黒の大書庫

九重 孤楽

第1話 黒の書 第一の章

 ふと気が付くとそこは暗闇であった。

あたり一面、先の見えない真っ暗闇だ。

宵闇を越えて純粋な黒に見える空間は、どこか寒々しく、自身すべてを飲み込んでしまいそうだという錯覚をさえ感じる。正直な話、あまりいいものではない。

 おまけに、気が付いてからというものなんだかひどく頭が重い。暖かな微睡の中から無理やり現実に引き戻された時のように、じんじんと目の奥のほうが痛む。言い表せば、今の心情は、最悪である。

別の世界線では暗闇を抜けると、雪国が広がっていたりするようだが、あいにくと現実は厳しい。広がっているのは厳しくも懐の深い雪国などではなく、すべてのものを拒絶しようとするような真っ黒である。

 世界の不条理に文句を垂れたところで、どうしようもない。世界の不条理に文句を垂れたところで、どうしようもない。とはいえ、こうも暗く、目印さえないこの空間ではどちらに歩き出せばよいのかすら判断しかねる。あたりをくるくる見回したところで一向に状況は改善されなかった。

 ふう、と、大きめのため息をつく。私は、意を決して一歩暗闇の中に踏み出してみた。すると、奇妙なことに何もないはずの黒い空間には確かにしっかりとした感触があった。少々安心した。これでさらによくわからない空間に落っことされてはどうしようかと内心びくびくしていた。私はひとまず、足を進めてみることにした。

 

しばらく歩くと、私はあることに気が付いた。体の疲れを全く感じないこと、そして、不思議と自分の向かうべき方向がわかることだ。そうまでなってようやっと理解したが、こうれはどうやら夢であるようだ。意味の分からない空間、意味の分からない状況。すべて夢だとしたら説明がつく。よくある話だ。夢の中では不思議と訳の分からない事が理解できてしまうのだ。そうした夢の中には確かにこうした妙にはっきり感じられるものがあったりするものだ。

 この理解は、不安を和らげると同時に、私を困らせるものでもあった。私は、この夢がただでは冷めてくれないことを知っている。そして残念なことだが、私はどうすればこの悪夢が覚めてくれるのかを知らない。自分の夢に、さっきから振り回されっぱなしである。しかし、夢というものは案外そんなものかもしれない。頼みもしないのに陽気なものから、陰惨なものまで、ありとあらゆるものが混在するものだ。あまりに鮮やかな色彩を見せられると、そこに自分の信じている現実まで混ざってしまう。

 考えていると、何やらうすら寒いものが背中に走る。詮索し過ぎた、これ以上は不要に体力や精神力を消耗するだけだろう。しかしどうだろう、どんなに屈強な精神力を持っていても、どんなに高い集中力を持っていたとしても、どこまで続くともしれぬこの黒の中を進み続けていれば、余計な詮索もしたくなるというものだ。私は何とか意識を奮い立たせ、暗い妄想から抜け出した。

 しかし、どういうわけか冷や水が背中をなぜるような不愉快な冷たさは失われなかった。いや、勘違いでなければ、背中だけではない。全身が、寒い。適切な表現は思いつかないが、例えるならば冬の風のようなさわやかなものではなく、高熱にうなされた時のような、体の芯が震えてくる、そんな寒気を感じる。立っていることさえつらく感じ出した。かなうことならばもうここで眠ってしまいたい。暖かな布団にくるまり、すべてを忘れて赤子のようにまあるく縮こまって眠っていたい。

 不安の中で低下した判断力と自分の弱さにそのまま身を任せてしまおう、そう思いうつぶせに倒れこんだ時、このままではいけない、そう直観する。感じている寒気とはまた別の悪寒のようなものを感じた。全身を絶えず襲う寒気で震える脚に、再度力を込めて立ち上がり、普段はラフに開け放しているパーカーの前ファスナーをグイっと引っ張り上げる。まだここで眠るわけにはいかない。きっちり自分の布団で眠らないと、居眠りをしていては笑われてしまう。しかし、誰にだったか。再びずるずると擦るようにして足を前に進める。

 かれこれ、どれほどたっただろう。もはやこの黒塗りの空間の中で私の時間感覚は完璧にマヒしてしまっているようだった。体は冷え切り、もはや耐え難い。

 私は、右側にすっと手を伸ばした。硬い感触に触れる。ひとまず、体を預けられそうな壁があることを確認して私は、体を壁にするようにして座り込んだ。

 


 真っ黒の中にどれだけ一人でいたのだろう。わからない。わからない。わからない。暗くて寒くてしんどい。もう、いっそ消えて闇に溶けてしまいたい。もう取り返しがつかないほどに私の思考は染まってしまっていた。この空間と全く同じ、真っ黒に。

 そんな絶望的な環境の中、不意に、私はかすかな違和感を覚えた。それは、右手のあたりにあった。寒くて寒くてどうしようもなかった体が、右手のあたりだけ、妙にぽかぽかと暖かな感触が伝わる。しかし、右手には何も持っていなかったはずだ。私は、右手を額の前でぐっと握りしめ、その感覚に意識を尖らせる。

 すると、何も握っていないはずの自分の右手に感じていたものの正体がわかった。それはどうやら、なじみの誰かの手のようだ。大きな手が重ねられている。ごつごつとした、それでいて繊細そうな、優しい手だ。残念ながら、今の私にはこれが誰の手なのか、思い出すことさえできない。しかし、感じるこの暖かさは、私を勇気づけるには十分なものであった。

 今までもたれかかっていった壁から私は距離を取り、再び前、と言っていいのかわからないが、ひとまず歩みだそうとする。すると、今まで何もなかったはずの空間が、少しずつ光りだすのを感じた。光、といっても、それはただの光源ではなく、何か明確な意図をもってデザインされた、いわゆる一つの言語であるようだ。あるようだ、というのは、どうも私の知るどんな言語とも異なるものであるからだ。見れば、今までずっと自分が歩いてきた方向にもびっしりと文字が浮かび上がっている。どうして今まで気づかなかったのか。いや、違う。気づけなかったのだろう。あたりを見回すことすらできないほど逼迫した状態にあったということなのだろうか。疑問もわきに置き、私は、その文字たちに目を凝らした。

 しばらくそうしているとどうだろう、理由は全く理解できないが、徐々に私にはその文字の意味するものが理解できるようになっていた。どうやら、これは物語のようだった。ついと視線を動かし、無我夢中で文字を追う。やがて私は、ようやく物語の始まりにたどり着いた。

「」

 私は意図せず、自然と声に出して物語を読み上げていた。そして次第に、文字は奔流となり、視界を埋め尽くす。前後左右、上下、あらゆる空間を埋め尽くす文字たち。私は次第に、文字たちと、一つなっていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る