の泥だらけの顔は既に蒼白で、額に血を滲ませたアマーリエまでもが盾の保持に加わっているようだ。


「今行く!」


 ヤーヒムは鋭く叫ぶと、三度大きな跳躍をしてブリザードドラゴンの眼前に飛び込んだ。その途端、<ザヴジェルの刺剣>へのブレスの圧力が弛んだ。猛るドラゴンも瞬間的に気が逸れたようだ。


「え――!?」

「ヤーヒム!? そこに来ちゃダメ!」


 リーディアの絶叫も虚しく、巨大なブリザードドラゴンが再びブレスの勢いを強めながらヤーヒムの方へと首を傾けた。当然ブレスもその向きを変え、無数の氷塊の雨がヤーヒム目がけて――


 と、ヤーヒムの身体の輪郭がぼやけ、白い霧となって周囲に滲んでいく。氷塊混じりのブレスがその霧を穿つが、何の抵抗もなくすり抜けて背後の地面を激しく叩いていく。


 それはまるで、ヤーヒムの実体がなくなり霧になったかのよう。

 否、ヤーヒムが実体を隣接する界に僅かに滑らせたのだ。コアから啜った青の力により更なる高みへと強化された空間属性が、ヤーヒムにこの離れ業を可能とさせていた。完全に界を渡るところまでは出来なかったが、これはこれで使い勝手が良さそうだ――ヤーヒムは霧となった己の顔にニヤリと冷酷な微笑みを浮かべた。


 ブリザードドラゴンの吐く氷塊混じりの猛烈なブレスが、ヤーヒムの面影を残す霧を次々と貫いていく。が、隣接する界に実体を滑らせたヤーヒムに全くダメージはない。ゆっくりとしか移動できそうにない点が欠点ではあるのだが、これまで物理的回避以外一切の防御手段を持たなかったヤーヒムにとって、この霧化は魔法障壁以上の強力な防御手札となり得るものだ。先ほど試用してみた【ゾーン】の認識能力と併せ、ヤーヒムの戦闘能力は大きく向上したといえるだろう。

 それともうひとつ、心強い進化があったのは分かっているのだが――



「どおりゃああ! 隙だらけだぜッ!」



 ブレスを大きく回避していた頼もしいケンタウロスが、背後からブリザードドラゴンの尻尾にハルバードを叩き込んだ。

 たまらずブレスを停止させ、大きく吼えて暴れはじめる巨大な氷竜。そこに豹のようにアマーリエが緑白に輝く魔剣を振りかざして躍りかかり、一撃離脱するフーゴへと振り返ったブリザードドラゴンの太い尻尾をばっさりと切り落とした。直前のブレスをヤーヒムが受け止めてくれていた為、これまで届かなかったあと三歩を縮めることが出来たのだ。


 ドラゴンの苦悶の咆哮が響き渡る。

 さらに盾騎士三人に周囲のスケルトンウォリアーの対処を任せたリーディアが短杖を向け――



 その刹那、ブリザードドラゴンはその雄大な皮翼を広げ、最奥の間の天井付近へと飛び立った。



 リーディアが逃がさじと用意していた水球の魔法をすかさず空に放つが、氷竜はその巨体に似合わない機敏な動きで軽々と回避する。そして上空でグワリと口を開け――それは彼らドラゴンの真骨頂、ブレスによる空からの広範囲攻撃。これまでは遊んでいたのかもしれない。だが、今や上空で怒りに燃え、本気の攻撃を仕掛けようとしている。


「いかん! 上から<虚無のブレス>で追われたら逃げようがない――ッ!」


 アマーリエが叫びながら振り返り、仲間の姿を確認しようとした時。



 ――先ほどまでヤーヒムの輪郭を保っていた白い霧が急速に収束し、大気に融けるようにふわりと消えた。



 転移したのだ。

 ヴァンパイアの有名な奥の手、短距離転移。本来は一日から数日に一度しか使えないという制約があるのだが、コアから奪った力によりヤーヒムはその制限が緩和されたことを感じていた。これが新たに手にした強化の最後のひとつ。もちろん立て続けに使うことはできないが、おそらく最長でも半日あれば再使用できるようになったのではないか。それ以上は使ってみなければ分からない。

 そして、今こそその絶好の機会。ヤーヒムが狙いすまして転移したのは――


 上空で首を逸らし、最大限にブレスを溜めている巨大な氷竜の頭の上だった。


 一瞬の浮遊感の後、実体化してすかさず人の脚ほどもある角にしがみつくヤーヒム。

 突如として頭上に出現した異物にブリザードドラゴンはブレスを呑み込み、猛烈に首を振ってなんとか振り落とそうと暴れるが、ヤーヒムはしっかりと両手で角に抱きつき、下半身を宙に流しながらもその場に留まり続けている。


「……うおい、あいつあんなとこで何やってんだ?」

「な――いつの間に!?」

「ヤーヒム、危ないっ!」


 そして。

 狂ったように乱飛行するドラゴンの高度が地表ギリギリまで下がった時。



 ヤーヒムは角から素早く手を離し、足元のドラゴンの頭蓋目がけて、蒼く煌めく五本二対の爪を深々と突き刺した。



 絶対の斬れ味を誇るヴァンパイア・ネイルが、薄氷色のブリザードドラゴンの堅固な頭蓋を抉り、切り裂き、その脳髄を虚空に霧散させて――巨大竜の獰猛な咆哮をふつりと途絶えさせた。

 力強かった羽ばたきがピタリと止まり、そのままスケルトンウォリアーひしめく地面に急降下していく。墜落の直前、無残に欠損した頭部から大きく跳躍して離脱するヤーヒム。


 守護魔獣として階層に君臨していたドラゴンは無数のスケルトンウォリアーを弾き飛ばしつつ、地面を激しく転がり、さらに大量のスケルトンウォリアーを道連れにして止まった。疾うに息絶えている。ヤーヒムはそれを横目で確認しながら、残る雑魚を素早く殲滅に入った<ザヴジェルの刺剣>と共闘すべく彼らの元へと走り始めた。






―次話『新しきヴァンパイア』―

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