草葉の陰
しばらく、
恩に報いたいという気持ちはある。あるのだが、どうすれば十分に報いることができるのか、見当もつかない。
彼らと共に働くことができれば、どんなに良いかと思う。しかし、何も持っていない燕心が混ざったところで、迷惑をかけることはあっても、助けになることはないだろう。
自分の人生がまったくの浪費だったという認識が、重くのしかかってくる。
失敗作は、廃棄されなければならない。
失敗作が入り込めば、そこも失敗作になってしまう。
失敗作が取り込めば、それも失敗作になってしまう。
失敗作を拾うべきではなく、失敗作に与えるべきでもない。
失敗作は、廃棄されなければならない。
燕心は、夕飯時の前の夕闇の中へ、誘われるようにフラフラと出て行った。
何も考えないようにして、ただ歩いた。一歩一歩、踏み出す足で、頭の中をウジのように跳ね回る嫌味な思考を踏み潰すのを思い描いた。
「うぅ、うぐっ」
時折、嗚咽のような呻き声が漏れたが、目は乾いていた。体から水分がすっかり抜けてしまったような、不快な身の軽さがあった。
タン……タン……タン……タン……靴底がアスファルトを打つ音が、家々の壁の間でこだまする。
不意に反響が途絶えた時、ギュアアァァァッ! と激しい音が響き渡った。
驚いて顔を上げると、信号の無い交差点の中に踏み出していた。激しい音は車の急ブレーキ音だ。
車の中で、何が起きたか理解できていない様子の乗客が目を白黒させていた。
燕心は言葉も出せず、車に向かって頭を下げてから、走って逃げた。
息が切れて立ち止まって、燕心は交差点の方角を振り返った。
恐らく自動運転車だろう。運良くレーダーか何かが燕心に気付いて、それで止まってくれたのだ。もし、人間の手による運転だったら、燕心は挽き肉になっていたかもしれない。
死んでいたかもしれない。
激しかった心臓の動きが急に静かになったような気がした。
動転していた頭が、すっと冷え切った。
失敗作を処分するチャンスだった。
燕心は、また歩き出した。
このように、様々なチャンスを逃し続けてきたのではないか? そう思うと、ウジが激しく跳ね回り始めた。
あの時を、あの時を思い出してみろ。どうだ、あの時だ。そうだ、思い出してみろ。そうそう、あの時はどうだった?
「ううぅぅぅ、あぁっ……!」
こめかみを拳で殴りつけた。もう一度殴りつけた。痛みで唇が震えたが、もう一度殴りつけた。
今、ウジが跳ね回る感覚を紛らわせることができるものは、痛みしかない。
こめかみに指の骨を押し付け、痛みが途切れないようにする。
そうして歩いて、遊具の少ない寂れた公園に行き当たった時には、夕闇は完全に夜闇になっていた。
つい出てきてしまったが、悪いタイミングで出てきてしまった。厄介になっている身で、このうえさらに迷惑などかけられるものではない。
連絡しようにも、連絡手段が無い。
できるだけ早く、帰るしかないだろう。
帰ろうとして、膝が笑っていることに気付いた。手も震えている。呼吸が落ち着かなくて、体がだるい。燕心は、一旦長椅子に座り込んだ。
走ったせいか? 歩きすぎで疲れたのか? それとも、悪化に悪化を重ねている精神の状態が重石になっているのか?
街の中で野垂れ死になど、笑い話にもならない。どうにかしなければと思うが、体の状態は一向に改善しない。
無理矢理にでも立ち上がり、這ってでも帰るしかないだろうか。
そう考えていると、足音が聞こえてきた。顔を上げて確認するのも億劫だった。
「こんばんは。君、大丈夫か?」
若い男の声が挨拶してきた。のろのろと顔を上げると、ビニール袋を提げた男が、燕心を覗き込んでいた。
「燕心君、かな?」
「すみません……どこかで、会いました?」
男は「良かった」と言って笑った。
「俺は電脳水産会の、知り合いみたいなものでさ、君の話は、みんなから聞いてたから、そうじゃないかと思って」
「そうでしたか」
「隣、良いかな」
燕心は頷いて答えた。
男は隣に座り、ビニール袋からコンビニのおにぎりを出してきた。海苔ではなく、ベーコンが巻いてある変わり種だった。
「これ、食べないか?」
燕心は反射的に断ろうとしたが、男は引かなかった。
「遠慮はいいから。食べないと動けないぞ」
「え?」
「見ればわかるよ。俺もあちこち歩き回ってた時があってさ、その途中で動けなくなったことがあった」
「その時は、どうしたんですか?」
男は苦笑いした。
「近くにコンビニがあったんだ。それで、金は後で持ってくるから、食べ物をくれ。一時間以内に戻らなかったら警察でも何でも突き出してくれて良いからって頼み込んだ」
燕心は少し笑ってしまった。
「それでおにぎりと水をもらって、後で金を持って行ってさ、よくまぁ信じてくれたと思うよ。だから、まぁ気にしないで食べな」
「でも、俺、お金も何も無いですよ」
男はまた苦笑いした。
「俺だって知り合いが世話してる子から金取ったりしないよ。それ食べて、一旦、その、ゼロにしなきゃいけないってところから離れな」
「それじゃあ、ありがとうございます。いただきます」
燕心は、おにぎりと水をもらって、食べた。
手足の震えは、完全には止まらなかったが、動けるぐらいには改善した。
「顔色が良くなったな」
「はい、ありがとうございました。これで帰れそうです」
「ついでだ。送ってくよ」
「そこまでお世話になるわけには――」
「良いんだ。どうせ通り道だから」
ゆったりとした帰り道、男はポツポツと燕心に話しかけてきた。
「あそこ、良いところだろう?」
「そう、ですね。俺には、もったいないくらい」
男は、唇を歪めて変顔を作った。
「そんなことはないさ。いや、そうだな……この世には、相応しいものの方が少ないって言ったら良いのかな」
燕心には、男の言葉の意味が、よくわからなかった。
「俺も、いろんな、俺にはもったいないものをもらってきた。例えば、この心臓、もらいものなんだぜ」
燕心が目を丸くすると、男はいたずらの成功を喜ぶように笑った。
「それで思ったんだ。仮に恩返しができたとして、これで全部返しました! さよなら! っていうのも、なんか違うんじゃないかなって」
「ああ」
男に言われた言葉が、燕心の中でまとまった。
「それで、さっき、ゼロにしなきゃいけないってところから離れろって」
男は満足そうに頷いた。
「最終的にはトータルで赤字かもしれない。でもところどころで出した黒字に、意味があるってこともある。そうだ、素晴らしき哉、人生! って一九四六年の映画、知ってるかな」
燕心は首を振った。
「そうか、水産会の誰かに借りられると思うから、一度見てみると良いよ。俺たちの人生は映画ほどドラマチックじゃないけど、だからこそ、なんとなく、何かの助けになってたりするんだ」
「はぁ」
マヌケな声が漏れた。
「金を貸すのに似てるのかなぁ。貸すなら、返って来ないと思えって言うだろ。だから俺も、返って来なかったら困るようなものは出さない。おにぎり一個、水一本、それで恩に着てくれるなら、上々だ」
そうして話している間に、あの家に前まで来た。
「ここか」
「そうです。あの、本当に、ありがとうございました」
「いいってことよ」
男はひらひらと手を振って、そのまま歩き去ってしまった。
玄関のドアを開けるには、ちょっとした決断が必要だったが、開けてみると、あの微笑む住人達が、何も変わらず「おかえりなさい」と言って、食卓に招いてくれた。
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